徳川家康陣
徳川家康陣([名護屋城 周辺城郭])
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徳川家康陣の口コミ情報
2024年07月05日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県唐津市の鎮西町にある【徳川家康陣】♪名護屋城を取り巻く150余の陣跡の一陣となります♪ 『はじまりの名護屋城』というイベントに出陣♪
徳川家康と言えば三河国の国人土豪・松平氏の内、安祥松平家の家柄であり、織田信長、豊臣秀吉と並び三英傑の1人として、天下人となり、徳川幕府の母体を築いた超有名武将ですね♪
徳川家康は、2つの陣を構えていて、1つは呼子殿ノ浦に構えた『別陣』と名護屋城の西側、竹ノ丸と呼ばれる場所に築かれた『本陣』♪
名護屋城に、2つの陣を構えた例は大和中納言秀保陣のみであり、中々珍しいケースとなっています♪名護屋浦の開口部の西岸に立地した、徳川家康陣は名護屋浦を守備する重要な役割を担いました♪
徳川家康が約1万5000人の兵を率いて名護屋城に滞在したのは、1592(文禄元)年4月から1年4か月間とされます♪江戸の留守居は三男の秀忠に任せています♪当時の徳川家康は242万石の大名で、豊臣秀吉に次ぐ実力者でありました♪名護屋城本丸の北東『竹ノ丸』と呼ばれる場所に陣を置き、その東、名護屋浦を挟んだ対岸の呼子町殿ノ浦に別陣を築いています♪
名護屋に滞在中、徳川家康は渡海する事はなく陣に留まり講和交渉に訪れた明の使節の応接を前田利家と共に担当したと云われています♪
石積み、高まる徳川家康陣(竹ノ丸)下は空堀が掘られていました♪現在は道路になっています♪北側には切通しがあり、名護屋浦へ直ぐに出れそうです♪
2021年08月12日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の唐津市にある肥前・名護屋城・【徳川家康陣跡】☆後の天下人の徳川家康が文禄・慶長の役時に築いた陣城です☆
三英傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康♪
徳川家康は『泣かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』で有名ですね☆
徳川家康はこの時は武蔵国・江戸城主で24万石の大名となっています☆
文禄の役の際は徳川家康は渡海はしていません☆名護屋城に在陣しただけと記録が残ります☆この時に伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣が徳川家康の指揮下にありました☆因みに慶長の役の際も同様に渡航はしてません☆
徳川家康の陣は2つあって、この西側が本陣、東が別陣となっています♪
この本陣には堀があった様で今は埋められています☆名護屋城の陣城に堀を構えた大名は少なくて、徳川家康の警戒ぶりが伺えますね〜☆