加藤嘉明陣
加藤嘉明陣([名護屋城 周辺城郭])
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加藤嘉明陣の口コミ情報
2023年06月03日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の唐津市にある【加藤嘉明陣】♪豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役の際に築かれた名護屋城♪全国から集まった130以上の大名が集結したこの名護屋浦の地です♪名護屋城の半径3キロの圏内には有力な大名が犇めき合います♪
徳川家康別陣の北方で小字は『辻』の先端部の岬を陣域としています♪呼子大橋の唐津側の付け根部分です♪現在の小字辻の場所とは道で遮断されていますが、元々は尾根として繋がっていたと思われます♪
加藤嘉明は豊臣秀吉の子飼衆の1人として♪更には賤ヶ岳の七本槍・七将の1人として有名ですね♪天正15年(1587年)九州征伐や天正18年(1590年)小田原征伐などでは、淡路水軍を率いて参加していて、常に秀吉を支えた武将様という訳であります♪
文禄の役の際には淡路国・志知城主・1万5千石の大名として淡路水軍を率い渡海♪
1000兵を率い出征し、加藤嘉明は船大将・九鬼嘉隆に次ぐ副将格として淡路水軍を率いて転戦しました♪
文禄3年(1594年)小西行長と明の沈惟敬との講和交渉が始まり、加藤嘉明ら諸将の一部は一時帰国しています♪この時の功により淡路国内に1700石増封されました♪
更には伊予国・正木(愛媛県松前町)で増封され、併せて6万石と領地を増やしました♪
また別に蔵入地4万石の管理も命じられたので、居城だった志知城を引き払い伊予国・正木城に移っています♪江戸時代に入ると本拠地を正木から勝山に移していて、これを機に地名を松山と改名もしています♪松山城を築城したのは加藤嘉明です♪
更に加藤嘉明は家臣・足立重信に命じ伊予川の河川改修を行い城下町も拡張させました♪因みに足立重信に因んで後には重信川と呼ばれています♪
時は進み小西行長と明の沈惟敬との講和交渉は決裂☆慶長2年(1597年)再び加藤嘉明は朝鮮へ出征し慶長の役では6番隊に属して1600兵(主に水軍)を率いました☆秀吉に献上する為の虎を狩って送っていて礼状を受けています♪
日本軍は戦勝していたのですが、その士気は上がらず明の大軍が接近すると聞いた小西行長ら諸将は順天城より撤退する事を主張しますが、加藤嘉明は1人これに強く反対していて秀吉の裁可を仰ぐ事に…
秀吉は加藤嘉明を激賞して小西行長を叱責☆加藤嘉明は更に3万7,000石を賜り遂には10万石取りの大名となっています☆
後には陸奥国・会津藩の初代藩主にも取立てられています☆
遺構は石垣、郭、井戸ですが、海に直結する場所があります♪恐らくこの場所から船にのり、朝鮮半島を目指したんだろうなぁ〜と思われる場所が残ります♪