宇都宮城(うつのみやじょう)

宇都宮城の基本情報

通称・別名

亀ヶ岡城、亀岡城、唐糸城

所在地

栃木県宇都宮市本丸町

旧国名

下野国

分類・構造

梯郭式+輪郭式平城

天守構造

築城主

藤原秀郷?、藤原宗円?

築城年

平安時代後期

主な改修者

本多正純

主な城主

藤原氏、宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏

廃城年

明治元年(1868)

遺構

土塁

指定文化財

再建造物

清明台櫓、富士見櫓、土塁、堀、土塀、石碑、説明板

周辺の城

戸祭城(栃木県宇都宮市)[1.6km]
江曽島城(栃木県宇都宮市)[3.2km]
犬飼城(栃木県宇都宮市)[5.2km]
横田城(栃木県宇都宮市)[7.0km]
飛山城(栃木県宇都宮市)[7.1km]
岡本城(栃木県宇都宮市)[8.9km]
刑部城(栃木県宇都宮市)[9.0km]
多気城(栃木県宇都宮市)[9.2km]
徳次郎城(栃木県宇都宮市)[11.0km]
舟戸城(栃木県芳賀郡)[12.1km]

宇都宮城の解説文



宇都宮城(うつのみやじょう)は、栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。別名、亀ヶ岡城(かめがおかじょう)。

概要 

平安時代に藤原宗円が二荒山の南に居館を構えたのが初めである。近世・江戸時代に改修され、輪郭と梯郭形式を合わせた土塁作りの平城であった。本多正純の頃には天守があったといわれているが、清明台櫓を事実上の天守としていた。また、徳川将軍の日光東照宮参拝の際に将軍の宿泊施設として利用された。

明治初頭の戊辰戦争の際に焼失し、第2次世界大戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていないが、本丸の一部の土塁が現存し、本丸の土塁、堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、宇都宮城址公園として一般に公開されている。今後、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画がある。

  • 現在確認できる遺構
    • 埼玉県川口市本町の錫杖寺に明治41年に宇都宮城の門のを解体、移設再建されたと伝わる山門が現存。
    • 栃木県宇都宮市瓦谷町萬松寺の山門は明治時代に宇都宮城の門を宇都宮市塙田の成高寺へ移築後に萬松寺の山門として再移築されたと伝わる。現存する門は草屋根を近年瓦葺き屋根の門に改修されたもの。
    • 今小路門が明治時代に城郭一帯が民間払い下げになった際に移築されたと伝わる門が宇都宮市北部の民家に現存。
    • 三の丸跡の土塁上に旭町の大いちょうが当時の位置のままで現存する[1]

歴史・沿革 

古代・中世

築城年代は平安時代に遡る。藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと言われる。もともと宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。

近世

戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったという。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともあったが、小田原征伐に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城した(なお、当時の宇都宮氏は後北条氏の侵攻を防ぐために多気山城に拠点を移していた)。宇都宮氏は秀吉から所領を安堵され居城を元の宇都宮城に戻すように命じられる。その後羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好であったが、慶長2年(1597年)に突如改易された。宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。

江戸時代

慶長6年(1601年)12月28日には関ヶ原の戦い後の京警備で功を認められた奥平家昌が10万石で入り、かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興した。

さらに元和5年(1619年)、徳川家康の懐刀と言われた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と城下の改修を行った。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し湧水を張って幾重の水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とした。こうして正純は宇都宮城を近世城郭とする一方、城下の日光街道と奥州街道を整備して町割を行い、城内の寺社群(延命院、長楽寺など)を街道沿いに再配置するなど城下の防御能を向上させると同時に、城内に将軍宿泊所となる本丸御殿を建設し、また宇都宮宿の宿機能・駅機能を整備するなど日光社参に関する設備向上を促進した。この大改修工事の結果、宇都宮城下は城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編された。宇都宮城改修に際し、正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622年)に正純は改易された(宇都宮城釣天井事件)。

正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となった。その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わった。江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で治め、幕末を迎える。

近代

宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した(宇都宮戦争)。この時、宇都宮城下戸数約3,000戸のうち8割以上の約2,000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えられる。宇都宮城には一時大鳥圭介ら旧幕府軍が入るが、直ぐに河田佐久馬、伊地知正治、大山弥助、野津七次、有馬藤太ら率いる新政府軍(薩摩藩、長州藩、鳥取藩、大垣藩などの藩兵隊)に奪還され、宇都宮藩奉行の戸田三左衛門に引き渡された。後、大津港に抑留されていた藩主戸田忠友も帰還。これ以降、宇都宮城は東山道軍の対会津戦争の拠点となり、板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯、宇都宮藩兵は新政府軍の一部隊として下野国内から白河、会津と転戦する。前藩主の戸田忠恕は同年5月27日(1968年7月16日)に宇都宮に帰城するが間もなく他界した。旧暦(同年6月)、宇都宮城内には下総野鎮撫府が古河から移転してきた。また、1871年に真岡天領が廃され真岡県が出来ると、鍋島道太郎が真岡知県事に選任され、陣屋を真岡から宇都宮城内に移した。同年、城内に東京鎮台第4分営第7番大隊が駐屯することとなった。この部隊はその後の1874年に東京鎮台歩兵第2連隊第2大隊に名称を変える。そして1884年にこの部隊が下総国佐倉に移駐となると、宇都宮城内は静かになり、やがて明治23年(1890年)には城郭一帯が民間に払い下げとなって、城内には御本丸公園が整備され、市民の憩いの場として様々な催しが行われたという。一方、城門などの痕跡は払い下げによって失われ、城郭の面影は徐々に消えていった。また濠は西館濠、地蔵濠などの内堀が戦後まで残され、鯉の養殖や蓮の栽培がされていたと言われる。

戦後、日本政府による戦災復興都市計画の策定に伴い、昭和21年(1946年)10月9日には宇都宮市も戦災都市に指定され、城跡の遺構は撤去され市街地へと生まれ変わった。昭和30年代(1955年 - 1964年)頃までは現在の東武宇都宮百貨店近辺にも大きな水濠が残存していた。しかし衛生上の事情を理由に、1972年(昭和47年)までにすべて埋め立てられた[2]

