来島通之陣

来島通之陣([名護屋城  周辺城郭])

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来島通之陣の口コミ情報

2023年06月02日 龍馬備中守【】


佐賀県の唐津市にある【来島通之陣】♪豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役の際に築かれた名護屋城♪全国から集まった130以上の大名が集結したこの名護屋浦の地です♪名護屋城の半径3キロの圏内には有力な大名が犇めき会います♪

来島通之(通総)は来島村上一族です♪
村上氏と云えば瀬戸内海の海賊集団ですね〜♪文禄・慶長の役で朝鮮半島へ渡海したのは、村上水軍の将、村上通康の四男、来島通之(秀吉が『来島、来島』と呼び重用した為、来島姓を名乗ってます)です♪

永禄10年(1567年)父・来島通康の死没を受け、幼くして伊予国・来島城主となり村上吉継・村上吉郷ら一族の補佐を受けています♪が、元亀元年(1570年頃)主家の河野氏と不仲になっています☆河野氏とは伊予国の大名です☆来島通之の生母が主君である河野弾正少弼通直の娘であり家督を相続した事で河野氏の下で活動をしていました♪が、河野氏から独立する姿勢を見せ始める来島氏です☆

さて♪天正20年(1592年)文禄の役での来島通之は当初、四国勢を率いる福島正則の五番隊に所属して忠清道に進撃して陸戦に従事しますが、朝鮮水軍の活動が活発になると水軍に再編され朝鮮水軍と戦っています☆

休戦期を挟み慶長2年(1597年)慶長の役では水軍として編成された後、南原城の攻略戦では600人を率いて陸軍として戦闘☆
その後、再度水軍として突撃して全羅道沿岸を掃討する為に進撃しました☆鳴梁海戦では先鋒となって海峡に突入しましたが、潮流などの地の利を生かした朝鮮水軍の板屋船の攻撃を受けて37歳の若さで戦死しちゃいました☆

殿ノ浦西に所在する来島通之陣♪北には徳川家康別陣、南には伊達政宗陣に挟まれる台地上に立地しました♪現在は住宅地、畑がその場所となります♪土塁なんじゃ無いかな〜?と思われる物はありますが、コレが遺構なのかは…不明です☆

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