宇都宮城(うつのみやじょう)
宇都宮城の基本情報
通称・別名
- 亀ヶ岡城
所在地
- 栃木県宇都宮市本丸町
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 梯郭式+輪郭式平城
天守構造
- -
築城主
- 藤原秀郷?、藤原宗円?
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- 本多正純
主な城主
- 藤原氏、宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
廃城年
- 明治元年(1868)
遺構
- 土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 清明台櫓、富士見櫓、土塁、堀、土塀、石碑、説明板
周辺の城
-
戸祭城(栃木県宇都宮市)[1.6km]
江曽島城(栃木県宇都宮市)[3.2km]
犬飼城(栃木県宇都宮市)[5.2km]
横田城(栃木県宇都宮市)[7.0km]
飛山城(栃木県宇都宮市)[7.2km]
岡本城(栃木県宇都宮市)[8.9km]
刑部城(栃木県宇都宮市)[9.0km]
多気城(栃木県宇都宮市)[9.2km]
徳次郎城(栃木県宇都宮市)[11.0km]
舟戸城(栃木県芳賀郡)[12.2km]
宇都宮城の解説文
[引用元:Wikipedia「宇都宮城」の項目]宇都宮城(うつのみやじょう)は栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。
【概要】
平安時代に藤原宗円が二荒山の南に居館を構えたのが初めである。近世・江戸時代に改修され、輪郭と梯郭形式を合わせた土塁造りの平城であった。本多正純の頃には天守があったといわれているが、清明台櫓を事実上の天守としていた。また、徳川将軍の日光東照宮参拝の際に将軍の宿泊施設として利用された。
明治初頭の戊辰戦争の際に焼失し、第2次世界大戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていないが、本丸の一部の土塁が現存し、本丸の土塁、堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、宇都宮城址公園として一般に公開されている。今後、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画がある。
・現在確認できる遺構
・埼玉県川口市本町の錫杖寺に明治41年に宇都宮城の門のを解体、移設再建されたと伝わる山門が現存。
・栃木県宇都宮市瓦谷町萬松寺の山門は明治時代に宇都宮城の門を宇都宮市塙田の成高寺へ移築後に萬松寺の山門として再移築されたと伝わる。現存する門は草屋根を近年瓦葺き屋根の門に改修されたもの。
・今小路門が明治時代に城郭一帯が民間払い下げになった際に移築されたと伝わる門が宇都宮市北部の民家に現存。
【歴史・沿革】
〜古代・中世〜
築城年代は平安時代に遡る。藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと言われる。もともと宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。
〜近世〜
戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったという。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともあったが、小田原征伐に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城した(なお、当時の宇都宮氏は後北条氏の侵攻を防ぐために多気山城に拠点を移していた)。宇都宮氏は秀吉から所領を安堵され居城を元の宇都宮城に戻すように命じられる。その後羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好であったが、慶長2年(1597年)に突如改易された。宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。
-江戸時代-
慶長6年(1601年)12月28日には関ヶ原の戦い後の京警備で功を認められた奥平家昌が10万石で入り、かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興した。...[続きを見る]
宇都宮城の口コミ情報
2020年12月20日 YAMA治部少輔gen
宇都宮城
月に一回だけの櫓解放日に訪問。