復元 

宇都宮城本丸の一部が外観復元され、宇都宮城址公園として2007年(平成19年)3月25日に開園、一般公開された。復元されたのは本丸土塁の一部と土塁上に建つ富士見櫓、清明台櫓、および土塀で、土塁内部は宇都宮城に関する資料を展示している。復元された櫓と土塀は木造本瓦葺きで白漆喰総塗籠で仕上げられている。復元に使用された木材は、土塀の柱と梁が青森産のヒバ材なのを除けば、栃木県内産の桧・杉・松が用いられている。土塁の構造体は鉄筋コンクリート造(貫通部分あり)である。都市防災公園を兼ねることから、本丸跡は芝生が広がるのみで、復元物はない。復元に至ってはコンクリート面がむき出しの部分が多数あり「おほり橋」という実際には存在しなかった橋からトンネル状に土塁が貫通している。ガラスのエレベーター、金属製のシャッターや柵など現代の構造物が入り交じる復元とは程遠い景観となっている事がとても残念である。都市防災公園を兼ねており、周辺には住宅や高層建築物などもあるため、これ以上の復元は現実的に不可能である。

清明台の内部に入ることはできるが、通常2階部分に上がることはできない。史実に忠実に復元したため、階段が急で踏み面が小さく、建築基準法を満たしていないことが理由である。

歴代城主 

平安時代中期から後期に築城されたとされる宇都宮城は、代々藤原宗円を祖とする下野宇都宮氏一族の拠点として受け継がれたといわれる。なお、戦国期には一時、塩谷氏[3]や壬生綱房などの壬生氏一族、皆川俊宗に占拠された時期があったが、以下の一覧にはこれを含めていない。

参考文献 

  • 【書籍】「定本 日本城郭事典」

宇都宮城の口コミ情報

2023年01月12日 まー刑部卿
北ノ館[宇都宮城  周辺城郭]

『堀の内と呼ばれているこの一画は、鎌倉時代の城館として宇都宮市の遺跡とされている。現在は高さ2mの土塁と堀の一部が残っており、両小堀家の宅地として使用されている。また、城郭内と推定される地内には、堀之内、中城、西城、宿等の家号が残っている』と書かれています。

現地は高さ2mほどの土塁は見当たりませんでしたが看板のところの堀跡や堀ノ内の水濠は残存していました。

2023年01月12日 まー刑部卿
(伝)宇都宮城移築門[宇都宮城  遺構・復元物]

北ノ館跡付近の民家の門です。調べてみたら宇都宮城移築門とありました。柱も太く乳金物や八双と呼ばれる門の金具もあり立派な佇まいでした。こちらも市指定文化財でないため説明板なしでした。この付近は路駐出来ないほど道幅狭いです。その先に砂利道になっている道路があるのでそちらに路駐しました。

2023年01月12日 まー刑部卿
(伝)宇都宮城今小路門(移築門)[宇都宮城  遺構・復元物]

宇都宮城今小路門として伝えられている移築門です。市指定文化財でないため門前に説明板もありません。県道157号線(横山街道)のため朝から交通量あります。橋のたもとを左折すると1台ほどのスペースがあり路駐しました。宇都宮城移築門とされる萬松寺に停めて歩いていくのもアリかと。

2023年01月12日 まー刑部卿
宇都宮城移築門?[宇都宮城  遺構・復元物]

[現在確認できる遺構]として記載されていたため現地に行ってみました。
【栃木県宇都宮市瓦谷町萬松寺の山門は明治時代に宇都宮城の門を宇都宮市塙田の成高寺へ移築後に萬松寺の山門として再移築されたと伝わる。現存する門は草屋根を近年瓦葺き屋根の門に改修されたもの。】とありましたが門自体新しく改修されていました。鬼板の辺りの瓦に宇都宮藩戸田家の六星紋があるので関連するお寺と思います。調べてみたら2022年9月頃に改修された模様です。

2023年01月01日 まー刑部卿
旧篠原家住宅[宇都宮城  その他]

宇都宮城址公園から徒歩だと遠いので市内数箇所あるレンタサイクルをお薦めします。宇都宮市内は坂もあるので電動アシスト自転車のほうが楽かと。普通のと電動共に100円です。最初に登録申請後に借用、返却時に金額を支払います。

旧篠原家住宅には2名の職員さんがいらっしゃっいますが1名が説明されます。まず最初は大黒柱の説明をされます。また戦災で醤油醸造蔵等焼失したと説明されていました。説明は一階部分のみで二階も自由に上がれます。その後石蔵三棟の中も見学出来ます。入場料100円のため気軽に入りやすいと思います。

2023年01月01日 まー刑部卿
旧篠原家住宅[宇都宮城  その他]

宇都宮市指定文化財・国指定重要文化財
『篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦までは醤油醸造業・肥料商を営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。市内の店蔵の中で、改造がほとんどされておらず、かつ石蔵を伴って残されているものは数少ない。

住宅の一階部分の両側には、厚さ8cmの大谷石が貼ってあり、この店蔵の特色になっている。帳場の奥に約45cm角のケヤキの大黒柱がある。これは二階の大広間(20畳敷き)の床柱を兼ね、さらに棟木まで延びているのは、建築的に大変珍しいものである。全体的に装飾性は少ないが、よい材料を贅沢に使っており、美しく豪華に造られている。なお石蔵三棟のうち最も古いものは、嘉永4年(1851)に建てられたものである。』と説明板に書かれています。

2022年12月30日 まー刑部卿
宇都宮貞綱・公綱墓所[宇都宮城  寺社・史跡]

境内に、宇都宮貞綱・公綱の墓といわれている五輪塔がある。宇都宮貞綱(1264?〜1316)は8代宇都宮城主で、弘安4年(1281)、元軍の襲来のとき、16歳で大将軍として九州に出陣した。晩年に出家して法名を『連昇』、法号を『興禅寺』といった。寺の名はこの法号によるものである。
宇都宮公綱(1302〜1356)は貞綱の二男で9代城主となり、鎌倉時代から南北朝の動乱期にかけて活躍した武将がある。大阪四天王寺に陣を構えた楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。

2022年12月30日 まー刑部卿
宇都宮貞綱銅像[宇都宮城  寺社・史跡]

『願分
野州精神を想起せよ。
かつて蒙古勢を迎え討つ援軍として出兵せる下野武士の勇猛を、今こゝに貞綱候銅像建立に際して
この「歴史」と「伝統」を誇りとし
「努力」と「精進」を祈念し
ひいては「感謝」と「強調性」に敷衍されることを願うしのであります。
昭和六十一年十一月五日
住持 元海謹誌』と像の下に書かれています。

2022年12月18日 まー刑部卿
銅像盧舎那仏坐像(宇都宮市指定文化財)[宇都宮城  碑・説明板]

