沖田畷古戦場跡、供養碑

沖田畷古戦場跡、供養碑([島原城  寺社・史跡])

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沖田畷古戦場跡、供養碑の口コミ情報

2023年07月22日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


長崎県の島原市にある【沖田畷の古戦場】城郭ではありません♪

戦国時代に九州3強の2強と呼ばれた、肥前国・龍造寺隆信🆚薩摩国・島津軍(家久)・肥前・有馬軍(晴信)の連合軍の戦いとなります☆
その軍勢は龍造寺隆信軍は25000兵(諸説あり)島津軍・有馬軍は6000兵の中、結果、勝利したのは、島津・有馬軍でありました☆

3強の一角、豊後国・大友宗麟は耳川の戦いにより島津軍に大敗を喫しています☆
此れにより、筑後、北部九州、一部肥後国では龍造寺方へと主を鞍替えが始まりました☆

天正9年(1581年)島津家は肥後に北上します☆これに対して龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生(直茂)を派遣し島津方の赤星親隆を下し肥後北部の山本郡の内古閑鎮房も降伏させます☆此れにより肥後北部の国人は龍造寺家に帰順しています☆

が…龍造寺隆信は、筑後・柳河の蒲池鎮並が島津氏へ通謀している事を知り蒲池一族を小河信貴、徳島長房に謀殺させています…☆
此れにより筑後衆の流れは龍造寺隆信に叛く者が出るに至りました☆

沖田畷の戦いに発展していく訳ですが、天正12年(1584年)有馬晴信の背信を知った龍造寺隆信は龍王崎(白石)から出陣☆
3月19日に出陣した隆信は翌20日には島原半島北部の神代に上陸しています☆

有馬晴信は八代にいた島津軍に援軍を要請☆
往時の島津軍は肥後の平定に着手していますが、龍造寺軍の主力が動き出している今、島津軍は放置は出来ないと、肥後に主力を置きながら、少ない手勢を島原に派遣しています☆島津義久は大軍を島原に送る事は出来ず、弟の島津家久や頴娃久虎、新納忠元、猿渡信光、伊集院忠棟、川上忠智らを大将にして送り出しました☆島津軍の到着は3月22日です☆

龍造寺軍では、鍋島信生(直茂)が主君の龍造寺隆信に対して島津軍を警戒するように諌めます☆この戦は長期持久戦に持ち込む事で島津氏の援軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰す様、進言しますが圧倒的な兵力を誇る、龍造寺隆信は傲慢になっており諫言を聞き入れませんでした…

大群で攻め入る龍造寺軍に対し島津軍は防衛策を取り、沖田畷と戦場を定めました☆

往時の島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけ広大な湿地と深田が広がっていて前山と森岳城(島原城)との間にある道の幅は狭い☆
少人数で戦うにはベストな地形だったという訳です☆畷とは湿地帯の事です☆
狭い道は、大群で攻め入るには、入り難い☆
島津軍は得意の釣り野伏せで、迫る龍造寺軍を誘き寄せます☆一旦、敗北を装い退却☆追撃する龍造寺軍です☆この追撃に弓や鉄砲を乱射した島津軍☆此れにより龍造寺先陣は崩れ…龍造寺二陣も左右が深沼で細道の為に思う様に進めずに難儀…島津・有馬連合軍は泥田・沼地によって畷の一本道以外には展開できない龍造寺軍を誘い込んだ上で銃撃☆龍造寺軍は一気に大混乱に陥りました…

一本道を進み混乱に陥る龍造寺隆信本隊☆
本隊を助け様として有明海側は密集して進む龍造寺軍の江上勢・後藤勢2千に対し、島津・有馬連合軍は大砲2門を積んだ天草伊豆守の船から砲撃を加えて損害を与え、これを敗走させます☆
龍造寺隆信は床机に腰掛けていたが島津方の川上忠堅に見つかり川上忠堅に切りかかられて『南無阿弥陀』と唱える龍造寺隆信は首を落とされちゃいました…

結果、龍造寺家の傘下にあった国人らは一気に島津家に寝返り島津家の勢力は一気に筑前・筑後まで拡大しくと云う訳です☆以後、九州は島津家が九州制覇を推し進めていく事になりました☆

2021年05月04日 安濃津中納言壱午


天正12年、龍造寺隆信は島原半島で叛旗を翻した有馬晴信に戦いを仕掛けた。晴信は島津氏に援軍を要請し、3月24日朝、龍造寺隆信率いる2万5千、有馬晴信・島津家久率いる5千がこの地で激突する。兵の数では圧倒的に龍造寺軍が優勢であった。龍造寺軍は兵を山手側、海岸側、中央側の三手に分けて、有馬居城日野江城を目指した。中央側は左右を沼地に囲まれた湿地帯であったため、大軍を展開することが困難であった。龍造寺中央先鋒部隊が島津軍に破られ後退し、道が細く身動きが取れなくなる。混乱した龍造寺軍は三方から攻めかかられ総崩れとなり、家久家臣川上忠堅の放った鉄砲が大将隆信に命中し、隆信は呆気なく56年の生涯を閉じた。残った龍造寺軍は鍋島直茂を中心に佐嘉まで撤退することに成功する。しかし、この合戦において、龍造寺氏は衰退を余儀なくされる。

現在、沖田畷古戦場跡には石碑、説明板のみが設置されている。国道沿い入口に看板が設置されているため分かりやすいはずだ。駐車場は無いため、近くのドラッグストアに停めさせてもらった。遺構などというものは全く無いが、この地で沖田畷の戦いが起きたと思うと、非常に感慨深い。

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