宇都宮から、富士山の全景が見れるとは思ってなかったので感動しました。
冬場は、8:00~11:00に富士見櫓
おすすめは、8:00に開いてすぐだそうです。
2020年12月14日 粟船弾正忠隆光
宇都宮城
目の前に無料駐車場があります。コロナの影響で建物に入る際は連絡先の記載をお願いされます。
2020年10月19日 ゆず外記拓之助
八幡山地下壕[宇都宮城 寺社・史跡]
太平洋戦争末期1945年に陸軍は空襲と本土決戦に備えて八幡山に地下壕をつくりました。
八幡山には当時砲台があり当時宇都宮陸軍の中心と言っても過言ではない重要な場所でした。
地下壕は6月中旬から約2ヶ月間で掘られ全長721メートルに及ぶ横穴でした。
ですが、完成前に終戦になり実際に使用されていませんが、当時の陸軍は恥さらしだからと終戦後も完成まで彫り続けたらしいです。
2020年10月19日 ぱぱ〜ん尾張守
宇都宮城
10月18日から御城印と御城印帳が販売開始になりました。戊辰戦争の激戦地のイメージが強かったけど、無料の資料館で情報収集出来ました。
2019年06月14日 野呂利左衛門督休三
栃木県立博物館[宇都宮城 関連施設]
中世のコーナーに皆川城と足利学校、近世で宇都宮城の模型があります。なお中は撮影禁止です。
2019年05月06日 わる爺陸前守
駐車場(南側)[宇都宮城 駐車場]
身体不自由な方用二台プラス7台、但し利用時間ある。
2018年10月12日 内大臣織田晃司
宇都宮城
市街地にあるのでコインパーキングを含め駐車場はあります。
写真を見た時、土塁に不自然なトンネルがあって「?」と思って、リア攻めするとやはり違和感を覚えました。
宇都宮といえば「宇都宮ギョウザ」ですが、今回情報が仕入れられなかったので食べてません。残念…
2018年02月10日 土塁ルイ
宇都宮城
奥州仕置・上杉討伐・戊辰戦争と、関東七名城の中でも突出した歴史性を持ちながら見所が本丸復元土塁だけでは勿体ない。
城の遺構としては、市内外3ヶ所の移築城門と松ヶ峰門土塁が僅かに残る程度ですが、戊辰戦争・宇都宮城攻城戦の史跡巡りがオススメです。
宇都宮新選組同好会さんのHPで、街歩きのおすすめルートが紹介されていますので参考にするといいですよ。
ついでに、秀吉の奥州仕置日程です。
天正18年(1590年)
7月13日 小田原北条氏降伏
7月17日 鎌倉鶴岡八幡宮参詣
江戸・岩槻・古河を奥大道を経由し、
7月25日 結城城にて秀康を結城氏養嗣子に(黒田孝高が仲介)
7月26日 宇都宮城へ入城
7月28日 伊達政宗、奥州への迎えに宇都宮入り
8月9日 会津へ巡察
伊達の抑えとして、辞退した細川忠興に代え蒲生氏郷を配置
仕置後、帰途、岩槻城で「萩の和歌」を残す
8月20日 駿府城へ入城
9月1日 帰洛
いやー、秀吉ってホントに宇都宮の方まで来たんですねー。
2016年08月28日 たな左近衛少将
宇都宮城
土塁にある案内所では、案内の方が宇都宮の歴史について親切に詳しく教えてくれました。とても分かりやすくありがたかったです。ちなみに宇都宮餃子の情報も教えてくれますよ。
2014年10月16日 伊達常陸入道ねんさい山城守
宇都宮城
宇都宮城は戦後までは土塁や水堀がかなり残っていた。
1953年に三の丸の西館堀北側が埋められて体育館が建てられる。
1961年から残りの西館堀と地蔵堀が環境衛生と宅地造成で埋められる。
昭和40年代の後半に本丸西側の水堀と土塁が壊されて遺構は完全に消滅する。
栃木県立博物館発行の「名城宇都宮城」より
2012年11月25日 征夷大将軍あぶり餅
宇都宮城
城跡の西側からアプローチし高さのある土塁と復元櫓を見たときはワクワクしましたが、土塁をぶち抜いた通路にある展示室に入った時に『エレベーターで登れますよ』と言われびっくり??
展示室にはガイドの方がいて説明もしてくれます
西側3分の1くらいの土塁を復元しているのでセットみたいな感じでした
は城跡西側にある役所の駐車場が無料でした。城跡東側に身体障害者専用が3台分あり
2012年02月15日 傾奇揚げ仙兵衛
宇都宮城
土塁のトンネル内に資料やバンフがあり宇都宮餃子オフィシャルマップが置いてあります。この地に来たならば餃子を食べねば!
2010年10月25日 サムライ陸前守はる
宇都宮城
城跡は宇都宮城址公園として整備されており、2基の清明台櫓・富士見櫓が木造復元されています。が2階は見学できないし、土塁の中にエレベーターがあったり、事務所があったりと、的ハズレな復元の仕方には疑問を感じます。
2010年09月25日 徳川内大臣源朝臣康武
宇都宮城
御本丸公園の表と内側で、あーも様子が違うのはなんとも・・・
復元とはいえない。城跡に城っぽい構造物と公園を作っただけ。