四十二館(しじゅうにだて)
四十二館の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 秋田県大仙市藤木字乙糠塚1他
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 清原氏?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(水堀)、掘立柱建物跡、井戸跡
指定文化財
- 県史跡(四十二館跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
六郷城(秋田県仙北郡)[3.8km]
払田柵(秋田県大仙市)[7.5km]
本堂城(秋田県仙北郡)[9.1km]
金沢柵(秋田県横手市)[9.1km]
大森城(秋田県横手市)[9.1km]
大鳥井柵(秋田県横手市)[11.8km]
楢岡城(秋田県大仙市)[12.3km]
横手城(秋田県横手市)[13.0km]
吉田城(秋田県横手市)[14.3km]
角館城(秋田県仙北市)[21.8km]
四十二館の解説文
四十二館の口コミ情報
2022年08月02日 【配龍】沼田乃豆腐屋
孔雀城[四十二館 周辺城郭]
戦乱の続く室町末期冨樫左衛門太郎によって築造された陣屋風の平城である。大工は国重文古四王神社の棟梁飛騨匠甚兵衛と伝え、その墓もある。二重の濠を巡らしていたが今は内濠と土塁のみを残す。居館は明治29年の六郷地震で全壊した。西側に往時の室町庭園の面影が残り、城の礎石一基も発掘されている。菅江真澄に「冨樫の家は孔雀の丘に作れり」と遊覧記に書いている。
周りを散策していると、城跡に住む方(年配の女性)に声を掛けられた。伺うと、冨樫家の居城「孔雀城」を築いた大工甚兵衛の末裔とのこと。その方が25代目、現在は息子さんで26代目とのこと。
「昔の写真を見せてあげる」とのことで、4枚の大きなラミネートされた写真を持ってきてくれた。聞くと、戦前に作られた絵葉書を大きくしたものとのこと。明治期に建てられたと思われる建物と庭園、入り口の鉄製門扉が写っていた。
しかし、明治の大地震で全壊し、一度住居を移した。だが、女性の祖父がやはり元の地に住居を戻し、現在もこちらに住んでいるとの、貴重なお話しを伺った。
①孔雀城標柱
②南東側の内濠
③大手口にある土塁
④西側の内濠跡
⑤北側の内濠
⑥かつて庭園があった場所
⑦甚兵衛の墓
⑧古四王神社本殿(国指定重要文化財)
2021年06月13日 【配龍】沼田乃豆腐屋
前崎山城[四十二館 周辺城郭]
現在、城址は余目公園として整備され、西側は運動公園となり、遺構は消滅している。中央の小規模な平場が主郭部となり稲荷神社が祀られている。主郭の東側にも一段低いピークがある。平場になっているが狭く、櫓台跡と考えられる。
築城時期、築城主体・城主ともに不明。しかし、菅江真澄(江戸時代後期の旅行家)の『月の出羽路』では横手城主の小野寺氏の配下の大友五郎義景を城主として伝えている。しかし、大友氏の出自・事績は不明である。
①前崎山城遠景
②主郭部にある稲荷神社
③主郭部から東側にも平場がある
④東郭の櫓台跡?
