島原城(しまばらじょう)

島原城の基本情報

通称・別名

森岳城、高来城

所在地

長崎県島原市城内1

旧国名

肥前国

分類・構造

連郭式平城

天守構造

独立式層塔型[4重5階/1626年築/破却(廃城令)]、独立式層塔型[5重5階/1964年築/RC造復興]

築城主

松倉重政

築城年

寛永元年(1624)

主な改修者

主な城主

松倉氏、松平(深溝)氏

廃城年

明治3年(1870)

遺構

曲輪、石垣、横堀(水堀)

指定文化財

再建造物

天守、丑寅櫓、巽櫓、西櫓(外観復元)、石碑、説明板

周辺の城

寺中城(長崎県島原市)[4.1km]
深江城(長崎県南島原市)[8.5km]
神代城(長崎県雲仙市)[13.0km]
釜蓋城(長崎県雲仙市)[14.7km]
山田城(長崎県雲仙市)[16.9km]
日野江城(長崎県南島原市)[18.0km]
高道城(熊本県玉名市)[19.6km]
原城(長崎県南島原市)[20.7km]
竹崎城(佐賀県藤津郡)[23.0km]
大矢野城(熊本県上天草市)[23.6km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

91 島原城

設置場所

島原城受付窓口[地図

島原城の解説文



島原城(しまばらじょう)は、長崎県島原市城内にあった日本の城。別名は「森岳城」や「高来城」。城跡は長崎県指定史跡に指定されている。

概要 

有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴である。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に袋の鼠状態になり、しかも廊下橋は防備上、矢玉が当たりにくくなるので、縄張の欠陥とも言える。同じ事例に、高松城の天守曲輪(本丸)がある。また、天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」のようになっていた。

江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた。火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、続く松倉勝家の代に領民の一揆を引き起こす一因となった。

明治以降は廃城処分となり建物などは撤去され、現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっている。

石垣と堀は江戸時代から残っている。堀では1950年代まで農家が栽培していたレンコンが根付いており、秋にレンコン掘り大会が開かれる[1]

歴史・沿革 

江戸時代

  • 1616年(元和2年) - 有馬直純が日向国延岡藩に転封になり、代わって松倉重政が有馬氏の居城であった日野江城に入城する。
  • 元和4年(1618年) - 日野江城は手狭であったので島原城の築城を開始する。
  • 1624年(寛永元年) - 島原城完成。
  • 1637年~1638年(寛永14年~15年) - 初代重政、2代勝家の圧政により島原の乱が起こる。勝家は領内を騒乱に導いた責により斬首。松倉氏は改易となる。
  • 1638年(寛永15年) - 高力忠房が4万石で入封。以後、譜代大名が4家入れ替わる。

近現代

  • 1871年(明治4年) - 廃藩置県により、島原県となる。この時の藩主は松平(深溝)家であった。
  • 1874年(明治7年) - 廃城令により、廃城処分となり土地建物などが民間に払い下げとなる。
  • 1876年(明治9年) - 天守以下建造物が破却される。本丸は畑地となり、三の丸には島原中学(現・島原高校)など学校が建ち並んだ。
  • 1960年(昭和35年) - 西櫓復元。
  • 1964年(昭和39年) - 天守復元。キリシタン資料・藩政時代の資料を展示する歴史資料館となっている。
  • 1972年(昭和47年) - 巽櫓復元。巽櫓は地元出身の彫刻家・北村西望の作品を展示する西望記念館となっている。
  • 1980年(昭和55年) - 丑寅櫓、長塀復元。
  • 1996年(平成8年) - 雲仙普賢岳噴火災害を伝える「観光復興記念館」開館。
  • 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(91番)に選定された。
  • 2016年(平成28年)2月18日 - 城跡が長崎県指定史跡に指定。
  • 2021年(令和3年)3月 - 『長崎県指定史跡島原城跡保存活用計画』を策定

遺構 

建物

城内に再移築された建造物として、御馬見所(おんうまみしょ)がある。また、搦手門であった諫早門の門扉が城内の民具資料館丑寅櫓の中で展示されている。この他、雲仙市小浜町の歴史資料館に二の丸御門が、市内本光寺町の本光寺常盤歴史資料館に三の丸にあった御茶屋常磐御殿が、それぞれ移築され現存する。

