島津義弘陣

島津義弘陣([名護屋城  周辺城郭])

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島津義弘陣の口コミ情報

2024年06月27日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


佐賀県唐津市の鎮西町にある【島津義弘陣】♪名護屋城を取り巻く150余の陣跡の一陣となります♪『はじまりの名護屋城』というイベントに出陣♪

島津義弘は『島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)』の次男坊です♪戦国時代、薩摩国の島津家といえば、三州(薩摩、大隅、日向国)を統一し、更に九州統一をも目指していました♪九州三強の二角であった肥前国の龍造寺隆信、豊後国の大友宗麟を下し、最後まで豊臣秀吉に抵抗した九州の名族であります♪
豊臣政権に組み入れられた後も、薩摩一国を安堵されています♪

朝鮮出兵の際の島津家は、秀吉の決めた軍役を十分に達成する事ができなかった事と、重臣の1人・梅北国兼が、名護屋に向かう途中の肥後国で反乱を起こしてしまった事(梅北一揆)により、秀吉から不服従姿勢ととられてしまいます。。秀吉は代表として歳久(三男坊)の首を要求し、島津義久が歳久に自害を命じているのは歴史の通りです。。
※梅北一揆は、葦北郡を治める肥後国の熊本城主・加藤清正の朝鮮出征中の隙を突く形で、梅北国兼が佐敷城を占拠したものです。

一方、島津義弘軍の朝鮮出兵での活躍は、慶長3年(1598年)泗川の戦いにおいてです♪朝鮮半島の泗川で、島津義弘が率いる島津軍2千兵(7千とも)が、明の武将・董一元の率いる10万(3万とも諸説あり)明・朝鮮連合軍と戦って撃退しています♪
絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍は勝利し、その名を轟かせています♪
泗川倭城に籠る島津軍の元へ、明・朝鮮連合軍が攻め寄せます。この戦を一気に終わらせたかった明・朝鮮連合軍は、小西軍の順天倭城、加藤軍の蔚山倭城、更には島津軍の泗川倭城に対して同時攻勢。
この動きを察知した島津義弘は、配下にして守備させていた泗川古城・永春・昆陽・望晋の将兵に、自身の居る泗川新城へ集結するよう命じました。泗川古城の主将には、川上忠実を立てています。この内、泗川古城に配置されていた将兵は撤収する事が遅れた為に、明・朝鮮連合軍に包囲されます。川上忠実は少数ながら頑強に抵抗し、重傷を負いながらも、泗川新城に退却する事に成功しています♪

泗川新城に集結した島津軍は徹底抗戦の構えを見せ、泗川新城に強固な陣を張り、伏兵を配置しました。島津軍の得意な釣り野伏せです。
連合軍の攻撃に対し島津義弘は大量の鉄砲を使用したり、鉄片や鉄釘を砲弾の代わりに装填した大砲等も使用しています。

明・朝鮮連合軍の大軍に囲まれた島津軍ですが、籠城戦を決め飛び道具を駆使して、敵軍を集中射撃して凌ぎます。
戦闘が続く中、明軍の火薬庫に引火し爆発。火薬の煙が視野を遮った事で、明・朝鮮連合軍は混乱に陥っています。
この機に乗った島津軍は、城門を開け放ち打って出ました。島津義弘は伏兵を出動させて、敵の隊列を寸断し混乱させ、義弘本隊も一気に攻勢に転じました。島津義弘、自ら4人斬り、息子・忠恒も槍を受け負傷するも7人斬るなどして、奮戦したと伝わります。釣り野伏せが功を奏し、混乱した明・朝鮮連合軍は壊滅的被害を受けています。島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、戦闘は幕を閉じました。

『鬼島津』の名前は大きく轟いた事でしょう♪
その後も薩摩国の所領は譲らずに、関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗戦しながらも、江戸時代、幕末とそのまま薩摩国を安堵をされているのは、島津家の力の強さを物語ります♪
因みに朝鮮出兵では鬼島津では無く、『怕ろし(おそろし)のしまんず』となっています。

陣跡は波多岬の先端、突出した丘陵地に位置します♪東側は増田長盛陣、北条氏盛陣、生駒親正陣、佐竹義宣陣と続きます♪陣跡を区画した石塁が残ります♪

2022年02月21日 RED副将軍


島津義弘が朝鮮出兵に際して名護屋城に着陣した際の陣跡。

オススメ度 ★★★★⭐︎

1593年の秀吉による朝鮮出兵に際して島津義弘が造営した陣城。
文禄の役では、島津義弘も朝鮮に渡海しており、およそ1万1千人を率いたとされています。
渡海時には、国元の薩摩からの船が到着せず賃船で釜山に渡り、釜山から北上し江原道で転戦、戦況の転換や講和交渉の開始とともに朝鮮半島南岸部に撤退しています。
1597年の慶長の役でも再び朝鮮へ渡り、全羅道や慶尚道を転戦。
1598年の泗川城の戦いでは、島津軍が守る泗川城に攻め寄せた明国提督の董一元の大軍を撃破。露梁海戦では、朝鮮水軍の将李舜臣を撃破するなどの戦果をあげています。

見所
郭は石塁、土塁で区切られますが、特に石塁の崩落は激しく、至るところにビニールシートがかかり、土嚢で補強をされています。
名護屋城周辺の陣城群の中で最大規模を誇ります。

2021年05月18日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


佐賀県の唐津市にある島津義弘陣跡☆文禄・慶長の役時に薩摩・島津家が陣を張った陣城になります☆

島津義弘と言えば島津4兄弟の次男で薩摩国・伊作城で誕生しました☆この文禄・慶長の役の朝鮮出兵時にここ名護屋に着陣し名護屋城の北西側に陣城を構えました♪

文禄の役では島津義弘も渡海していて島津軍は1万人で攻め込んだと言われています☆渡海時には薩摩国からの船が到着せず賃船で釜山に渡り家臣の川上忠智に「日本一の大遅陣」と報じられています☆
朝鮮半島に到着した島津軍は釜山から北上し江原道で転戦☆戦況の転換や講和交渉の開始をおこないながら朝鮮半島の南岸部に撤退しています☆

慶長の役の時も再び朝鮮半島へ渡りヤッパリ転戦☆泗川城の戦いでは島津義弘が守りを固める泗川城に攻め寄せた明国提督の董一元の大軍を破り更に露梁海戦では朝鮮水軍の将李舜臣を破るなど獅子奮迅の活躍を見せました♪

陣城には石積みが残っていて城内を区画しています☆陣城先端部の海側からは馬渡島、加唐島、壱岐島が見えて素晴らしいローケーションになってます☆行った時間が夕方だったので素敵な夕陽に出会えました♪

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