『この大仏は享保20年(1735)、善願寺の栄鈷和尚の願いにより造られ、『大豆三粒の金仏』
として、次のような伝説が残されている。
大仏を造る資金が不足して困っていたとき、和尚は善願寺を訪れた旅の僧に願いを打ち明け相談した。僧は大豆三粒を取り出し、これを境内に蒔き、実った大豆を多くの人たちに分けて増やしていけば、やがて資金がえられようと教えてくれた。和尚はすぐにこれを実行し、10年後には念願の大仏を造ることができたという。』と書かれています。

2022年12月17日 まー刑部卿
弥勒堂[宇都宮城  寺社・史跡]

旧本郷町に妙覚院という寺院があり、その境内にあった二十三夜尊を祀っています。【旧町名】本郷町の説明板のすぐそばにあります。

2022年12月17日 まー刑部卿
桑名主米の墓[宇都宮城  その他]

宇都宮第二十七代城主 奥平忠昌公(家康の曽孫)、元和二年徳川家康より白鳥鞘の槍及び葵の御門の鞍を置いた馬を拝領す。
よって『奥平にすぎたるもの二ツあり、
桑名主米に白鳥の槍』と称せられた俊敏・卓識を持った傑物である。
雄山玄英居士と書かれているのが桑名主米の墓。

2022年12月17日 まー刑部卿
張番木戸跡[宇都宮城  碑・説明板]

『ここには、江戸時代に張番木戸がありました。奥州街道(現・大通り)から宇都宮城の大手門に向かうには、最初に通らなければいけない木戸でした。この木戸を南に入ったところに、役人の詰める番所があり、人々の通行を監視していました。』と書かれています。

2022年12月17日 まー刑部卿
樋爪氏の墓[宇都宮城  寺社・史跡]

『ここ三峰山神社の中の二つの五輪塔は、文治5年(1189)、源頼朝が奥州の藤原氏(東北の豪族)一族を攻めたとき、祈願成就のお礼の生贄として二荒山神社に献納された、樋爪俊衡と弟季衡の墓と伝えられている。この墓を、樋爪季衡とその子経衡のものとする説もある。
なお、この二つの墓には、二荒山神社にかかわる悲話が伝えられている。』と神社の前の説明板に書かれています。

2022年12月17日 まー刑部卿
大手門跡[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近には、宇都宮城の表の入口である大手門がありました。かつて大手門は、明神馬場の御橋の南西にありましたが、元和6年(1620)、宇都宮城主となった本多正純が城下町の整備を行ったときに、古い堀を埋め、この付近に大手門を移しました。』と書かれています。また当時湧き出ていた『池の井(宇都宮七水の一つ)』も大手門移設により埋め立てられたと考えられるそうですが現地には『池の井』があったとされる説明板や痕跡等もありません。

2022年12月17日 まー刑部卿
今小路門跡[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近には、宇都宮城の三の丸全体を大きく囲う土塁が築かれ、本多正純が城郭を拡張したとき、『今小路門』が造られました。この門を造るため、釜川に面した所にあった六軒の魚屋は大町の一部に移されました。
三の丸を囲う土塁には、今小路門のほかに、大手門・松ヶ峰門・地蔵堂門・下河原門・中河原門がありました。』と書かれています。

2022年12月17日 まー刑部卿
【旧町名】材木横町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、日光街道沿いの材木町から西へ延びた町人町であったので、材木横町と呼ばれるようになったらといいます。大運寺の門前町として開け、町内には傘屋・桶屋・粉挽き屋などが軒を並べていました。明治時代の初め頃、境町となりました。』と書かれています。

2022年12月17日 まー刑部卿
【旧町名】伝馬町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、元和5年(1619)、宇都宮城主本多正純による城の大改修のときに、下町にあった問屋場が移転された所です。日光街道と奥州街道の分岐点にあたり、荷を運ぶ人馬(伝馬)が備えられたことから、この町の名が生まれました。町内には大名の泊まる本陣をはじめ、たくさんの旅籠屋が軒を並べ、城下では最もにぎやかな所でした。』と書かれています。

2022年12月16日 まー刑部卿
【旧町名】小伝馬町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、江戸時代に伝馬町が宿場町として大きく発展したのにともない、表通りの伝馬町や池上町で働く町人が多く住むようになり、町並みができたところです。伝馬町の発展にともなってできたことから、この町名が起こったといわれています。』と書かれています。

2022年12月16日 まー刑部卿
亀井の水[宇都宮城  その他]

『この『亀井の水』は、江戸時代の名所である『七水』の一つに数えられ、多くの人々に親しまれてきました。
宇都宮城は、上から見ると亀の形に似ているので、亀ヶ岡城とか亀井城ともいわれました。この辺りは、亀の尻尾にあたるので、この湧き水は『亀井の水』と名づけられました。
鎌倉時代、静御前が源義経を慕って奥州へ向かう途中、のどが渇いて困ったとき、家来の亀井六郎が神仏に祈り槍で大地をつくと、ここから清水が湧いたという伝説が残されています。』と書かれています。
本来の湧き水は、水路が塞がれたことで枯れてしまったため池には水道水が流れている、とのこと。

2022年12月16日 まー刑部卿
おしどり塚(宇都宮市指定史跡)[宇都宮城  その他]

『おしどり塚は鎌倉時代に無住法師の『沙石集』によって紹介された旧跡地であり、次のような話が伝えられている。
鎌倉時代のころ、この付近を流れていた求食(あさり)川で猟師が一羽の雄のおしどりを射とめ、その首を切り、身体だけを持ち帰った。
翌日同じ場所でうずくまっている雌のおしどりを射ると、その翼の下には昨日のおしどりの首がしっかりと抱きかかえられていた。
猟師は鳥のもつ愛情に深く心を打たれ、今までの殺生を悔い、石塔を建てて供養したという。』と説明板に書かれている。
また同地は幕末の勤王志士 兒玉強介誕生の地でもある。現在は児童公園になっています。

2022年12月16日 まー刑部卿
材木町木戸跡[宇都宮城  碑・説明板]

『ここには、町人の住んだ材木町から武家の屋敷へと通じる門があり、材木町木戸と呼ばれていました。代官町(現・大寛町)に住む武士が、城内に通う朝晩だけ門が開き、日中は閉じていたことから、不明門(あかずのもん)とも呼ばれていました。』と書かれています。

2022年12月13日 まー刑部卿
官修墓地[宇都宮城  その他]