⑤主郭西側は段郭が連なる
⑥段郭から主郭を見上げる
⑦西郭は運動公園となり遺構は消滅
⑧堀跡か?北西部にある湿地帯
2021年06月08日 【配龍】沼田乃豆腐屋
大曲城[四十二館 周辺城郭]
大曲城は丸子川の北岸に築かれた平城である。宅地化等により規模や構造は不明瞭である。唯一の遺構は、八幡神社が祀られている土塁、通称『八幡土塁』と呼ばれるものである。高さ4~5mの土塁上が参道となっており、約100mの長さがある。
参道の途中には(城とは直接関係ないが)、江戸時代に土中から掘り起こされた『石造五重塔(秋田県指定文化財)』がある。
また、『大曲城』の標柱は八幡土塁の南東約300mの丸子川沿いにある。いかに規模が大きい館跡だったかが分かる。
戦乱期の大曲地域において勢力をふるった前田氏が居城した中世城館である。二代・利信は、角館城を拠点として仙北地方一帯を支配した戸沢氏の家臣として、天正7年(1579年)に安土城で織田信長と対面して鷹を献上するなどして、所領地を安堵されたという。天正10年(1582年)に、前田氏は仇敵であり、由利地方において勢力をふるっていた赤尾津氏・羽川氏の連合軍に急襲され大曲城は落城した。その後、大曲城は天正18年(1590年)に豊臣秀吉の支城破却令によって廃城になった。
2012年11月13日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
四十二館
大曲から県道13号線を横手方面田んぼの端に入口の碑を右折細い道を道なり左カーブし右側に正門跡の石碑と説明板
駐車場スペース無し
遺構も確認できずそこは民間の入口でした(^^;)
位置と立地
四十二館跡は、秋田県南部の横手盆地の中北部で、奥羽山脈の西裾に広がる六郷扇状地が沖積地に移り、扇状地の南端を西流する上総川と出川(いでかわ)に挟まれた平坦地にある。雄物川まで800mと近く、遺跡の標高は約27mである。遺跡は東西約350m、南北300mの範囲で小水路や小沼地が複雑に入り組んだ地形をなしており、それぞれに本丸跡・御蔵跡・鍛冶屋敷跡・門前跡・馬場跡・鞍浮沼・仕上沼などの呼称が付されている。
歴史
四十二の意味についても、菅江真澄は『月の出羽路』の中で「四十二騎の軍兵盾籠もりし義」と書いており、昭和7年に県史跡調査委員として現地調査した武藤一郎はその報告の中で「かつて浮島の数多く浮かべる時代ありしことからこの名の起因せしに非ずや」と述べており、四十二の名称の定かな伝聞や記録はない。昭和34年、県史跡指定となり近年になって、開田や土地改良事業の推進により地形に変化が生じるようになり、四十二館の性格解明と保存対策が望まれるようになってきた。
発掘調査
大曲市教育委員会では、昭和56年~58年に発掘調査を実施し、その解明に乗り出した。発掘調査は四十二館内の7箇所で実施され、俗称「本丸」付近や「鍛冶屋敷」・水路と「正門」・「門前跡」を対象としている。
「本丸」付近からは平安時代後半の須恵器と土師器が少量出土しただけで、本丸跡らしき遺構の検出はなかった。「鍛冶屋敷」からは、掘立柱建物跡3棟・井戸跡8基・鍛冶遺構3基・屋外カマド6基・溝跡11条などの遺構と中世の建物を発見している。
調査区中央で確認した第1号掘立柱建物は、南北棟の桁行6間の梁行1間で、柱穴埋土から焼けて炭化した一握りの飯が出土している。1粒1粒が明瞭なだけに生活の匂いが生々しく、どのような状況で炭になって残ることになったのか、当時に思いを馳せてしまう。
第2号掘立柱建物は、第1号掘立柱建物の南に位置し、東西棟の桁行3間の梁行1間である。
第3号掘立柱建物は、第2号掘立柱建物の東に位置し、桁行2間の梁行1間で、他の建物より柱跡などが小さめである。
井戸跡は素掘り地山井筒で、明確な井戸枠は検出されなかった。多量の坩堝と焼土・炭化物が出土した鍛冶遺構は「鍛冶屋敷」の俗称を裏付けるものではあるが、用途の詳細については不明である。
水路の調査では、上面幅約14m、下面幅12m、深さ1.5mの堀跡が確認された。「正門」付近は物証に乏しく、「門前跡」からは、中世の整地跡と中世陶器片が見つかっている。
まとめ
発掘調査結果から四十二館跡は、中世~近世初頭を主とした遺跡であり、古代遺構の存在も一部に予想される。四十二館跡の性格解明には、まだまだ調査成果の積み重ねが必要と思われる。四十二館跡の解明は、当地域における古代~中世の様相の隙間を埋めるうえで重要な役目を果たすことになると思われる。