楢岡城(ならおかじょう)
楢岡城の基本情報
通称・別名
- 揚土城
所在地
- 秋田県大仙市南外揚土
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 佐原氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 佐原氏、楢岡(小笠原)氏
廃城年
- 慶長6年(1601)
遺構
- 曲輪、腰曲輪、堀切、横堀(空堀)、土塁、虎口
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
四十二館(秋田県大仙市)[12.3km]
唐松城(秋田県大仙市)[14.2km]
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本堂城(秋田県仙北郡)[15.8km]
大森城(秋田県横手市)[16.3km]
角館城(秋田県仙北市)[20.6km]
金沢柵(秋田県横手市)[21.4km]
白根館(秋田県秋田市)[22.3km]
玉米館(秋田県由利本荘市)[23.7km]
楢岡城の解説文
楢岡城の口コミ情報
2023年04月21日 【配龍】沼田乃豆腐屋
神宮寺掃部館[楢岡城 周辺城郭]
神宮寺掃部館(じんぐうじかもんだて)
館は単郭で東西175m南北72mの長方形をなし周囲の水田より3mほど高くなっている。北西隅には土塁らしき跡があり現在は奥羽本線によって南北に二分されている。周囲を水堀で囲まれていたというが水田となり痕跡不明である。
明治36年頃の鉄道工事の際に館跡から兜の八幡座が発見され、現在は神宮寺八幡神社が所蔵している。
館主は小野寺信道の三男小野寺道珍で神宮寺藤七と呼ばれ戦国期には大曲城主前田薩摩守利信の弟又三郎(神宮寺掃部介)の居館といい、利信も天正十年(1582年)大曲城落城後居住したという。
神宮寺掃部介は天正十七年(1589年)に安東氏の内紛(湊騒動)に戸沢氏配下として出陣し討死したという。
江戸時代、館の広さは約二町歩あったという。
※館跡は私有地である。近所の方に許可をいただいて、散策をさせていただいた。
①館跡にある標柱
②館跡は周りより2〜3m高くなっている
③館跡上部は平坦で広い
④西部には大きめの石がある。地元の方曰く「一部石垣があったとか?」
⑤館跡の南にそびえる神宮寺嶽。通称「嶽(だけ)」
⑥館跡内部を滑るように走る秋田新幹線こまち
2022年08月08日 【配龍】沼田乃豆腐屋
龍蔵寺館[楢岡城 周辺城郭]
室町時代、湯沢松岡方面から来た竜蔵寺氏が館を構え付近に勢力をはった。
永禄8年(1565)落城。工藤権守、菅原遠江守はその家臣といわれ、工藤氏はそのあと角館戸沢氏に随臣。ここには空堀と土塁、井戸跡などの痕跡がある。
現在、本郭跡には龍蔵神社が祀られている。
①入口
②本郭跡に建つ龍蔵神社
③本郭北側の土塁
④本郭と外郭を隔てる空堀
⑤外郭西側の土塁(空堀が堀止めされ本郭の土塁とつながっている)
2022年08月01日 【配龍】沼田乃豆腐屋
土屋館[楢岡城 周辺城郭]
冨樫氏6代・忠之が永正5年(1508)に築いた中世城館である。冨樫氏は文和年間(1352〜56)に加賀国(今の石川県)から神岡地域神宮寺地区に流れつき、冨樫館(とがしだて)を築いて居城していた。6代・忠之の時に当地へ移り住んだ。その後、天文5年(1536)に、角館城を拠点として仙北地方一帯を支配した戸沢氏の家臣となり、元亀元年(1570)には7代・勝家が大曲地域上高畑地区に孔雀城(くじゃくじょう)を築いて移り住み、古四王神社(本殿が国指定重要文化財)を建立した。土屋館のすぐ近くを丸子川が流れていることから、水運の要衝地として重要な役割を果たしたと考えられる。