本丸・二の丸にある施設 

  • 西望記念館(巽の櫓) - 北村西望の個人美術館
  • 民具資料館(丑寅の櫓)
  • 観光復興記念館
  • 御馬見所(国の登録有形文化財)
  • 島原文化会館(https://www.shimabara-hall.jp/)(二の丸) - コンサートホール

イベント 

  • 島原城薪能(10月)
  • 不知火まつり(10月)

交通アクセス 

  • 島原鉄道 島原駅から徒歩10分

周辺 

  • 島原武家屋敷街 - 武家屋敷水路、篠塚邸、山本邸、鳥田邸、さかきばら郷土史料館、時鐘楼
  • 森岳商店街 - 青い理髪舘、猪原金物店、絃燈舎、森岳酒蔵、宮崎商店、佐久間邸跡(以上は国の登録有形文化財)

参考文献 

  • 【書籍】「定本 日本城郭事典」

島原城の口コミ情報

2024年09月21日 鯉城民部卿猿猴
島原城



層塔型天守閣が有名ですが、複数の横矢掛、高石垣、水堀、と中々の巨城ですね😲

2024年05月05日 のあ右近衛少将
島原城



駐車場が目の前なので、行きやすいです。中の展示もしっかりしていて、ただ登るだけではなく、なかなかいい感じ。最上階の眺望もいいです。推しキャラ?武将風の人がいました。何人かいるようです。

2024年05月01日 薩摩安房守義弘維新斎
島原城



島原城址へのアクセスは、もちろん車でもJRなどでも行ける観光名所。復元された天守閣近くに駐車場があるため、難なくリア攻めが可能です。
城の真下から見る天守閣もいいのですが、やはり白い天守閣に高くそびえる石垣を望むところから見るのが最高です。
明治時代になって、天守閣などを解体したとは今や残念でなりません。
城以外に時間があれば島原武家屋敷通りを訪れることをオススメします。城から徒歩約10分程度で行ける距離にあり、通りの真ん中にある水路や両サイドの武家屋敷が石垣で囲まれているため、一瞬現実を忘れる雰囲気があります。

2024年03月19日 サクラ十勝守青鬼翼徳
島原城



天守真下まで車で行く事が出来ました。天守受付ではお城に常駐(?)の3代目城主様にお迎え、案内をしていただきました。復興された天守ですが天守閣は大きくとても堂々としており、周囲には雲仙、有明海と長崎の誇る大自然に囲まれた素敵なお城でした。

2024年02月11日 龍馬太閤【備中の麒麟】
丸尾城[島原城  周辺城郭]



長崎県の島原市にある【丸尾城】♪島原藩松平家墓所があり菩提寺である本光寺の背後の標高80m程度のポッコリ小山が、その丸尾城になります♪

誰が?いつ?何の為に築城したのかは不明な点が多い城郭ですが、場所的には間違い無く、古い時代中世の有馬氏の森岳城(のちの島原城)、そして島原氏の浜の城の支城群の1城として機能したのでしょう♪
調べてみたら案の定、戦国時代、島原氏の浜の城の、山手西側を守る為に築城していました♪
天正12年(1584年)の沖田畷の戦い(有馬氏&島津氏🆚龍造寺氏)の際、丸尾城は島津家臣の部将、猿渡越中守信光が守備して龍造寺軍の鍋島直茂と激戦が行われた場所でもあります☆結果、龍造寺隆信が討死した為に鍋島直茂は兵を引きました☆
この事から、丸尾砦とも呼ばれています♪
確かに、城郭にしては規模は小さく、コレまた小さな削平地を残す程度であります♪削平地は龍造寺軍との戦闘を意識するかの様に北向きに配置されていました♪
正に砦という趣きであります♪

江戸時代には島原城を中心部として、このポッコリ小山は外郭的な役割を果たしたんでしょうね♪更に島原半島をグルリと回る千々石街道も付近を走っています♪


本光寺境内には、かつて島原城の三ノ丸にあった常盤御殿が移築されていて、現在は常盤資料館として内部が公開されています♪写真撮影はNGではありますが、松平家が持ち込んだ伏見城や丹波亀山城の縄張図であったり、長久手の戦い、長篠の戦いの絵図など貴重な資料を見る事が出来ます♪