『大運寺官修墓地
岩村田(長野県浅間町)藩卒
小林庄之助(厚誉忠施信士)
神津九市(勇誉義厚信士)
戊辰の役に際し岩村田藩七十二名の銃兵として差し加えられ、上、武両州を進んで江戸郊外に達し転じて宇都宮城の攻防に於て
慶応四年四月十九日戦死。
平成十二年、宇都宮市街路事業大通り工事による大運寺の全面移転により墓所を現在地に改葬。』と石碑に記されています。

2022年12月13日 まー刑部卿
修道館跡[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近には、安政5年(1858)に設けられた修道館がらありました。文化年間(1804〜1818)に開かれた宇都宮藩の藩校を、幕末の藩政改革によって充実させたものです。藩士の子息に古典・武芸などを教えるとともに、一部には洋学の教育を取り入れました。明治四年(1871)の廃藩置県により閉校となりました。』と書かれています。

2022年12月11日 まー刑部卿
六道閻魔堂[宇都宮城  碑・説明板]

『この辺りは、江戸時代に壬生や佐野、楡木などから宇都宮の城下へ向かう六本の道が集まっていたので、仏教でいう六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六世界)になぞらえて、六道と呼ばれていました。
元禄14年(1701)、光琳寺の専誉上人はお堂を建て、高さ2.4mほどの閻魔大王を祀りましたが、明治初めの戊辰戦争で焼けてしまいました。現在のお堂は、明治39年(1906)に建て直したものです。』と書かれています。

2022年12月06日 まー刑部卿
三日月堀跡[宇都宮城  碑・説明板]

『元和6年(1620)、宇都宮城主本多正純は城郭の大改修を行いました。この辺りにあった三日月堀は、そのときに掘られたものの一つで、東西に三日月形に長く湾曲し、堀の幅約22m、東西の長さ約144m、深さ約8mありました。

三日月堀は、大手門(正面の入口)から太鼓門に入る敵を防ぐ、防衛強化のためのものでした。』と書かれており、現在は道路として湾曲された部分も残っています。

2022年12月06日 まー刑部卿
宇都宮城主 戸田家菩提所英巌寺墓跡入口[宇都宮城  碑・説明板]

入口前の道は一方通行で道幅狭いです。また周辺は住宅地のため路駐も厳しい環境です。東武鉄道の鉄橋付近の下り坂の路側帯に路駐箇所有り。高低差を感じ取れる箇所で地蔵堀跡付近です。

2022年12月06日 まー刑部卿
宇都宮城主 戸田氏の墓所[宇都宮城  関連施設]



『英巌寺は、宝永7年(1710)戸田忠真が宇都宮城主になったときに建てられたがもともと墓はなく、位牌堂があった。
戸田氏(江戸時代中ごろから明治維新までの宇都宮城主)の墓は江戸牛込の松源寺にあったが、明治41年(1908)、松源寺の移転のとき、ここ英巌寺に改葬された。正面に46代忠恕の墓、47代忠友(最後の城主)の墓、左奥に尊次から忠明まで11人の名前が刻まれた大きな墓碑がある。』と書かれています。
宇都宮市指定文化財。
戊辰戦争・宇都宮城の戦い、において旧幕府軍に放火消失しそのまま廃寺となり報恩寺へ統合。明治8年(1875)、寺跡に鉄製の鳥居が建てられています。現在、寺跡の大部分は私有地となり戸田氏の墓は英厳寺児童公園となる。
46代、47代とは宇都宮城が築城された平安時代から数えて、となる。
駐車は不可で地蔵堀跡付近で路駐箇所有り。

2022年12月06日 まー刑部卿
鏡ヶ池[宇都宮城  碑・説明板]

『昔、この辺りに池があり、その池から出てきた鏡を二荒山神社に奉納したことから、鏡ヶ池と呼ばれるようになったといわれています。また、池から出た鏡は、静御前が落としたものだという伝説があります。宇都宮の古い名である池辺郷は、この池を含む広い湿地に由来するという説もあります。』と書かれています。

2022年12月06日 まー刑部卿
福守稲荷神社[宇都宮城  関連施設]

『平安初期の頃、宇都宮国主が此の地に赴任した時、京都伏見稲荷総本宮により御分霊を頂き、盗難火難除け祭神として現在地に鎮座す。
正一位 福守稲荷大明神 氏子』
『昭和二十年七月十三日の空襲で炎上した拝殿を昭和三十一年三月に再建、その後老朽化の為、拝殿並びに鳥居の修復を重ねたが平成二十三年の東日本大震災により損傷した拝殿を修復。
平成二十五年初午祭に、近隣の方々の寄進と江野町自治会により鳥居を新たに建立。
江野町自治会』
と説明板に書かれています。

2022年12月06日 まー刑部卿
屋台(伝馬町)[宇都宮城  碑・説明板]

庫の前に説明板と屋台の写真が掲載されており『この屋台は、4輪の車のついたもので、屋根の上には、龍が今にも飛び出しそうな姿で乗っている。『牡丹に唐獅子』『松に鳳凰』など、全体に華麗な彫刻がはめこまれている彩色の彫刻屋台である。江戸末期の代表的な彫刻師磯邊儀兵衛が造ったもので、屋根の裏側には『嘉永五年(1852)壬子九月祥日』の墨書銘がある。』と書かれています。

2022年12月06日 まー刑部卿
【旧町名】池上裏町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、江戸時代に池上町から分かれてできた町で、池上町の北裏にあたるため池上裏町とか裏町と呼ばれていました。西から東に向かってなだらかに下る坂道沿いの町並みで、東は釜川に面していました。明治時代の初め頃、泉町となりました。』と書かれています。

2022年12月06日 まー刑部卿
【旧町名】餌差町(えさしちょう)[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、鷹の餌となる小鳥をとる餌差人が住んでいたので、餌差町と呼ばれるようになったといわれています。町内には延命院と真福寺が東西に並び、町の西側は延命院前、真福寺前と呼ばれていました。明治時代の初め頃、寿町となりました。』と書かれています。

2022年12月06日 まー刑部卿
【旧町名】新石町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、元和5年(1619)頃下町の米屋3軒が移転してきたことから、はじめは西石町と呼ばれ、後に新石町と呼ばれるようになったといわれています。町の南側には、日光街道を往来する荷物の重さを調べる貫目改所が置かれていました。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】千手町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、江戸時代に千手院という千手観音像を祀る寺院があったことから、町名が起こったといわれています。鍛冶屋や古着屋がある細い通りでしたが、明治時代に宇都宮駅への道が整備され、にぎやかになりました。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】江野町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、元和5年(1619)、宇都宮城主本多正純による町割り替えのとき、古い堀を埋めて町場したところといわれ、その時江戸町名付けられたのが町名の起こりと伝えられています。
この町は、南の広小路を抜けて城の大手門へ通じる重要なところでした。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
およりの鐘[宇都宮城  寺社・史跡]

