横手城(よこてじょう)
横手城の基本情報
通称・別名
- 朝倉城、阿櫻城、韮城、龍ヶ崎城
所在地
- 秋田県横手市城山町
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 複合式望楼型[3重4階/1965年築/RC造模擬]
築城主
- 小野寺氏
築城年
- 不明
主な改修者
- 戸村氏
主な城主
- 小野寺氏、伊達氏・須田氏・戸村氏(佐竹氏家臣)
廃城年
- 明治元年(1868)
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 模擬天守、碑、説明板
周辺の城
-
大鳥井柵(秋田県横手市)[1.2km]
金沢柵(秋田県横手市)[6.0km]
吉田城(秋田県横手市)[6.3km]
六郷城(秋田県仙北郡)[12.1km]
大森城(秋田県横手市)[12.2km]
四十二館(秋田県大仙市)[13.0km]
岩崎城(秋田県湯沢市)[13.6km]
払田柵(秋田県大仙市)[16.7km]
本堂城(秋田県仙北郡)[17.7km]
典膳館(岩手県和賀郡)[18.0km]
横手城の解説文
横手城の口コミ情報
2024年06月23日 mootze
横手城
模擬天守が100円で入れます、遺構は横の神社あたりが本丸とその周辺の土塁くらいしか、わかりません
2023年08月15日 明石家船上
横手城
秋田神社は、模擬天守ではない、本丸跡にあるようです
2023年01月23日 583系備前守きたぐに
横手城
1月21日午前8時頃、横殴りの雪の中、横手駅から雪道を転ばぬように歩き、20分ほどで着きました。徒歩のみの短絡路は別にあったのですが、雪で埋もれていたので、高校横の車道兼用の道を利用しました。
登城した直後に一時的に晴れ、奇跡かと思いましたが、二の丸にある模擬天守は開館前の時間ということもあってか、石段上の雪が多く、接近を断念。本丸への道も除雪されておらず、行けませんでした。
雪の中でも、土木量の多い普請をしたことがみてとれ、横手川も、城の前だけ直線的(最後の写真の横を川が流れています)になっています。雪に労力を使い、もはや、1キロ先の大鳥井柵に行く気力がなくなってしまいました。雪のない時期に訪れる城でした。
2022年11月18日 沼田乃豆腐屋
平城[横手城 周辺城郭]
平城は建久年間(1190)に加賀美相模守遠光によって築城されたと云われ、その後、小野寺稙道の支配下にあった。当時の城主は横手佐渡守光盛で、そして、金沢八幡宮の衆徒金乗坊と共に天文21年中逆心を企て、稙道を湯沢で敗死させた。その子四郎丸は羽黒山に逃れ、三年後に光盛らを滅ぼした。四郎丸は名を輝道と改め、新たに横手城を築き居城した。
平城の範囲は、南は旧ニノ堰(現富士見大通り)、西は奥羽線まで、北は横手川、東は妙晴寺の後ろあたりまでと、昭和2年12月2日、横手郷土史編纂会の深沢、大山委員らが調査し、ほぼ確定している。
2022年10月03日 陸前守剛太犬@歴読
横手城
現在本丸の秋田神社に何故か登れなくなってました。
2022年07月26日 micky999
横手城
小高い丘の上、車で直下の駐車場まで行けるアクセスは嬉しいです。4層の模擬天守ですが、資料館になっています。もちろん最上階は見晴らし抜群です。100円で市内4カ所の資料館に行けるのも嬉しい。横手といえばB級グルメの横手焼きそばが有名。是非お忘れなく。
2022年06月29日 RED副将軍
横手城
1965年完成の模擬天守は築55年を越え、東北最古です✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1554年頃、小野寺輝道によって築かれた小野寺氏の居城。
小野寺氏は関ヶ原の合戦後、徳川氏に西軍方に付いたとみられ1601年に所領没収され石見国へ流されます、
1602年、水戸から秋田へ転封された#佐竹義宣 が久保田城の支城として支配。
幕末から明治にかけての戊辰戦争では、佐竹氏は官軍・新政府側に与し、仙台藩と庄内藩の攻撃を受け落城。大半が焼失しました。
見所
鳥海山、横手川の眺望は素晴らしい。
往時は土塁に櫓であり、天守の意匠に関連性は全くありません。
本丸には戊辰戦争の戦死者を弔う秋田神社が鎮座。焼け残った木材で建立されだとのことです。
2021年11月28日 うっきー
横手城
横手駅から歩いて登城。歩いて20分ぐらいかかります。七曲登城道を選択しました。
2021年09月20日 ジョウ陸奥守
横手城
二の丸に模擬天守があり、本丸ではありませんので注意!