また興味深かったのは本光寺の境内にある、『首なし地蔵様』これはキリシタン達が首を破壊したものです☆島原独特の文化、キリシタン色が強かったが故にでしょう♪

2024年02月10日 龍馬太閤【備中の麒麟】
浜の城[島原城  周辺城郭]



長崎県の島原市にある【浜の城】♪島原城が出来る少し前の戦国時代の城郭となります♪
島原城下町にある中央公園一帯に城郭は形成されていました♪雲仙火山の活動により生まれた島原半島ですが、城郭は雲仙普賢岳、更には今現在の平成新山の東裾に立地しました♪
急峻な普賢岳から島原城のある住宅地まで、なだらかに裾野が広がり、浜の城があった場所は平地が広がっていますが、往時は海に突き出した場所でもあります♪
寛政7年(1792年)『島原大変肥後迷惑』と呼ばれる雲仙普賢岳の噴火と、それに伴う群発地震等により大きな被害が出ており、土砂で埋まり今現在の様な平地が形成されています☆
島原半島は雲仙普賢岳と共に生きていると言っても過言ではありません☆浜の城周辺には、この時の被害を受けて、宝篋院印塔型の供養塔がありました☆

さて、そんな浜の城です♪築城年代は不明でありますが、島原氏が築城した平城と伝わります♪有馬氏の一族と云われている島原氏です♪戦国時代には、島原半島では有馬貴純、有馬鋻純、有馬晴純と代々、有馬氏が続き勢力を誇示し続けました♪島原氏はその先鋒として各地を転戦♪元々有馬氏は佐嘉の嘉瀬川より西側を支配地としていた為、龍造寺氏の台頭によって島原半島に押し込まれていきました☆結果的には、沖田畷の戦い(※有馬氏、島津氏連合軍🆚龍造寺氏の戦い)では、龍造寺隆信の大将首を取り、島原半島を維持しています☆

有馬氏と言えばキリシタン大名として有名ですが、島原氏もまた、そこは容認はしています☆永禄6年(1563年)島原純茂はキリスト教の布教を許可し浜の城の一角(高台)に教会を建設させています♪ただし、キリシタンでは無かったと思われます。領内に教会を建てる事により、異国との公益を考えたのでは無いか?と考えます。何故ならば…島原氏はキリシタンを迫害もしているのです。島原氏の迫害を逃れ口之津を目指したキリシタンが、嵐のため古賀氏の領地に漂着しました。それを自領に返す様に古賀氏に求めた島原氏でしたが、古賀氏は自らは仏教徒であるにも関わらず、キリシタン達を口之津へ逃します。数年後にキリスト教に入信した古賀氏を、島原純茂の後を継いだ純豊が暗殺…。。
更に、口之津へ逃れたキリシタン達をそこへ留めおかぬよう、有馬氏に進言しました。日本布教長コスメ・デ・トルレスの気持を害したくない有馬氏。しかし島原氏が新たな紛争を起こす事も避けたい…。。そこで有馬氏は、口之津へ逃れたキリシタン達の一部を天草へ送る事としています。従って島原氏はキリシタンでは無かったと思われます。

天正5年(1577年)佐嘉の龍造寺隆信の軍勢が島原半島を南下すると島原純豊はこれに下ってもいます☆この時は有馬氏も同時に龍造寺氏に下りました☆

ただ、天正10年(1582年)有馬晴信が龍造寺氏から離反してからは深江城を攻め、翌年には安徳城主の安徳純俊も有馬方に付きました☆有馬氏は島津氏に援軍を求めていて龍造寺方も援軍を深江城や浜の城に入れ、これに対抗します☆浜の城は龍造寺方の拠点になっています☆この事から有馬氏には属さずに、島原氏は龍造寺氏に与力した事が分かります。

天正12年(1584年)龍造寺隆信が大軍を率いて島原へ押し寄せました☆これが、沖田畷の戦です☆この合戦で龍造寺隆信は島津の家臣川上忠堅に討たれ龍造寺軍は大敗を喫しています☆浜の城に籠もっていた島原純豊も降伏開城し風向きを読みきれなかった島原氏は滅亡しました…。。

浜の城があった付近には字名として中堀、堀町の名を残しています♪現在は島原城下町の一角となっていて鯉の泳ぐ風情ある町です♪幕末には坂本龍馬が、長崎の初上陸地として通った島原街道があり、城下本陣古町別当中村家で休憩しています♪

