浜の城

浜の城([島原城  周辺城郭])

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浜の城の口コミ情報

2024年02月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


長崎県の島原市にある【浜の城】♪島原城が出来る少し前の戦国時代の城郭となります♪
島原城下町にある中央公園一帯に城郭は形成されていました♪雲仙火山の活動により生まれた島原半島ですが、城郭は雲仙普賢岳、更には今現在の平成新山の東裾に立地しました♪
急峻な普賢岳から島原城のある住宅地まで、なだらかに裾野が広がり、浜の城があった場所は平地が広がっていますが、往時は海に突き出した場所でもあります♪
寛政7年(1792年)『島原大変肥後迷惑』と呼ばれる雲仙普賢岳の噴火と、それに伴う群発地震等により大きな被害が出ており、土砂で埋まり今現在の様な平地が形成されています☆
島原半島は雲仙普賢岳と共に生きていると言っても過言ではありません☆浜の城周辺には、この時の被害を受けて、宝篋院印塔型の供養塔がありました☆

さて、そんな浜の城です♪築城年代は不明でありますが、島原氏が築城した平城と伝わります♪有馬氏の一族と云われている島原氏です♪戦国時代には、島原半島では有馬貴純、有馬鋻純、有馬晴純と代々、有馬氏が続き勢力を誇示し続けました♪島原氏はその先鋒として各地を転戦♪元々有馬氏は佐嘉の嘉瀬川より西側を支配地としていた為、龍造寺氏の台頭によって島原半島に押し込まれていきました☆結果的には、沖田畷の戦い(※有馬氏、島津氏連合軍🆚龍造寺氏の戦い)では、龍造寺隆信の大将首を取り、島原半島を維持しています☆

有馬氏と言えばキリシタン大名として有名ですが、島原氏もまた、そこは容認はしています☆永禄6年(1563年)島原純茂はキリスト教の布教を許可し浜の城の一角(高台)に教会を建設させています♪ただし、キリシタンでは無かったと思われます。領内に教会を建てる事により、異国との公益を考えたのでは無いか?と考えます。何故ならば…島原氏はキリシタンを迫害もしているのです。島原氏の迫害を逃れ口之津を目指したキリシタンが、嵐のため古賀氏の領地に漂着しました。それを自領に返す様に古賀氏に求めた島原氏でしたが、古賀氏は自らは仏教徒であるにも関わらず、キリシタン達を口之津へ逃します。数年後にキリスト教に入信した古賀氏を、島原純茂の後を継いだ純豊が暗殺…。。
更に、口之津へ逃れたキリシタン達をそこへ留めおかぬよう、有馬氏に進言しました。日本布教長コスメ・デ・トルレスの気持を害したくない有馬氏。しかし島原氏が新たな紛争を起こす事も避けたい…。。そこで有馬氏は、口之津へ逃れたキリシタン達の一部を天草へ送る事としています。従って島原氏はキリシタンでは無かったと思われます。

天正5年(1577年)佐嘉の龍造寺隆信の軍勢が島原半島を南下すると島原純豊はこれに下ってもいます☆この時は有馬氏も同時に龍造寺氏に下りました☆

ただ、天正10年(1582年)有馬晴信が龍造寺氏から離反してからは深江城を攻め、翌年には安徳城主の安徳純俊も有馬方に付きました☆有馬氏は島津氏に援軍を求めていて龍造寺方も援軍を深江城や浜の城に入れ、これに対抗します☆浜の城は龍造寺方の拠点になっています☆この事から有馬氏には属さずに、島原氏は龍造寺氏に与力した事が分かります。

天正12年(1584年)龍造寺隆信が大軍を率いて島原へ押し寄せました☆これが、沖田畷の戦です☆この合戦で龍造寺隆信は島津の家臣川上忠堅に討たれ龍造寺軍は大敗を喫しています☆浜の城に籠もっていた島原純豊も降伏開城し風向きを読みきれなかった島原氏は滅亡しました…。。

浜の城があった付近には字名として中堀、堀町の名を残しています♪現在は島原城下町の一角となっていて鯉の泳ぐ風情ある町です♪幕末には坂本龍馬が、長崎の初上陸地として通った島原街道があり、城下本陣古町別当中村家で休憩しています♪

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