2021年07月12日 ハニワ右大臣
横手城
かわいい模擬天守がお出迎え、100円払って中へ。横手の歴史がわかります。
2021年06月12日 さるゐゑ出羽守おやかた
横手城
久保田藩佐竹家の中でも、重要な拠点でした。模擬天守の展望台があり、横手の城下が一望できます。
城下には、改易された本田氏の碑もあります。
2021年04月18日 aoba
横手城
桜はまだまだでしたが、その分人も多くなく、ゆっくり見られました。展望台から横手市街や鳥海山の眺めがよいです。
2020年11月09日 桜井太政大臣静龍
横手城
牛沼駐車場は広いです。直ぐ近くにレストハウスがありまして、そこにも車止められそうでした。直ぐそばに展望所もあります。紅葉の時期に来たので雪囲いした庭木や山全体の紅葉が楽しめます。駐車場から歩2分くらいで本丸です。
2020年10月16日 まあ陸前守
横手城
城跡全体が公園になっていて散策しやすい城です。本丸のすぐ近くに数台ですが駐車出来ます。満車でも徒歩2〜3分の所に大型駐車場もあります。
模擬天守の内部は有料ですが、展示品もあり最上階からは天気が良ければ鳥海山も望めます。
2019年10月21日 安田大蔵卿秀俊
横手城
城の西側の入り口にある龍昌院は横手城代 戸村十太夫家の一族墓地がある。
1868年 戊辰戦争で横手城に籠城した戸村大学義得(明治39年死去)もここに眠る。
2019年06月04日 沼田乃豆腐屋
本多上野介正純公父子之墓碑[横手城 寺社・史跡]
徳川幕府創業の権臣であった本多上野介正純、正勝父子は二代将軍秀忠暗殺謀叛の企て(宇都宮釣天井)があるとの疑いをうけ寛永元年(1624年)佐竹義宣に預りの身となり横手城代、須田美濃守盛秀のもと横手城三の郭の居館に移した。
子、正勝は寛永7年(1630年)35才で病死。父、正純は悲嘆の日々をすごし寛永14年(1637年)73才にてさびしく一生を終えた。
2019年05月05日 織田上総介晃司
横手城
二の丸の下に駐車場があります。
模擬天守は二の丸に建てられているので駐車場からすぐです。
桜の時期もいいですが冬の横手は「かまくら」が城と街を彩り幻想的な風景を造り出す。一度冬に行ってみたい。東北の雪になれてないから移動が大変だと思うけど…
横手市街の「あつあつ亭」で横手焼きそばを食べました。
広島風お好み焼きの店でお好み焼きにはおたふくソースかカープソースを使うが横手焼きそばだけには使わず、地元の味にこだわっている。
2016年11月11日 松茸一子相伝征夷大将軍クララ姫
横手城
立派な天守。
正式には『横手公園展望台』と言うそうです…
2016年10月14日 斉藤権大納言にょふん
横手城
横手駅から徒歩30分くらいで入り口到着。石段登るとすぐに到着。模擬天守は見晴らしそれなりにいい。帰りは自動車登頂用の道路から歩く。4館共通券が100円。
横手城の周辺観光情報
秋田県立近代美術館
先進的な外観の秋田最大級の芸術空間。江戸時代中期の「秋田蘭画」や秋田ゆかりの作家を紹介するコレクションの他、内外の優れた美術を展示する特別展などを開催している。アミューズメントパークである秋田ふるさと村の中に位置し、あわせて様々なアトラクションを楽しむこともできる。
お問い合わせ:秋田県立近代美術館(0182-33-8855)
増田まんが美術館
全国的にも珍しいマンガを集めた美術館。多数のマンガ家たちの写真や原画が展示されており、中でも同地出身である『釣りキチ三平』の作者、矢口高雄氏の「矢口高雄まんが工房」や、多数のマンガが読めるスペースが設けられている。毎週月曜日休館。
お問い合わせ:増田まんが美術館(0182-45-5556)
横手駅前温泉ゆうゆうプラザ
大浴場、露天風呂、サウナ、水風呂。大広間利用は無料、時間制限なし。
■泉質・効能
【源泉名】横手駅前温泉【源泉温度】47度
塩化ナトリウム物泉
(神経痛、筋肉痛、慢性皮膚病等)
定休日:無休
営業時間:AM9:00~PM10:00
お問い合わせ:横手駅前温泉ゆうゆうプラザ(0182-32-7777)
横手城の周辺スポット情報
本丸(遺構・復元物)
二の丸(遺構・復元物)
三の丸(遺構・復元物)
七曲坂(遺構・復元物)
堀跡(遺構・復元物)
牛沼(遺構・復元物)
説明板(碑・説明板)
二の丸跡碑(碑・説明板)
武者溜り跡(碑・説明板)
大手門跡(碑・説明板)
横手城本丸跡(碑・説明板)
横手城搦手門跡(碑・説明板)
横手城跡(碑・説明板)
小野寺氏彰徳碑(碑・説明板)