2024年02月08日 龍馬太閤【備中の麒麟】
島原台場(長浜台場)[島原城  周辺城郭]



長崎県の島原市にある【島原台場(長浜台場)と三好屋新田】♪場所については現在の猛島神社一帯に設けられていました♪猛島神社付近には3つ台場を設置していて、総称で『大手浜台場』とも呼ばれています♪

安永3年(1774年) 松平忠恕が下野、宇都宮藩から島原藩に国替になっています♪25年ぶりに松平家が島原へ戻ってきています♪
でもでも、寛政4年(1792年)『島原大変肥後迷惑』雲仙普賢岳の大規模噴火により、その周辺の山容は崩れ果て、東裾野に位置する島原藩は甚大な被害を受けています…。。
『肥後迷惑』というのは、この噴火により有明海にまで土砂が流れ込み、津波が発生
この大規模噴火によって、土砂や火災、津波などにより1万5千人が亡くなったとされています…。。これ以降の島原藩は復興事業と復興資金の返済に追われる事となる訳ですが…。。

この頃になると、異国船が頻繁に日本近海に現れる様になります☆
往時は徳川幕府により、鎖国を貫いていた
日ノ本ですから、さぞ驚いた事でしょう☆
後の幕末に向かうに連れ、益々激しさを増していく異国船の出没ですが、この安政頃がその走りとなります☆

島原藩は徳川幕府の譜代大名として、長崎監視の役目も賜っていた為に、港湾防衛に勤めた結果、この『島原台場』という訳です♪
島原藩は島原半島に幾つか台場を設けていますが、瀬詰崎台場もその1つです♪
南側は海峡(有明海)が広がり、更にその南には天草、有明海に進入されたら、肥後熊本、筑後大牟田、柳川、肥前佐賀などにぶち当たる海路な為に強化する必要があった訳ですね♪

相次ぐ異国船の出現は『尊王攘夷』の思想を生み出し、討幕運動へと繋がっていきました☆

同海岸線沿いには三好屋新田の看板が残ります♪この三好屋新田は江戸時代の豪商三好屋が開拓した土地です♪三好屋の中山要右衛門が天保8年(1837年)藩主に内海新田の築き立てを願い出て許可され、新田開発を行いました♪
現在島原台場には、石垣の一部が残っているそうですが、分かりませんでした♪
ほぼ遺構は残りません☆
猛島神社は海に面していて、高まりを見せているのでその名残を見る事が出来ます♪

2024年01月30日 斎藤中務卿道三
島原城

六万石程度としては城は大き過ぎる印象。天草四郎の一揆は起こるだろうなと思ってしまった。

2023年09月12日 陸奥守新九郎
島原城



キレイなお城です。それにも増して、石垣が見事です。この時期、雑草に覆われていましたが、丁寧に観察したい石垣です。

2023年08月11日 内匠頭RedKing
島原城



幾たびかの合戦に遺り、かの島原の乱には幕府側の本陣としてキリシタンの立て籠もる原城を落として、その後跡形も無く破却したそうです。そうした経緯が関係するのでしょうか、この半島の北は島原市で南は南島原市です。一つの普賢岳を拝み一対のレールが廃線の嵐を乗り越えて結んでいます。

2023年07月22日 龍馬太閤【備中の麒麟】
沖田畷古戦場跡、供養碑[島原城  寺社・史跡]



長崎県の島原市にある【沖田畷の古戦場】城郭ではありません♪

戦国時代に九州3強の2強と呼ばれた、肥前国・龍造寺隆信🆚薩摩国・島津軍(家久)・肥前・有馬軍(晴信)の連合軍の戦いとなります☆
その軍勢は龍造寺隆信軍は25000兵(諸説あり)島津軍・有馬軍は6000兵の中、結果、勝利したのは、島津・有馬軍でありました☆

3強の一角、豊後国・大友宗麟は耳川の戦いにより島津軍に大敗を喫しています☆
此れにより、筑後、北部九州、一部肥後国では龍造寺方へと主を鞍替えが始まりました☆

天正9年(1581年)島津家は肥後に北上します☆これに対して龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生(直茂)を派遣し島津方の赤星親隆を下し肥後北部の山本郡の内古閑鎮房も降伏させます☆此れにより肥後北部の国人は龍造寺家に帰順しています☆