2022年08月01日 【配龍】沼田乃豆腐屋
富樫館[楢岡城 周辺城郭]
約650年以前の南北朝時代、加賀国(石川県)河北郡から来た富樫氏主従17騎はここ本郷野に居館をかまえ、付近に宝蔵寺と白山社を建てた。永正5年(1508)に大曲土屋館に移って角館戸沢氏の配下に入り、さらに元亀元年(1570)、大曲の高畑に移った。この館は「内館」ともいわれた。
館跡は現在、大正2年(1913)創業の『福乃友酒造株式会社』となっている。その他、宅地や水田となっておりり、遺構はほとんど残っていない。
2022年07月28日 【配龍】沼田乃豆腐屋
湯元館[楢岡城 周辺城郭]
標高176.8m、山頂は整地されているが、山地の背後に底幅約6m空壕で仕切られた単郭の館である。館の側面は侵食谷が深く刻み込み荒沢川、湯元川が水壕の役割を果たしている。楢岡城や松木田館などの眺望がよくきき、釜坂、荒又方面もよく見渡せる。楢岡城の支城か、見張り城、あるいは「のろし台」などとして重要な地点である。
☆現在、館跡に向かうための川に架かる橋は規制されているが、目の前にある岩倉温泉の大女将さんに許可を得て標柱と登城道跡のみ撮影させていただいた。
大女将さんによると、山頂は平地になっており、その昔テニスコートを作ろうという計画があったが頓挫してしまった。昨年くらいまでは、登城道を草刈り整備していたが、今年は行っていない。徐々に整備を依頼する人、依頼を受ける人が減ってきているのが現状とのこと。
遺構についてはよく分からないが、昔の人は集落の境目の印として溝を掘り土の中に炭を入れることで草木が生えないようにしたとのこと。草木を刈っただけでは生い茂り、石を置いても動かされる可能性があったからとのこと。
また、この季節はクマの目撃情報があり、フンのマーキングも確認された。藪もひどいので、実際に行くには秋や春の草木の少ない時期がよいと教えていただいた。
この日は別件で通りかかったところ、偶然標柱を見付けたもの。日没も近かったのでリア攻めは諦め、準備を整えて次回再アタックすることにした。
2021年06月12日 【配龍】沼田乃豆腐屋
松山城[楢岡城 周辺城郭]
松山は別名鶴の羽形城とも称され、その昔安倍一族の居城として武威を四方に誇った場所と云われる。いまだに松山には本丸、二の丸、馬場跡等が歴然として昔の影をとどめている。松山には、血浴沢、忍長峰等、源家と安倍一族との争いにまつわる安倍貞任の娘 貞姫と八幡太郎義家の悲恋を物語る地名も数多く残されている。
現在は姫神公園となっており、研修施設やテニスコートがある。高台にあり、仙北平野が見下ろせる。
(目玉のひとつだったジャンボ滑り台は、老朽化により現在は使用禁止になっている。)
①本丸南西部の二重堀切
②二重堀切の内堀
③内堀は本丸北側に廻り込む横堀に変化
④本丸跡に残る土壇
⑤本丸南東部の腰郭
⑥二の丸跡
⑦標柱
⑧本丸と二の丸の間の馬場跡
南方に出の丸があり、井戸跡がある。
主郭の西側は底幅約2m、深さ10mの堀切で背後の山地と画す。二の郭は東西約25m、南北約45mの削平地で西縁に土塁がある。南に1つ、東に2段の腰郭がある。
底幅約2mの堀をはさんで三の郭があり、40aの削平地で途中1mの段差があり、井戸跡がある。8m下に馬場跡とよぶ帯郭がある。中に門跡らしき土盛がある。
大手筋は三の郭の南斜面で登り口に削平地で砂利敷であった。
西麓に城主楢岡氏の菩提寺・常泉寺があり、その背後に幅約25mの空堀がある。
武家屋敷の揚土集落、城下町の横町、柳町、又鍔野の字地を残す。
佐原太郎時連の城であったが、長禄2年、平鹿郡増田城主・小笠原信濃次郎光冬(尾張守長景)が滅ぼし、翌年移住し楢岡氏と称す。
楢岡氏は戸沢氏と姻戚関係を結び、重臣として勢力をもつ。楢岡左馬介清長(長信)、同右衛門尉光清の名を伝える。