増田長盛陣
増田長盛陣([名護屋城 周辺城郭])
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増田長盛陣の口コミ情報
2024年09月30日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県唐津市の鎮西町波戸にある【増田長盛陣】♪波戸の西側、前線の高台が陣所の場所です♪現在は国民宿舎に隣接する、駐車場の西側に陣所は構えられていました♪
さて♪この増田長盛ですが、秀吉による中国攻めや、小牧長久手の戦いなど多くの戦に従軍し、活躍しています♪特に外交交渉などに手腕を発揮しており、豊臣政権下では五奉行の1人として有名で、内政面を支えました♪
文禄・慶長の役前後の動きですが、天正18年(1590年)、小田原征伐で里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と、知行宛行状の発給を行っています♪後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する、豊臣政権の取次となっています♪この年、京都の三条橋を架けたりもしています♪その後、近江水口城を与えられ、翌年の天正19年(1591年)、長束正家と共に近江国で検地を行っています♪
文禄元年(1592年)、文禄の役では、石田三成・大谷吉継と共に朝鮮に渡り、漢城に駐留。
奉行として占領地統治や、兵站に携わるなど活躍しています♪増田長盛は三千騎を持ち、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加しています♪
文禄4年(1595年)、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する『秀次事件』が起きると、長束正家と共に、秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしています。文禄5年(1596年)には、サン=フェリペ号事件の処理で、積荷没収のために土佐に派遣されています。
秀吉に忠実に従った増田長盛であります♪
関ヶ原の戦いでは西軍側として活動を行い、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど、精力的に活動しました。が、しかしその一方で、石田三成と大谷吉継の謀議があった事などを、家康の元にただちに密告したり、中々の食わせ者な一面を見せています。
関ヶ原の戦いには参加せずに、毛利輝元と共に大坂城守備部隊として、西の丸に兵3000を率いて駐屯。東軍の勝利が確定すると、出家し謝罪。大坂城の西の丸で沙汰を申し渡され、改易となっています。
家康はこの一連の動きから、増田長盛の豊臣家に対する強い忠誠心や、表裏者としての一面を警戒したのでしょう。その後、高野山に追放された増田長盛は、現さいたま市の岩槻城の城主・高力清長に預けられています。
元和元年(1615年)に勃発した『大坂夏の陣』では、息子の増田盛次が大坂城に入城していた事が発覚。この件について家康に咎められ、増田長盛は責任を取って自刃。71年の生涯に幕を閉じています。。