が…龍造寺隆信は、筑後・柳河の蒲池鎮並が島津氏へ通謀している事を知り蒲池一族を小河信貴、徳島長房に謀殺させています…☆
此れにより筑後衆の流れは龍造寺隆信に叛く者が出るに至りました☆

沖田畷の戦いに発展していく訳ですが、天正12年(1584年)有馬晴信の背信を知った龍造寺隆信は龍王崎(白石)から出陣☆
3月19日に出陣した隆信は翌20日には島原半島北部の神代に上陸しています☆

有馬晴信は八代にいた島津軍に援軍を要請☆
往時の島津軍は肥後の平定に着手していますが、龍造寺軍の主力が動き出している今、島津軍は放置は出来ないと、肥後に主力を置きながら、少ない手勢を島原に派遣しています☆島津義久は大軍を島原に送る事は出来ず、弟の島津家久や頴娃久虎、新納忠元、猿渡信光、伊集院忠棟、川上忠智らを大将にして送り出しました☆島津軍の到着は3月22日です☆

龍造寺軍では、鍋島信生(直茂)が主君の龍造寺隆信に対して島津軍を警戒するように諌めます☆この戦は長期持久戦に持ち込む事で島津氏の援軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰す様、進言しますが圧倒的な兵力を誇る、龍造寺隆信は傲慢になっており諫言を聞き入れませんでした…

大群で攻め入る龍造寺軍に対し島津軍は防衛策を取り、沖田畷と戦場を定めました☆

往時の島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけ広大な湿地と深田が広がっていて前山と森岳城(島原城)との間にある道の幅は狭い☆
少人数で戦うにはベストな地形だったという訳です☆畷とは湿地帯の事です☆
狭い道は、大群で攻め入るには、入り難い☆
島津軍は得意の釣り野伏せで、迫る龍造寺軍を誘き寄せます☆一旦、敗北を装い退却☆追撃する龍造寺軍です☆この追撃に弓や鉄砲を乱射した島津軍☆此れにより龍造寺先陣は崩れ…龍造寺二陣も左右が深沼で細道の為に思う様に進めずに難儀…島津・有馬連合軍は泥田・沼地によって畷の一本道以外には展開できない龍造寺軍を誘い込んだ上で銃撃☆龍造寺軍は一気に大混乱に陥りました…

一本道を進み混乱に陥る龍造寺隆信本隊☆
本隊を助け様として有明海側は密集して進む龍造寺軍の江上勢・後藤勢2千に対し、島津・有馬連合軍は大砲2門を積んだ天草伊豆守の船から砲撃を加えて損害を与え、これを敗走させます☆
龍造寺隆信は床机に腰掛けていたが島津方の川上忠堅に見つかり川上忠堅に切りかかられて『南無阿弥陀』と唱える龍造寺隆信は首を落とされちゃいました…

結果、龍造寺家の傘下にあった国人らは一気に島津家に寝返り島津家の勢力は一気に筑前・筑後まで拡大しくと云う訳です☆以後、九州は島津家が九州制覇を推し進めていく事になりました☆

2023年07月06日 スライダーボール
島原城



雄大な山と澄んだ海が見える眺望最高の城でした。歴史に残る一揆はありましたが、原城跡から島原城まで半島を回り十分堪能できました。

2023年02月23日 するめいか越前守
島原城



島原市のシンボルのように、ドッシリと構えた天守は美しさと迫力に圧倒されます。

2022年12月06日 はっしー安房守幸村
島原城



じぶんが行ったとき、残念ながら改装工事中でした。。

2022年11月27日 JJ
島原城



開城400年記念で、現在、改修工事中。なんとも粋で、本物の島原城のうえを島原城の絵で覆われております。

2022年10月24日 ふゆき
島原城



島原城は屏風折の石垣が圧巻!

