那須資晴陣

那須資晴陣([名護屋城  周辺城郭])

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那須資晴陣の口コミ情報

2025年12月05日 龍馬備中守【】


佐賀県唐津市の鎮西町名護屋にある【那須資晴陣】♪文禄・慶長の役の際、太閤・豊臣秀吉が築いた巨大城郭である名護屋城を取り巻く、陣城の1城であります。那須資晴陣とされる場所は太陽光パネルが並び、農道も貫通しており、現在遺構物は確認出来ませんでした。

さて、那須氏21代当主である那須資晴は、下野国・烏山城主であります。弘治3年(1557年)那須氏20代当主である、那須資胤の子として誕生しています。天正6年(1578年)小川台の戦い(北条VS反北条連合軍)で父の資胤と共に、反北条軍として出陣しています。
天正11年(1583年)父の資胤が死去した直後に、常陸国の佐竹義重と宇都宮国綱が那須領に侵攻するも、これを撃退しています。

那須資晴の代から那須氏は北条方への姿勢を強め、反北条連合の佐竹・宇都宮と対立を深める事になります。天正13年(1585年)塩谷義綱攻撃(薄葉原の戦い)の為、薄葉原に進出し、宇都宮氏・塩谷氏の軍を破っています。同年、那須氏の重臣である大関高増による那須家臣・千本資俊暗殺計画を了承して、千本氏の勢力を解体しています。※千本氏は那須七騎の1つとして有名です。

その後の那須資晴は、佐竹氏や結城氏、宇都宮氏らと敵対しつつ、後北条氏や伊達政宗などと手を結び、那須氏は寡兵ながらも奮戦しています。そして豊臣秀吉の勢力が東に伸びてくると、これに敵対姿勢を見せています。
その結果…天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかった為、改易となりましたが、那須家・重臣の大田原晴清の陳謝で、那須資晴の子の那須資景に5千石の所領が与えられ、一先ず家名存続は許されました。
この改易が覆った理由としては、奥州における一揆勢力と那須氏再興の動きが連携する事を、豊臣政権が危惧したからだとも言われています。

その後、秀吉より罪を許され、資晴自身にも5千石が与えられました。文禄の役においては名護屋城を守備し、実際に朝鮮には渡海していません。那須太郎(資晴) 二百五十騎。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは子の那須資景が東軍に属した事で、加増を受けます。
慶長7年(1602年)那須資晴も徳川家康の御伽衆に抜粋され、1千石を加増されて所領は6千石となりますが、慶長15年(1610年)死去。
子の那須資景は、父・那須資晴の遺領も合わせ、石高が1万4千石に達して大名となり、那須藩を立藩しました。那須資景の養子である那須資弥の代に、那須資晴の悲願であったと言われている旧領・烏山城に復帰しています。

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