『この鐘は、宇都宮氏の滅亡(1597年)によって廃寺となった東勝寺(日野町通り北側一帯の地)にあったものである。江戸時代には夕暮れになると宇都宮城下に鳴らされたので、『およりの鐘』として親しまれていた。『おより(御寝り)とは、『お休みになる』の意味である。鋳造年代は不明であるが、鐘の中帯に宇都宮氏の家紋『三つ巴』が20個ほどついているので、宇都宮氏の寄進によるものであろう。この鐘は、その後、様々ないきさつをたどって、昭和19年(1944)、宝蔵寺へ移され、今に至っている。』と説明板に書かれています。宇都宮市指定文化財。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】曲師町(まげしちょう)[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、江戸時代の初め頃、檜や杉の薄い板を曲げて容器などを作る職人である曲物師が移住してきたことから、曲師町と呼ばれるようになりました。町の南側を流れる釜川の御手洗(みたらし)は、二荒山神社にお参りする人が身を清めた場所でした。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】日野横町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、元和6年(1620)に二荒山神社から東に向かう切り通しができるまでは、日野町の方が入り口の袋小路であったため、日野横町という名が付けられ、日野町横町・日野小路町とも呼ばれていました。
江戸時代の半ば頃、千手町の一部となりました。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【日野町の由来】[宇都宮城  碑・説明板]

『日野町は、二荒山神社の参道に面した門前町として民家が散在していたが、城が築かれてからは徐々に城下町としての様相が整えられて来た。
慶長三年(一五九八年)蒲生飛騨守秀行が宇都宮城主として入部してきた。時あたかも関ヶ原合戦(一六〇〇)を控え、関西は世情不穏であったので、蒲生氏の故郷である近江国蒲生郡日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)の商人達は、安全な関東に商売の道を求め、取り分け昔の恩顧により蒲生家を頼り、宇都宮の地に移り住んで来た。
秀行はこれらの商人達を廃寺となったばかりの東勝寺境内に住まわせ、御用商人に取り立てた。
日野の商人が移り住んだことから、商人町として発展する基礎ができ、城主が郷里の日野を偲んで『日野町』と命名した。
慶長六、七年(一六〇一〜二年)頃には町並みも整い、宇都宮の重要な位置にあったこともあり、商人町として賑わいをみせた。
『日野町の歴史』より』と書かれています。
宇都宮の軌跡【旧町名】の説明板はありませんでした。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】伊賀町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、宇都宮城下の西端に位置した武家屋敷町で、宇都宮氏の時代に芳賀伊賀守ゆかりの土地であったことから、伊賀町の名が付けられたといわれます。江戸時代には、楡木・栃木へ通じる六道口を警備する役人の屋敷が置かれました。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】馬場町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、古くから二荒山神社(宇都宮大明神)の門前町として開けたところで、馬場先であったことからこの町名が付いたといわれます。かつては門前から南北の通りを馬場町、西の池上町方面へのびる通りを西馬場とし、元の馬場町を大明神馬場と呼ぶようになりました。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】釈迦堂町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近には、かつて二荒山神社の別当寺である東勝寺がありました。この東勝寺が廃寺となり、境内にあった釈迦堂の跡地にできた町ということでこの名が付きました。二荒山神社から延びる丘陵を開いて道を通した当初は、『切り通し』とも呼ばれ、ネバ土のため歩くのが大変な所でした。明治の初め頃、相生町となりました。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】大工町[宇都宮城  碑・説明板]

『宇都宮城を築くとき、この付近に大工を住まわせたことから、大工町の名が付けられたといいます。江戸時代には穀物屋・干鰯屋(ほしかや)・鍛冶屋・荒物屋など、いろいろな商人や職人が住んでいました。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】清巌寺町[宇都宮城  碑・説明板]

『天正元年(1573)芳賀高継が宿郷村にあった念仏堂をこの地に移し、芳賀氏の本姓の清原氏の『清』をとって寺の名を清巌寺としました。この寺院の門前に町並みができたので清巌寺町の名が付けられました。明治時代の初め頃、清水町となりました。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】扇町(おおぎちょう)[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、扇や団扇をつくる職人が多く住んでいたので、扇町の名が付いたといわれています。昔は大変繁盛し、扇や団扇は宇都宮の名産として奥州地方にまで取り引きがあったといいます。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】壁町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、壁をつくる職人が住んでいたので、壁町の名が付けられたといわれています。井戸水の質が良かったことから、他の町まで水を売り歩く人もいたようです。江戸時代の後期には塙田村に含まれたものと思われます。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
【旧町名】小門町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、間口の小さな家が多く並んでいたことから小門町という名が付いたと言われています。宇都宮城下の最北端に位置し、町内には、大工・茅葺きなどの職人が住んでいました。』と書かれています。

2022年12月05日 まー刑部卿
不動堂[宇都宮城  寺社・史跡]

『江戸時代の初めころ、宇都宮城主本多正純は、日光街道と奥州街道をつけかえました。
そのとき、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが、不動明王を祀った不動堂です。
江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。
不動堂は初め、この場所より東方(旭陵通りを少し入った辺り)にありましたが、後にここに移されました。今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するものです。』と書かれています。

2022年12月04日 まー刑部卿
【旧町名】宮島町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、川や沼など湿地に囲まれた島のような地形であったので、宮島町と呼ばれるようになったといわれています。
町内には、古着屋・穀物屋・造酒屋・荒物屋などが軒を並べていました。』と書かれています。

2022年12月04日 まー刑部卿
【旧町名】新宿町[宇都宮城  碑・説明板]

『上河原町で開かれていた市が大名の通行にさしつかえがあったので、寛永11年(1634)この付近に移されました。大町の市に対して新しく開かれたことから、新宿町という名が付けられました。市は月に6回、三と八のつく日に開かれ、日々の暮らしに必要なものが盛んに取り引きされました。』と書かれています。

2022年12月04日 まー刑部卿
【旧町名】新田町[宇都宮城  碑・説明板]

『宇都宮城の北を流れる釜川の西側一帯は、古くは西原と呼ばれていました。この付近はその西原に開発された新田でしたが、日光街道沿いに人家が増えたことにより新田町と呼ばれるようになりました。宇都宮城下北西の交通の要所として番所が置かれていました。』と書かれています。

