宇都宮城(うつのみやじょう)

宇都宮城の基本情報

通称・別名

亀ヶ岡城

所在地

栃木県宇都宮市本丸町

旧国名

下野国

分類・構造

梯郭式+輪郭式平城

天守構造

築城主

藤原秀郷?、藤原宗円?

築城年

平安時代後期

主な改修者

本多正純

主な城主

藤原氏、宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏

廃城年

明治元年(1868)

遺構

土塁

指定文化財

再建造物

清明台櫓、富士見櫓、土塁、堀、土塀、石碑、説明板

周辺の城

戸祭城(栃木県宇都宮市)[1.6km]
江曽島城(栃木県宇都宮市)[3.2km]
犬飼城(栃木県宇都宮市)[5.2km]
横田城(栃木県宇都宮市)[7.0km]
飛山城(栃木県宇都宮市)[7.2km]

宇都宮城の解説文

宇都宮城(うつのみやじょう)は栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。

概要
平安時代に藤原宗円が二荒山の南に居館を構えたのが初めである。近世・江戸時代に改修され、輪郭と梯郭形式を合わせた土塁造りの平城であった。本多正純の頃には天守があったといわれているが、清明台櫓を事実上の天守としていた。また、徳川将軍の日光東照宮参拝の際に将軍の宿泊施設として利用された。

明治初頭の戊辰戦争の際に焼失し、第2次世界大戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていないが、本丸の一部の土塁が現存し、本丸の土塁、堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、宇都宮城址公園として一般に公開されている。今後、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画がある。

歴史・沿革
古代・中世
築城年代は平安時代に遡る。藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと言われる。もともと宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。
近世
戦国時代には後北条氏や日光山の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともあったが、小田原征伐に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城した。宇都宮氏は所領を安堵され羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好であったが、慶長2年(1597年)に突如改易された。宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。
-江戸時代-
慶長6年(1601年)12月28日には関ヶ原後の京警備で功を認められた奥平家昌が10万石で入り、かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興した。

さらに元和5年(1619年)、徳川家康の懐刀と言われた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と城下の改修を行った。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し湧水を張って幾重の水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とした。こうして正純は宇都宮城を近世城郭とする一方、城下の日光街道と奥州街道を整備して町割を行い、城内の寺社群(延命院、長楽寺など)を街道沿いに再配置するなど城下の防御能を向上させると同時に、城内に将軍宿泊所となる本丸御殿を建設し、また宇都宮宿の宿機能・駅機能を整備するなど日光社参に関する設備向上を促進した。この大改修工事の結果、宇都宮城下は城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編された。宇都宮城改修に際し、正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622年)に正純は改易された(宇都宮城釣天井事件)。

正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となった。その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わった。江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で治め、幕末を迎える。

近代
宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した(宇都宮戦争)。この時、宇都宮城下戸数約3,000戸のうち8割以上の約2,000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えられる。宇都宮城には一時大鳥圭介ら旧幕府軍が入るが、直ぐに河田佐久馬、伊地知正治、大山弥助、野津七次、有馬藤太ら率いる新政府軍(薩摩藩、長州藩、鳥取藩、大垣藩などの藩兵隊)に奪還され、宇都宮藩奉行の戸田三左衛門に引き渡された。後、大津港に抑留されていた藩主戸田忠友も帰還。これ以降、宇都宮城は東山道軍の対会津戦争の拠点となり、板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯、宇都宮藩兵は新政府軍の一部隊として下野国内から白河、会津と転戦する。前藩主の戸田忠恕は同年5月27日(1968年7月16日)に宇都宮に帰城するが間もなく他界した。旧暦(同年6月)、宇都宮城内には下総野鎮撫府が古河から移転してきた。また、1871年に真岡天領が廃され真岡県が出来ると、鍋島道太郎が真岡県知事に選任され、陣屋を真岡から宇都宮城内に移した。同年、城内に東京鎮台第4分営第7番大隊が駐屯することとなった。この部隊はその後の1874年に東京鎮台歩兵第2連隊第2大隊に名称を変える。そして1884年にこの部隊が下総国佐倉に移駐となると、宇都宮城内は静かになり、やがて明治23年(1890年)には城郭一帯が民間に払い下げとなって、城内には御本丸公園が整備され、市民の憩いの場として様々な催しが行われたという。一方、城門などの痕跡は払い下げによって失われ、城郭の面影は徐々に消えていった。また濠は西館濠、地蔵濠などの内堀が戦後まで残され、鯉の養殖や蓮の栽培がされていたと言われる。...

宇都宮城の口コミ情報

たな左近将監様[2016年08月28日]
土塁にある案内所では、案内の方が宇都宮の歴史について親切に詳しく教えてくれました。とても分かりやすくありがたかったです。ちなみに宇都宮餃子の情報も教えてくれますよ。

常陸入道ねんさい和泉守様[2014年10月16日]
宇都宮城は戦後までは土塁や水堀がかなり残っていた。
1953年に三の丸の西館堀北側が埋められて体育館が建てられる。
1961年から残りの西館堀と地蔵堀が環境衛生と宅地造成で埋められる。
昭和40年代の後半に本丸西側の水堀と土塁が壊されて遺構は完全に消滅する。

栃木県立博物館発行の「名城宇都宮城」より

【888】あぶり大和大納言様[2012年11月25日]
城跡の西側からアプローチし高さのある土塁と復元櫓を見たときはワクワクしましたが、土塁をぶち抜いた通路にある展示室に入った時に『エレベーターで登れますよ』と言われびっくり??
展示室にはガイドの方がいて説明もしてくれます

西側3分の1くらいの土塁を復元しているのでセットみたいな感じでした

は城跡西側にある役所の駐車場が無料でした。城跡東側に身体障害者専用が3台分あり

傾奇揚げ仙兵衛様[2012年02月15日]
土塁のトンネル内に資料やバンフがあり宇都宮餃子オフィシャルマップが置いてあります。この地に来たならば餃子を食べねば!

サムライ大膳大夫はる様[2010年10月25日]
城跡は宇都宮城址公園として整備されており、2基の清明台櫓・富士見櫓が木造復元されています。が2階は見学できないし、土塁の中にエレベーターがあったり、事務所があったりと、的ハズレな復元の仕方には疑問を感じます。

徳川内大臣源朝臣康武様[2010年09月25日]
御本丸公園の表と内側で、あーも様子が違うのはなんとも・・・
復元とはいえない。城跡に城っぽい構造物と公園を作っただけ。

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