石田三成陣
石田三成陣([名護屋城 周辺城郭])
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石田三成陣の口コミ情報
2024年06月25日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県唐津市の鎮西町にある【石田三成陣】♪名護屋城を取り巻く150余の陣跡の一陣となります♪豊臣政権下では奉行として活躍し、五奉行のうちの1人として、余りにも有名な石田三成です♪この文禄慶長の役の際も勿論、活躍している石田三成です♪
名護屋城には、秀吉が通る主道、太閤道(唐津〜名護屋城まで)があるのですが、勿論、その太閤道の岐路にあります♪
筑紫広門陣の真北にあり、更に北には結城秀康陣があります♪
石田三成は文禄元年(1592年)からの文禄の役で、朝鮮へ渡海(2000騎)しています♪増田長盛や大谷吉継と共に、漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務めました♪文禄2年(1593年)碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加し、その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしました♪
5年後の慶長2年(1597年)慶長の役が始まると、国内で後方支援に徹しています♪その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に、在朝鮮の諸将達が独自に戦線縮小を提案したことに激怒した豊臣秀吉が、参加した大名を咎め、所領の一部没収などの処分を下す事件が起こっています。。この事件で石田三成は、豊臣秀吉に諸将達の動きを報告したとされ、黒田長政、蜂須賀家政、加藤清正などとの間に溝を深めていった…とも云われています。。後の石田三成の大坂屋敷を襲撃された『石田三成襲撃事件』や、関ヶ原の合戦などに繋がっていったのでしょう…。。。
さて引き続き慶長の役です♪慶長4年(1599年)予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となることが決定していた石田三成。しかし、慶長3年(1598年)豊臣秀吉が没した為に、この計画は実現せず、戦況は変わり、戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力しました。
石田三成陣は現在、私有地となっている為に写真が少なめですw太閤道に面し、高まる丘陵地はやはり、陣所に適した場所なのでしょう♪
『はじまりの名護屋城』という題で、信長の野望?のイベントがやっていた為、行ってみました♪自分は信長の野望はやっていませんが、佐賀県でこの様なイベントをやっているという事が嬉しくって嬉しくって♪