2022年12月04日 まー刑部卿
【旧町名】本郷町[宇都宮城  碑・説明板]

『宇都宮城の北を流れる釜川の西側一帯は、古くは西原と呼ばれていました。この付近はその本村であったことから本郷町と呼ばれるようになりました。江戸時代は日光街道沿いに多くの商屋が軒を並べにぎわいました。また町名には本郷山妙覚院という寺院がありましたが、この境内にあった二十三夜尊が、今でも大切に祀られています。』と書かれています。

2022年12月02日 まー刑部卿
【旧町名】剣宮町(つるぎのみやまち)[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、江戸時代の初め頃は薮地で、そこに古い剣を納める剣宮神社という祠がありました。その後、剣宮神社は二荒山神社へ移されましたが剣宮町という名はその祠から付けられたといいます。なお、当時奉納されたといわれる刀が、現在も地元に伝えられています。』と書かれています。

2022年12月02日 まー刑部卿
【旧町名】大町(おおまち)[宇都宮城  碑・説明板]

『奥平大膳大夫家昌が城主のとき、この付近で大膳市が開かれ、奥州街道沿いであったので大変にぎわいました。そこで大町という名が付けられたといわれています。月に6回、一と五のつく日には市が開かれ、宇都宮城下の中心的な問屋街として栄えました。』と書かれています。

2022年12月02日 まー刑部卿
【旧町名】下河原町[宇都宮城  碑・説明板]

『下河原町は、もと、田川に近いところにあったことから、この名がつけられました。宇都宮城の下河原門を出たところにあたり、武家地と簗瀬村との境に位置していました。明和年間(1764〜1772)の洪水により、この付近に移り住んだといわれています。』と書かれています。

2022年12月02日 まー刑部卿
本陣跡[宇都宮城  碑・説明板]

『江戸時代、この辺りに本陣が置かれました。
本陣とは、大名や幕府の役人などが宿泊する施設のことです。東北地方の大名の参勤交代のときや、将軍の日光東照宮参詣の際の供者の宿舎として、この本陣が使われました。
ここ伝馬町の本陣は、200坪(661㎡)近い大きな建物でしたが、今は、屋敷の庭にあったイチョウの大木が、わずかに当時の面影を偲ばせてくれます。』と書かれています。

2022年12月02日 まー刑部卿
【旧町名】南新町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、江戸時代には宇都宮城下の南端に位置していました。元和5年(1619)、宇都宮城主本多正純により日光街道の付け替えがなされたとき、街道沿いに新しく開かれたところで、町の名もそれに由来します。城下への出入口のため、見張人の詰める番所が設けられ、多くの寺院が建っていました。』と書かれています。

2022年12月01日 まー刑部卿
追分一里塚[宇都宮城  碑・説明板]

日光道中宇都宮宿追分一里塚『二十七里』
『元和五年(一六一九)宇都宮城第二十八代城主・本多正純公は城下の町割りを行うとともに、五街道の奥州道中と日光道中を伝馬町で分岐(追分)させ、街道を整備しました。当地は日本橋から十七番目の宿場『宇都宮宿』として栄えました。
徳川家康公が祀られている日光東照宮は、基点の日本橋より三十六里。一里塚は、国の史跡である二十ニ里(小金井)をはじめ、上戸祭の二十八里など一部が整備されていますが、この二十七里は昨年に当委員会が、江戸期の絵図からその存在を明らかにしました。
この度、当委員会が小幡清住地区のまちづくりの一環として、日光道中追分一里塚『二十七里』の標識を設置いたしました。
平成二十六年十一月吉日
日光街道 小幡清住まちづくり委員会』
と書かれており、向かいにも同じものが建てられています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】熱木町(ねぎまち)[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近には、古くから不動尊が祀られ、熱木の不動尊として親しまれていました。江戸時代以前には贄木町とも呼ばれていたようです。日光街道沿いのため、将軍日光社参のときには、臨時の番所が置かれました。』と書かれています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】石町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、戦国時代に宇都宮氏から穀物を一手に商うことを認められていた人々が住んでいたので、石町という名が付けられました。江戸時代には穀物の売買に大きな力をもち、新石町の穀物商人を支配していたこともあります。
江戸時代後期には21軒の穀物問屋がありました。』と書かれています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】元石町[宇都宮城  碑・説明板]

『江戸時代の初め頃、この付近に米問屋があり、東石町と呼ばれていました。その後、米問屋が石町や新石町に移ったため元の石町という意味でこの町名が付きました。米問屋が移ったあと武士の屋敷となりましたが、火災で焼けてからは町人町となりました。』と書かれています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】紺屋町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、道場宿(茂木)街道の北側に位置し、慶長5年(1600)に宇都宮城下の紺屋(染物屋)がこの地に移り住んだことから、紺屋町と呼ばれるようになりました。江戸時代の後期には宿郷村の一部になりました。』と書かれています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】東新町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、武家屋敷町でしたが、ここにあった奉行人屋敷を移し、その跡を町家にしたことから新しい町ができ、東新町と呼ばれるようになりました。明治時代には川向町の一部となり、東新町の名はなくなりました。』と書かれています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】八日市場[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、宇都宮城主本多正純が町割り替えを行ったとき、奥州街道沿いで開かれていた市をこの地に移し、八日市場の名が付いたといわれます。町の名を道場宿(茂木)街道がとおり、田川には押切橋(現・旭橋)がかかっていました。』と書かれています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】中宿[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、江戸時代には中宿と呼ばれ、宇都宮藩の上級武士の下屋敷や下級武士の屋敷などがありました。江戸時代も後半になると、八日市場や宿郷村の一部となり、中宿という地名がなくなったといわれています。』と書かれています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】猿が町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、宇都宮城下と簗瀬村との境の町であり、ここを猿が町といいました。宇都宮城の中河原門を出て田川にかかる洗橋と、用水路にかかる猿が橋を渡ったところにあたり、ここより東は簗瀬村でした。』と書かれています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】材木町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、宇都宮城の北西に位置した町人町で、特に藩の御用材を商う材木問屋が軒を並べていたことが、町名の起こりと伝えられています。町の中ほどから東の城内へ通じる道には不明門と呼ばれた木戸番所がありました。』と書かれています。