小野寺氏彰徳碑(碑・説明板)
平城(周辺城郭)
本多上野介正純公父子之墓碑(寺社・史跡)
秋田神社(寺社・史跡)
横手城代 戸村十太夫家墓所(寺社・史跡)
お手洗(トイレ)
みんなのトイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
模擬天守(関連施設)
横手公園(関連施設)
畑儀三郎翁胸像(その他)
成り立ち
横手城(よこてじょう)は、その昔朝倉城(あさくらじょう)といい、戦国時代に横手地域を治めていた小野寺(おのでら)氏の居城であった。朝倉山を包むように横手川が流れ、背後は山、また山と奥羽山脈につづく独立した要害であり、天文23年(1554)頃、小野寺輝道(てるみち)によって築かれた。
城の普請は、石畳を用いないで土居削崖とし、土くずれを防ぐ土止めと、敵がはい登ることができないように韮(にら)を植えた築城だったので韮城の名があり、後に俗に横手城といわれるようになった。
その小野寺氏の統治は、慶長5年(1600)奥羽合戦の結果終わりを迎える。小野寺氏に代わって常陸54万石の領主佐竹義宣が慶長7年(1602)に秋田藩に入部した。佐竹氏の統治下において、横手城は徳川秀忠が発令した一国一城令の例外として取り壊しをまぬがれた。また、現在の町並みに繋がる城下町が形成された。
時代は下り、慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争において、薩摩・長州の藩士が指揮する官軍と、会津藩に与する奥羽列藩同盟軍との間に立った秋田藩は最終的に官軍についたが、仙台・庄内などの同盟軍の攻撃によって火の手が上がり、落城した。
現状
横手城跡は、現在「横手公園」として日々市内外の方々が訪れる憩いの場となっている。北側には「平和観音像」や「バラ園」などがあり、全国的にも有名な2月の「かまくら」期間中は、かまくらが作られるなど、四季を通じて豊かな自然を楽しむことが出来る。
また、二の丸跡には、昭和40年に三層の「天守閣様式の展望台(通称:横手城)」が建てられた。ここからは横手盆地が一望のもとに眺められ、特に快晴時には日本百名山の一つ、出羽富士・鳥海山の姿を見ることができる。
特記事項
城址南東の一角に「宇都宮釣天井事件」で知られる「本多上野介正純(ほんだこうずけのすけまさずみ)の墓碑」がある。永禄8年(1565)、三河の国に生まれた本多上野介正純は、父正信とともに徳川家康の側近の筆頭として敏腕を振るった。家康没後、老中として秀忠に仕え、元和5年(1619)、15万5千石の宇都宮城主となり、宇都宮城を改築し、現在の宇都宮の町割の基礎を築いた。元和8年10月、改易となった最上義俊の城を受け取るために、出羽国山形に出張中、出羽国由利に配流され、5万5千石に改易された。
しかし正純はこれを固辞し、寛永元年(1624)4月、佐竹義宣に召し預けられ、出羽国横手に配流され1千石を与えられた。その後、横手で暮らし同14年(1637)2月29日、横手で没した。享年73。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、小野寺義道は東軍に与しなかったため、翌6年(1601)に石見国津和野へ配流の身となります。横手城も、一時的に最上氏の手に渡りました。その後、慶長7年(1602)に佐竹義宣が秋田に入部すると、横手城は佐竹氏の支城となって最上氏から城を受け取り、伊達(国分)盛重が城代となりました。続いて須田氏、戸村氏と引き継がれ、秋田藩南部の要衝として重要な役割を担います。
戊辰戦争の舞台にもなります。慶長4年(1868)、秋田藩は明治新政府軍とともに奥羽諸藩を相手に戦い、横手城でも戸村義得が中心となって籠城します。しかし庄内藩および仙台藩の大軍に攻められ、炎上して落城しました。
現在は横手公園になっていて、いかにも景色のよい休息スポットという場所です。模擬天守があるのは本丸ではなく二の丸だった場所で、本丸は丘陵の突端部にあります。市立横手病院脇からの登城口が江戸時代の大手口で、本丸北側の武者溜の脇に大手門がありました。本丸にある秋田神社は横手城の遺構を使って建立されているようで、貴重な遺構といえそうです。本多上野介正純父子の墓は城の南東側にあります。
横手城には天守は存在せず、完全なる模擬天守です。昭和40年(1965)に建てられ、史料館になっています。4階の展望室からの眺望は見事で、横手盆地、横手川、鳥海山などの風景が広がります。