向山館
向山館([籠手田城 周辺城郭])
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向山館の口コミ情報
2025年11月24日 龍馬備中守【】
長崎県松浦市の御厨町里免にある【向山館】♪北松浦半島の北部に立地し、龍尾川流域に位置します。北部は伊万里湾に面し、南部に石森山・二ッ岳が聳え、西端には坂瀬川が流れます。地名の御厨は、皇室・神社などの御供所『みくりや』に由来し、西松浦郡・南松浦郡・北松浦郡に及ぶ、字野御厨荘の一部でありました。
小字名として、坊ノ山と残ります。
この向山館と御厨の関係は不明ではありますが、宇野御厨荘内であったかと思われます。
先に述べておくと、向山館の築城、城主は不明です。が、長崎県の中近世城郭跡調査では、シッカリ中世と記載されています。
さて、この御厨の地名は、鎌倉期から御厨荘などとして現れますが、これは宇野御厨の事を指し、現在の御厨とは、直接繋がりません。が、向山館のある現・御厨の地名、地域を含むと考えて良さそうです。つまり、向山館のある場所も宇野御厨荘だったと思われます。弥生時代からの遺跡が多数発見されているこの場所では、同様に多くの遺物も検出されていて、実際、現・御厨は壱岐、対馬を挟み、朝鮮半島に近い場所である為、当時の交易の痕跡も含め、人々がこの地に繁栄した証拠が残ります。古墳時代以降は、よく分かっていませんが、こういった流れを組み、宇野御厨荘は、この繁栄を元に成立したのかもしれません。
荘園域は、松浦や五島、伊万里など、広範囲となっています。このエリアと言えば、やっぱり松浦党でありますが、松浦党の祖と呼ばれる源久は、延久元年(1069年)現在の松浦市今福町に下向し、土着したと伝わります。以後の松浦党の諸氏は源久を祖とし、宇野御厨荘一帯に土着し、武士団を形成して、西北九州で絶大なる影響力を持つ様になっています。
時を下り、鎌倉期には『御厨熊徳』なる人物が見え、弘安4年(1281年)宇野御厨の預所から、無主の荒野1町を給田として与えられていて、すでに今日へ繋がる『御厨』の地名があった事が考えられます。御厨熊徳なる人物が何者か?判りませんし、向山館との直接的な関係は判りませんが、この地の名を名乗った豪族がいたという事は、何か繋がりがあったのかもしれません。
というのが、向山館の空堀の規模はどう考えても、戦国時代の規模の掘り方ですし、虎口の造り方も同様に戦国時代のものなので、その子孫が繁栄していたのかなぁ〜?と考えてしまいました。いずれもやっぱり不明なのです。
南北朝期に入ると、松浦党は地域支配の体制を強化しています。永徳4年(1384年)下松浦一族一揆契諾状には、「〈御厨〉三河守守」、「〈御厨坂本〉源宥」の当地を本拠とする土豪名が残り、室町期に入ると、御厨氏は、盛んに朝鮮貿易を行っています。御厨氏は松浦党であり、その一族なのでしょうが、不明点が多すぎて、ギブアップですw