2022年11月30日 まー刑部卿
【旧町名】杉原町[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、二荒山神社の社地から続く林に杉の木が多かったことから、杉原町と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸時代は、古着屋・木綿屋・桶屋などが軒を並べた町人町で、西の池上町との境にあった池上橋(現・都橋)は、城下随一の名橋といわれました。』と書かれています。

2022年11月28日 まー刑部卿
小豆坂[宇都宮城  碑・説明板]

『この坂は、かつて宇都宮城内に通じる古道の一つでした。
昔、坂には竹が多く両側から茂った竹の葉が、道をふさぐほどにかぶさり、風が吹くと、笹の葉のこすれる音が、さやさやと、まるで小豆を洗う時のような音をたてていたことから、『小豆坂』と呼ばれるになったということです。
(出典 市教育委員会編『宇都宮の民話』より)』

2022年11月28日 まー刑部卿
狸坂[宇都宮城  碑・説明板]

『この坂はかつて宇都宮城内に通じていた古道でした。昔、坂の周辺は緑が多く中途には宇都宮七木に数えられた大欅や、柿の木のある鬱蒼とした坂道で、付近一帯は、よく狸や貉(むじな)が出没したことから『狸坂』という名がつけられたそうです。(出典 市教育委員会編『宇都宮の民話』より)
平成二年 宇都宮市道路愛称事業』とあります。
現在その面影は全く残っていません。
東武宇都宮線高架下に石碑があります。

2022年11月28日 まー刑部卿
千歳坂[宇都宮城  碑・説明板]

『この辺りは、宇都宮城の南西に位置し、城内で使われる野菜畑(前栽畑)になっていました。伝承によると前栽(せんざい)の音から、千歳(せんざい)の字をあてて、千歳坂と呼ばれるようになったといわれています。
坂は西に高く東へなだらかに傾斜し、坂を東に下ると南北に伸びた土塁につきあたり、西に上ると武家屋敷に通じていました。』と書かれています。
石碑には前文に『この坂は宇都宮城に通じる古道の一つ』と記されその後の文は同じです。

2022年11月28日 まー刑部卿
佐野口木戸跡[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、宇都宮城の西方に位置していました。江戸時代初め、宇都宮城主となった蒲生秀行は、城内を修築して強化を図り、城内と町人町を板塀で仕切り、その際、出入口を設けました。ここは佐野道に通じていたので、佐野口木戸と呼ばれていました。木戸を入ると武家屋敷町になり、木戸の横には出入りを厳しく見張る茅葺きの番所がありました。』と書かれています。

2022年11月28日 まー刑部卿
【旧町名】四ノ筋[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、宇都宮城外堀の西に位置する武家屋敷町で、城の近くから南北通りを順に一ノ筋・二ノ筋・三ノ筋・四ノ筋と呼んでいました。この四ノ筋には60を超える武家屋敷が並んでいましたが一つの屋敷の大きさは300〜400坪くらいで、屋敷には竹や茶の木が植えられていました。』と書かれています。

2022年11月27日 まー刑部卿
朝日坂[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は奥州街道に沿った所で、江戸時代には町屋が並び、商業の中心地としてにぎわいをみせた所です。
この坂は、西に高く東へなだらかに傾斜し、坂の上には観音像を祀ったお堂がありました。
観音像には朝早く日がさしたので、朝日坂(旭坂)と呼んでいました。この坂の上から、二荒山神社の森や城下を一望することができたといわれています。』と書かれています。
自転車で進むと結構キツい坂道です。

2022年11月27日 まー刑部卿
【旧町名】三ノ筋[宇都宮城  碑・説明板]

『この付近は、宇都宮城外堀の西に位置する武家屋敷町で、城の近くから南北通りを順に一ノ筋・二ノ筋・三ノ筋・四ノ筋と呼んでいました。この三ノ筋には約40の武家屋敷が並んでいましたが一つの屋敷の大きさは500〜600坪くらいで、屋敷には竹や茶の木が植えられていました。』と書かれています。

2022年11月27日 まー刑部卿
【旧町名】三ノ筋[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は、宇都宮城外堀の西に位置する武家屋敷町で、城の近くから南北通りを順に一ノ筋・二ノ筋・三ノ筋・四ノ筋と呼んでいました。この三ノ筋には約40の武家屋敷が並んでいましたが一つの屋敷の大きさは500〜600坪くらいで、屋敷には竹や茶の木が植えられていました。』と書かれています。

2022年11月27日 まー刑部卿
【旧町名】ニノ筋[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は、宇都宮城外堀の西に位置する武家屋敷町で、城の近くから南北通りを順に一ノ筋・二ノ筋・三ノ筋・四ノ筋と呼んでいました。この二ノ筋には40を超える武家屋敷が並んでいましたが一つの屋敷の大きさは600〜800坪くらいで、屋敷には竹や茶の木が植えられていました。』と書かれています。

2022年11月27日 まー刑部卿
【旧町名】ニノ筋[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は、宇都宮城外堀の西に位置する武家屋敷町で、城の近くから南北通りを順に一ノ筋・二ノ筋・三ノ筋・四ノ筋と呼んでいました。この二ノ筋には40を超える武家屋敷が並んでいましたが一つの屋敷の大きさは600〜800坪くらいで、屋敷には竹や茶の木が植えられていました。』と書かれています。

2022年11月27日 まー刑部卿
【旧町名】一ノ筋[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は、宇都宮城外堀の西に位置する武家屋敷町で、城の近くから南北通りを順に一ノ筋・二ノ筋・三ノ筋・四ノ筋と呼んでいました。この一ノ筋には約30の武家屋敷が並んでいましたが、一つの屋敷の大きさは600〜800坪くらいで、屋敷には竹や茶の木が植えられていました。』と書かれています。

2022年11月27日 まー刑部卿
【旧町名】一ノ筋[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は、宇都宮城外堀の西に位置する武家屋敷町で、城の近くから南北通りを順に一ノ筋・二ノ筋・三ノ筋・四ノ筋と呼んでいました。この一ノ筋には約30の武家屋敷が並んでいましたが、一つの屋敷の大きさは600〜800坪くらいで、屋敷には竹や茶の木が植えられていました。』と書かれています。

2022年11月23日 まー刑部卿
南館堀跡[宇都宮城  碑・説明板]

『この辺りには、宇都宮城の南の守りである南館堀がありました。この堀の幅は10間(約18m)であったと記録されています。堀の内側には武士の屋敷が建ち並んでいました。』と書かれています。

