佐竹義宣陣

佐竹義宣陣([名護屋城  周辺城郭])

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佐竹義宣陣の口コミ情報

2024年09月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


佐賀県唐津市の鎮西町波戸にある【佐竹義宣陣】♪波戸の東側で、海に突き出た小山の上が佐竹義宣陣と伝わります♪現在、天狗神社の境内となった岬の上に築かれています♪

文禄・慶長の役の付近の佐竹義宣の動きは、小田原征伐時に秀吉の元に参陣したことです♪天正18年(1590年)、石田三成の指揮の下、忍城を攻めています。佐竹義宣は秀吉自らが京を出立したという知らせを受け、下野国・宇都宮国綱に対応を相談した上で、宇都宮国綱らを含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かっています。佐竹義宣は北条方の城を落としつつ、小田原へ進軍。秀吉に謁見して臣下の礼を取りました♪佐竹義宣は得意の土木量を持って、忍城水攻めの際の堤防構築に従事しています♪

小田原征伐後の佐竹義宣は、伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について秀吉から知行として認められ、奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計21万貫余(35万石余)を安堵する旨の朱印状を与えられています♪是にて、秀吉にお近づき成功した佐竹家でありました。

知行を安堵された佐竹義宣は、秀吉の権威を笠に、江戸氏・常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人領主達(いわゆる南方三十三館、主として鹿行両郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪)を討伐するなど領主権力の強化を進め、常陸国全域の支配権確立に成功しています。天正19年(1591年)には秀吉から羽柴姓を与えられています♪

文禄の役が始まる前の年、天正19年(1591年)、秀吉が唐入りの為に各国大名に出兵を命じ、佐竹義宣も5千人の出兵を命じられました。この軍役は文禄元年(1592年)翌年の文禄2年(1593年)まで続き、当初の5000人の軍役は途中で3000人に軽んぜられ『御軍役弐千八百六十九人』と名護屋陣中より報告されています。
佐竹義宣は文禄元年(1592年)、常陸国・水戸を出発し、名護屋城に到着しています♪文禄2年(1593年)、朝鮮へ渡るよう命じられ、先陣の佐竹義久が1440人を率いて名護屋を出航しています。しかし、佐竹義宣に対して渡海を見合わせる様に連絡があり、佐竹義宣は遂には、朝鮮に渡る事はありませんでした。

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