今2024年の築城400周年に向けて天守閣は工事中で外観を見ることと最上階に上がることはできませんが、館内のキリシタン史料や江戸時代の深溝松平家の史料はとても興味深いです。週末は夜の天守閣内にも入れます。

気さくな島原城七万石武将隊の皆さんが迎えてくださいます

2022年07月16日 式部卿Pao
島原城

キリシタンの展示は見所あり。かわいくて、やさしい城主様がいますよ。

2022年06月28日 モコ右衛門督ヤス
島原城



城の入り口で武将隊の方居ました。歌や踊りなど披露していてとても良かったですよ。城から見る景色はとても良かったです。

2022年06月05日 あめだま大蔵大輔
島原城



2年ぶり2度目の来訪です。3の丸は区画整理で街としては綺麗になっておりますが、幾分か古き良さが失われていると感じます。その中でも健気に町のシンボルとして夜の陣等で遅くまで管理されている関係者の皆様には頭の下がる思いです。夜の陣を堪能しすぎると帰りのフェリー時間に間に合わなくなるのでお気をつけください。

2022年05月07日 ジョウ陸奥守
島原城

現在、築城 400年記念御城印が、限定で発行されています。

2022年03月23日 れいまさはな右兵衛尉
島原城



場内の展示品が充実しています。眺めもいいです。

2022年02月09日 総州荒木氏始祖武蔵守まさ
島原城



車だと天守の下が駐車城なので掘りと石垣を楽しめません。車を置いて徒歩で堀を一周することをお勧めします。原城の天草四郎像、岐阜城の信長像のレプリカがあるのが微笑ましいですね。

2021年09月18日 肥後守まちゃこ
島原城

天気のよい日は天守閣からの眺めが最高です。駐車場は有料ですが1日停めておけるのでお城の回りも散策できます。お城のなかは階ごとにテーマを作って資料の展示が豊富です。

2021年07月24日 多咲兵庫頭兼定
島原城



クルマで天守閣のすぐ横まで行ける数少ないお城。

2021年05月04日 安濃津中納言壱午
沖田畷古戦場跡、供養碑[島原城  寺社・史跡]



天正12年、龍造寺隆信は島原半島で叛旗を翻した有馬晴信に戦いを仕掛けた。晴信は島津氏に援軍を要請し、3月24日朝、龍造寺隆信率いる2万5千、有馬晴信・島津家久率いる5千がこの地で激突する。兵の数では圧倒的に龍造寺軍が優勢であった。龍造寺軍は兵を山手側、海岸側、中央側の三手に分けて、有馬居城日野江城を目指した。中央側は左右を沼地に囲まれた湿地帯であったため、大軍を展開することが困難であった。龍造寺中央先鋒部隊が島津軍に破られ後退し、道が細く身動きが取れなくなる。混乱した龍造寺軍は三方から攻めかかられ総崩れとなり、家久家臣川上忠堅の放った鉄砲が大将隆信に命中し、隆信は呆気なく56年の生涯を閉じた。残った龍造寺軍は鍋島直茂を中心に佐嘉まで撤退することに成功する。しかし、この合戦において、龍造寺氏は衰退を余儀なくされる。

現在、沖田畷古戦場跡には石碑、説明板のみが設置されている。国道沿い入口に看板が設置されているため分かりやすいはずだ。駐車場は無いため、近くのドラッグストアに停めさせてもらった。遺構などというものは全く無いが、この地で沖田畷の戦いが起きたと思うと、非常に感慨深い。

2021年05月01日 鼻毛伸ばし摂政アホなフリ
島原城

甲冑の展示品良かった。刀の波紋もじっくり観察できました。

2021年01月02日 崎内蔵助
島原城

天守閣からは島原市内が一望でました。あいにく天気が悪く対岸の熊本はみえませんでしたが、普賢岳は迫力がありました。

2020年12月24日 みそしる筑前守道雪
島原城



城内本丸横に駐車場(350円ぐらい)があり珍しい(゚∀゚)
本丸内展示物もキリシタン関連から鎧刀、民族関連物などなどかなりの量があり、学生時代に習った教科書に出て来るような物も多くあります。中には水神様(河童)の手足?も展示してます(笑)
城内にキャンピングカーなどで泊まれるようで電源などの設備もあります。車を持ってない方でもレンタルでトレーラーやキャンピングカーを借りて泊まることも可。
近隣では雲仙・普賢岳も間近に見え大きさと力強さわ感じることができ、道の駅ふかえでは災害当時の被災住宅の展示(無料)を見ることが出来ます。恐ろしさを痛感!
またご当地スイーツで、寒ざらしが有名です。

