吉田城(よしだじょう)

吉田城の基本情報

通称・別名

西法寺館

所在地

秋田県横手市平鹿町上吉田間内字吉田51-1他

旧国名

羽後国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

小野寺輝道

築城年

永禄年間(1558〜1570)

主な改修者

主な城主

小野寺氏、茂木監物(佐竹氏家臣)

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(吉田城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

横手城(秋田県横手市)[6.3km]
大鳥井柵(秋田県横手市)[6.5km]
大森城(秋田県横手市)[9.0km]
岩崎城(秋田県湯沢市)[9.5km]
金沢柵(秋田県横手市)[10.9km]
四十二館(秋田県大仙市)[14.3km]
湯沢城(秋田県湯沢市)[14.7km]
六郷城(秋田県仙北郡)[15.0km]
西馬音内城(秋田県雄勝郡)[16.2km]
玉米館(秋田県由利本荘市)[19.4km]

吉田城の解説文

成り立ち
吉田城(よしだじょう)は、鎌倉時代以来の名門武士の家系である小野寺(おのでら)氏が室町時代中期に稲庭から平鹿郡に本拠地を移し、その過程で各地に築かれた城の一つと考えられている。

戦国時代末期には小野寺景道(かげみち)が末男陳道を伴い隠居したとも伝えられている。

その後、小野寺氏の統治は慶長5年(1600)奥羽合戦の結果終わりを迎え、小野寺氏はこの地を去っている。

また、詳細については不明だが、鎌倉~室町時代にこの地を治めていた平賀氏の居館がこの付近にあったとも推定されている。

現状
吉田城は横手盆地東部に突き出た中山丘陵の西側平野部に位置し、付近の水田面より1mほど微高地となっている。東西100m、南北80mの略方形に土塁が回り、その四隅に突出部を持ついわゆる井桁状の形態となっている。

土塁は南側が墓地となり、一部削平されたものの、他の三方は保存状態が良好で、当時の地割りがそのまま残されている。

特記事項
昭和55年12月11日、遺跡が良好に保存されていることが認められ、秋田県指定史跡に指定された。

提供:横手市教育委員会

吉田城の口コミ情報

2021年06月19日 沼田乃豆腐屋
浅舞城[吉田城  周辺城郭]



浅舞城は小野寺輝道の子である小野寺左京進光道(友光)が天正年間(1573~91)に築城した。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による仙北地方の検地の際に浅舞城下において、検地に反対して一揆が起こり、光道はこれに敗れて自害したとされる。その後浅舞の地は太閤蔵入地となり、菅蔵人秀磐が城代となった。
佐竹氏が秋田に入部した際には茂木監物が浅舞城を受け取り、元和8年(1622)に破却された。その後、跡地には郡奉行所が置かれた。
ちなみに「奥羽永慶軍記」に浅舞刑部の名が見えるが、関係は不明である。

浅舞城は絵図によると東西120m×南北120mの規模であったとされ、堀跡が認められる。沼地や水路が多く見られ、これらにより水城のような性格を持った城であったと推測される。
しかし、現在は宅地化され、殆ど遺構は残っていない。

近くにある浅舞感恩講保育園には『御役屋門』が残る。寛政7年(1785)、秋田六郡の一つとしてこの地に郡奉行所が置かれた。この門は寛政11年(1793)に郡奉行の今泉三右衛門によって改築されたものという。

①浅舞城跡にある『白山神社』
②浅舞城跡の標柱
③西側。かつては水堀で囲まれていたという。
④すぐ隣にある『三吉神社』
⑤すぐ隣にある『三峯神社』
⑥浅舞感恩講保育園に残る『御役屋門』
⑦かつての堀跡を思わせる『琵琶沼』

2021年06月13日 沼田乃豆腐屋
鍋倉城[吉田城  周辺城郭]



鍋倉城は小野寺影道の三男である石見守道周が明応年間(1492~1501)に築城したとされる。
天正10年(1582)、大沢山合戦において鍋倉左近の名が見え、この戦いで左近は討死にしている。
また、天正18年(1590)には鍋倉四郎が豊臣秀吉の太閤検地のために入部した上杉景勝・大谷吉継らに抵抗する一揆を起こしたとされる。四郎らは、2000人の農民を伴って増田城に籠った。鍋倉城南端部にはこの時に処刑された者を祀ったとされる「首塚」という地が存在する。
その後、文禄4年(1595)の皆瀬川合戦において鍋倉金蔵の名が見えるが、鍋倉城は文禄5年(1596)に最上氏の攻撃により落城した。それに対し慶長3年(1598)には西馬音内式部小輔・鍋倉相模らが奪還に成功している。

現在、鍋倉城跡は宅地化・水田化により殆ど遺構は消滅している。

①鍋倉城跡
②標柱は朽ちて横たわっていた
③水堀の跡か。水田や用水路となった低湿地帯
④城戸という地名が残る

2021年05月29日 沼田乃豆腐屋
八柏城[吉田城  周辺城郭]



安土桃山時代の当主である八柏大和守道為は『奥羽永慶軍記』で「知謀深き大剛の勇士」と評され、家中の行動指針である「八柏大和守掟条々」31ヶ条を定めたほか、小野寺義道の重臣として有屋峠(現在の秋田県・山形県境)など各地の戦いで活躍する。しかし山北(横手盆地一帯)への進出を図る山形城主最上義光の謀略によって主君から疑われ、文禄4年(1595年)横手城大手口で暗殺された。

菅江真澄『雪の出羽路』によると、八柏城の規模はかつて「方七八十間もありし」と記されており、現在の八幡神社付近を北端として東西140m程度の四角形をなしていたと考えられる。城跡周辺の宅地からは、堀・井戸の跡や土台石当などが見つかっている。

現在は、八柏農村公園となっている。

2021年05月29日 沼田乃豆腐屋
ミカド屋敷[吉田城  周辺城郭]



元慶2(878)年、出羽北部の蝦夷が秋田城司の苛政に耐えかねて反乱をおこし、秋田城などを襲撃した(元慶『がんぎょう』の乱)。朝廷は、出羽権守藤原保則(でわのごんのかみふじわらのやすのり)らを派遣してその鎮定にあたった。保則は不動穀(非常時の備蓄米)を雄勝・平鹿・山本三郡等の俘囚に支給し、雄勝城の防衛と反乱軍への攻撃に当たらせた。恩義に感じた当地の豪族深江弥加止(ふかえのみかど※『三門』という表記もある)は、朝廷軍り玉造正月麻呂(たまつくりのむつきまろ)らとともに乱の鎮定に勲功をたてた。その功により弥加止は、外従五位下(げじゅごいのげ)の位階を授けられたという。その屋敷跡がこの付近と推定され、首塚神社は、弥加止の墓地であったという言い伝えもある。

ここから北に約200mのところに首塚神社がある。
首塚神社は、平安時代のはじめ、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が、蝦夷を討った際の戦死者の首1千余りをここに埋葬したことで、この名前がつけられたと言われている。また、平安時代後期には、源義家が後三年合戦で戦死した敵味方の首約890をこの地に埋葬し、社殿を建ててその霊を慰めたとも言われている。

2010年12月06日 楓橋太政大臣夜泊
吉田城

秋田県南を支配していた小野寺氏の城館跡です。
方形の平城で、土塁をめぐらし、四隅に物見櫓を配置していたと考えられます。比較的、保存状況が良く、形状が見てとれます。

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