長谷川秀一陣
長谷川秀一陣([名護屋城 周辺城郭])
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長谷川秀一陣の口コミ情報
2026年10月01日 龍馬備中守【】
佐賀県唐津市の鎮西町名護屋にある【長谷川秀一陣】文禄・慶長の役の際、太閤・豊臣秀吉が築いた巨大城郭である名護屋城を取り巻く、陣城の1城であります♪
長谷川秀一は、織田氏家臣・長谷川与次の子であり、織田信長の側近として頭角を現しました。その後は、豊臣秀吉に仕えた武将であります。尾張国出身で、若い頃から信長の小姓として仕え、奉行や代官など行政面でも活躍しています。
本能寺の変の際には、堺見物中だった徳川家康一行の脱出(神君伊賀越え)を支援するなどし、活躍♪その後は秀吉に仕えていて、天正11年(1583年)秀吉と柴田勝家が対立した際には秀吉を支持し、柴田方に味方する、滝川一益領の伊勢国峰城を攻撃しました。同年中に所領の加増があったか、近江肥田城主となっています。同年10月23日には、秀長・堀秀政と共に大坂の津田宗及の茶会に参加していて、この時より名乗りが『長谷川藤五郎秀一』に変化しています♪九州征伐や小田原征伐にも従軍していて、後には豊臣姓を与えられ『羽柴東郷侍従』とも呼ばれました。
文禄・慶長の役での長谷川秀一は、越前国東郷15万石の大名で、文禄の役では渡海して戦っています。文禄元年(1592年)朝鮮出兵では、約5000の兵を率いて朝鮮半島へ渡海し、晋州城攻めなどに参加し、武功を挙げたと伝わっています。しかし、朝鮮で病に倒れ、文禄2年(1593年)または文禄3年(1594年)に陣中で死去したとされます。史料によって没年に若干の違いがありますが、『朝鮮出兵中に病死した』といいます。その後の慶長2年(1597年)から始まる慶長の役には参加していません。名護屋城から南側、長谷川秀一陣は木下利房陣と隣接、同尾根上に築かれていて、石積みがあり、虎口が明確に残ります♪