2020年09月22日 明石家船上
島原城



建物は再建で、なんちゃって天守閣ですが、堀は横矢が掛かる様子が、外周を歩くとわかります。
武家屋敷とおりでは、割下水が道の真ん中を通っており、何年使っているのでしょう、な街歩きでした

2019年03月24日 三木肥前守上の丸
島原城

西側の眉山(山体崩壊している)が迫力有ります。東側は海に近く、城に繋がる入江が残っています。

2017年07月13日 りょうた
島原城

島原城にたいしては辛口な文献が多いみたいですが、破風なし天守はある意味戦いを意識したのかも。単純な縄張りだけど虎口は結構技巧的 来場の際は是非とも狭間から見下ろしてください

2017年05月10日 織田上総介晃司
島原城

本丸天守前に駐車場。天守を撮影しようとすれば車が写り込む…それにもめげず撮影。
そして城外に出て水堀越しに天守と巽櫓を撮影。

天守は破風のない層塔型でシンプルに見えるかと思いますが、築城当時は最先端。

島原城のすぐ傍に郷土料理の具雑煮が食べれるお店があります。

島原には寒ざらしというスイーツもあります。

2016年07月27日 飲んだくれ近江守ジョニィ
島原城

本丸内が駐車場になってます。
自動車では訪れやすいですが、景観が…

2014年12月06日 みーしか備前守
島原城

【写真撮影】
日の沈む方角に雲仙がある為、日没の写真は撮れません。赤く染まる写真は朝焼けの時のみ可能です。

2013年05月01日 慶 士郎
島原城

2013年4月の月間城主に就かせて戴きました‥
我が本貫地近江彦根藩とは親戚である島原藩‥
清らかな水が流れ
桜舞う御城下でありました(^w^)

2012年02月12日 大宰少弐ためぞう
島原城

建物は外観復元がほとんどだけど、城の縄張りがおもしろい!しかも、お堀が菖蒲園になっていて、降りてお彫りの中を散策できる。

2011年09月17日 ️
島原城

チビッ子は忍者、大人は甲冑とコスプレイヤーに早変わりできます
でも、ここまで来たら城だけではなく、観光復興記念館も見学していってください
大火砕流で消防団員の父を亡くした女子中学生の手記「あの日帰らぬ父に」は、子育て世代には涙なしには読めません

2010年07月09日 tomm加賀守
島原城

郷土料理の「がんば(フグ)」や「具雑煮」が美味でお薦めです!

島原城の周辺観光情報

武家屋敷街水路

屋敷街の中央に流れる清水は、当時飲料水や生活用水に使われ、以来400年近く武家屋敷と水路が当時の姿のまま残り、今では島原を代表する水の名所として、毎日たくさんの観光客が訪れます。

沖田畷古戦場跡

龍造寺軍戦死者約3000名など両軍の犠牲者を埋葬した所に供養塔を立っており、近くの二本木神社では、隆信公を失った家臣たちが戦死をいたみ、小祠を建て霊を祀っています。

情報提供:島原市産業部しまばら観光おもてなし課

島原城の周辺スポット情報

 島原藩 武家屋敷(遺構・復元物)

 丑寅三重櫓(遺構・復元物)

 巽三重櫓(遺構・復元物)

 天守(遺構・復元物)

 西三重櫓(遺構・復元物)

 武家屋敷佐久間邸(遺構・復元物)

 南堀(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 東堀(遺構・復元物)

 西堀(遺構・復元物)

 山本邸(遺構・復元物)

 北堀(遺構・復元物)

 篠塚邸(遺構・復元物)

 鳥田邸(遺構・復元物)

 三の丸(遺構・復元物)

 桜門跡(遺構・復元物)

 武家屋敷跡(遺構・復元物)

 西虎口門跡(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 排水遺構(遺構・復元物)

 大手門跡(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 丸尾城(周辺城郭)

 浜の城(周辺城郭)

 島原台場(長浜台場)(周辺城郭)

 沖田畷古戦場跡、供養碑(寺社・史跡)

 桜井寺(寺社・史跡)

 松倉豊後守重政の墓(寺社・史跡)

 江東寺(寺社・史跡)

 湧水庭園(寺社・史跡)

 松倉重政祭祀の祠(寺社・史跡)

 島原城受付窓口(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 島原城跡公園(関連施設)

 郷土史料館(関連施設)

 桜門公園(関連施設)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore