真田昌幸陣
真田昌幸陣([名護屋城 周辺城郭])
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真田昌幸陣の口コミ情報
2024年07月01日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県唐津市の鎮西町にある【真田昌幸陣】♪名護屋城を取り巻く、150余の陣跡の一陣となります♪『はじまりの名護屋城』というイベントに出陣♪
真田昌幸と言えば、甲斐国・武田家から始まり、信長、北条家、家康、上杉家、豊臣秀吉、秀頼と、主君を変え風向きを読む様は、『表裏比興の者』として有名過ぎます♪この表裏比興とは食わせ者・老獪の意で、武将としては最高の褒め言葉です♪真田昌幸は第四次川中島の戦いや、武田信玄の小田原攻め、天正壬午の乱、家康との戦い、関ヶ原の戦いなど、かなりの戦に出陣している猛者中の猛者でもあります♪
上田合戦では2度にわたり徳川軍を撃退した事で、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られています♪結果的に、第二次上田合戦の際には真田家の生き残りを賭けて、嫡男の信幸を東軍へ、真田昌幸と次男の真田信繁(幸村)を西軍に付かせる犬伏の別れで、関ヶ原の戦い時に真田昌幸は西軍に付いた為に改易されています。その後は慶長16年(1611年)九度山で病死してしまいました。
文禄・慶長の役の際はこの名護屋の地で1年余り過ごしていますが、渡海はしていません。
往時の真田昌幸は信濃国上田3万8千石の大名でありました♪上野国沼田の大名である嫡男の真田信幸も名護屋に陣を張り、弟の信繁(幸村)は秀吉の馬廻衆として名護屋に在陣しています♪真田安房守昌幸は700余兵を引き連れ参陣しました♪