鍋島直茂陣
鍋島直茂陣([名護屋城 周辺城郭])
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鍋島直茂陣の口コミ情報
2023年06月30日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の唐津市にある【鍋島直茂陣】♪名護屋城の陣城シリーズとなります♪今回の陣城、鍋島直茂陣は、羽柴秀保陣の南東側の丘陵地、標高70mに存在します♪
串浦のもっとも奥まった場所に立地し、羽柴秀保陣とは同じ尾根続きで直線300m位の場所です♪鍋島直茂は文禄・慶長の役で更に頭角を現した1人でしょう♪この文禄・慶長の役以前より、鍋島家は龍造寺家に変わって佐賀を領知していました♪
鍋島直茂は名護屋城が自分の領地内にある為、その造営に積極的に参加し、この役の際には渡海して武功を立てて豊臣秀吉の信頼を大きく獲得し、勢力を拡大する事に成功しています♪
文禄・慶長の役の出兵の際には龍造寺家臣団を率い、加藤清正を主将とする日本軍の2番隊の武将として参加しています♪
この文禄・慶長の役を経て、龍造寺家臣団の鍋島直茂への傾倒が一層促進されました☆
この時点で龍造寺政家との不和が噂されるようになっていて、文禄4年(1596年)には龍造寺政家の毒殺を企図しているとさえ噂されてしまい、鍋島直茂は噂を否定する起請文を提出しています☆
この文禄・慶長の訳において鍋島直茂は一度も帰国する事なく、慶長2年(1597年)になってから子息の鍋島勝茂と交代で日本に帰国しました♪鍋島加賀守直茂→1万騎♪この戦い後に多くの陶工を連れ帰り、有田焼などの陶磁器の生産を盛んにしました♪
残る遺構としては壇上にした郭の側面に石垣が残ります♪標高70.5m付近の丘陵地を陣城として加工しています♪北から南側にかけて武者走り状の小さい郭を配置し南側(現在畑)にも削平地を付け高低差を造ります♪1万騎を収容する事を考えたら、広く無いとですね♪豊臣秀保陣との間に深い切通しがありました♪方角的には串浦湾に繋がりそうな♪この場所を通り船に乗り込んだのかなぁ〜?妄想が広がりました♪