2022年11月23日 まー刑部卿
【旧町名】上河原町[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は、もとは田川の河原地であったことから、その名が付けられたと思われます。
奥州街道が田川を渡る所であり、上河原橋(現・幸橋)がかかるまでは、徒歩や船で渡っていました。また、寛永11年(1634)までは市が開かれていましたが、現在も続く初市はその名残です。』と書かれています。

2022年11月23日 まー刑部卿
【旧町名】博労町[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近に、昔、腕のよい伯楽、つまり馬の病気を治す医者が住んでいたことから伯楽町といい、それが博労町となったといわれています。また馬喰町と記されたこともありました。
奥州街道の出口にあたり、質屋・醤油屋・荒物屋などがありました。』と書かれています。

2022年11月23日 まー刑部卿
【旧町名】小袋町[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は大きく蛇行する田川と上河原町とにはさまれた半月形の袋小路になっていたので、小袋町の名が付けられました。
江戸時代には、大工・車細工・紺屋などか軒を並べていました。』と書かれています。

2022年11月21日 まー刑部卿
【旧町名】代官町[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は、宇都宮城下の西端に置かれた武家屋敷町でした。江戸時代の初めに代官屋敷が置かれていたことから、代官町と呼ばれるようになりました。宇都宮藩の代官の数は約80人で一つ屋敷の大きさは600〜800坪ほどでした。明治時代の初め頃、大寛町となりました。』と書かれています。

2022年11月21日 まー刑部卿
歌橋番所跡[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は、宇都宮城の西方に位置していました。江戸時代初め、宇都宮城主となった蒲生秀行は、城内を修築して強化を図りましたが、その際、城内と街道を板塀で仕切り、木戸口を設けて、出入りの人たちを厳しく見張る番所を置きました。この辺りの町名(歌橋町)にちなんで、歌橋番所と呼んでいました。』と書かれています。写真奥が宇都宮城がある方角です。

2022年11月21日 まー刑部卿
百間堀跡[宇都宮城  碑・説明板]



『この辺りには宇都宮城を守る百間堀がありました。幅24間(約43m)、深さ3間2尺(約6m)、北は三の丸の太鼓門から南は宇田門まで、およそ100間(約180m)あったのでこの名がつけられました。市指定天然記念物である『大いちょう』は、この堀の内側の土塁上に立っていたと考えられます。』と書かれています。農水省関東農政局栃木支局前にあります。

2022年11月21日 まー刑部卿
西館堀跡[宇都宮城  碑・説明板]



『この辺りには宇都宮城の西の守りである西館堀がありました。この堀は宇田門から西館門にかけて続き、幅は23間(約41m)であったと記録されています。堀の内側には御普請小舎がありました。』と書かれています。宇都宮市役所裏手にあります。

2022年11月21日 まー刑部卿
地蔵堀跡[宇都宮城  碑・説明板]



『この辺りには宇都宮城の南西の守りである地蔵堀がありました。この堀は地蔵堂門と英巌寺(宇都宮戸田氏の墓所)をむすぶ道路の南側に位置し、近くには延命地蔵堂があります。』と書かれています。

2022年11月20日 まー刑部卿
松ヶ峰門土塁跡[宇都宮城  遺構・復元物]



さがみ典礼 一条さんの駐車場から確認出来ますが直接行けません。

2022年11月20日 まー刑部卿
松ヶ峰門跡[宇都宮城  碑・説明板]

『この辺りに、宇都宮城の西の出入り口となる松ヶ峰門がありました。門の両側には、城を守るための土塁が南北に続いていました。
門を入ると、西から東に下る狸坂があり、城に仕える最上級の武家屋敷が並んでいました。門の東側は、城内の中では一番の高台になっており、最も早く朝日がさすことから、高屋敷とか朝日台と呼ばれていました。』と書かれています。ネット等による情報ですと土塁が現存しかつては近くまで見ることが出来たらしいですが現在、[さがみ典礼 一条]の駐車場奥から見ることは可能ですが直接行ける手段はありません。

2022年11月20日 まー刑部卿
【旧町名】歌橋町[宇都宮城  碑・説明板]



『昔、このあたりに住んでいた人が歌を詠み、その歌が万葉集に載ったという伝説により、町名が起こったといわれております。
古くは、宇田橋町とも書かれていました。江戸時代、七のつく日には日光街道に市がたち、にぎわいをみせました。』と書かれています。

2022年11月20日 まー刑部卿
【旧町名】小幡町[宇都宮城  碑・説明板]



この付近は、宇都宮城下の北西端、日光街道の西側に位置した武家屋敷町で、御旗組という武士階級が住んでいたので、小幡町または小旗町、御旗町と呼ばれるようになりました。街道口であることから、警備の役割を果たしていたようです。

2022年11月17日 まー刑部卿
安養寺[宇都宮城  寺社・史跡]



訪れた時は珍しい光景があり、作業していませんでしたが曳屋作業前。

2022年11月16日 まー刑部卿
戊辰の墓[宇都宮城  その他]



この六道の辻は宇都宮戊辰戦争時に宇都宮城奪還を図る新政府軍と守る旧幕府軍とで激戦を繰り広げた場所で旧幕府軍の戦死者を地元の方々が供養されています。土日は制限速度を遥かに超えた車が多いので訪れた際はお気をつけてください。

2022年11月16日 まー刑部卿
【旧町名】挽路町[宇都宮城  碑・説明板]



『元和5年(1619)、宇都宮城主本多正純が日光街道の付け替えを行ったとき、付近の道を西側へ引いて町をつくったので、挽路町という名が付いたといわれています。また轆轤を挽く家が多かったことが、町の起こりだとも伝えられています。江戸時代には、ニのつく日に市がたち、にぎわいをみせました。』と書かれています。

2022年11月16日 まー刑部卿
【旧町名】茂破町[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近は、宇都宮城主本多正純が日光街道を開くまでは、竹藪や雑草の生い茂る原野であったところを、『茂を破って』町づくりしたことから、茂破町と呼ばれるようになったといいます。江戸時代には、ニのつく日に市がたちにぎわいました。明治時代の初めになって、茂登町と改められました。』と書かれています。

2022年11月16日 まー刑部卿
【旧町名】蓬萊町[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近に、古くから蓬萊観音を祀ったお堂があったので、蓬萊町と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸時代は日光街道沿いに町屋が並び、七のつく日には市がたち、にぎわいをみせました。』と書かれています。

2022年11月16日 まー刑部卿
【旧町名】大黒町[宇都宮城  碑・説明板]



『この付近に、古くから三面大黒天が祀られていたので、大黒町と呼ばれるようになりました。
江戸時代には日光街道沿いに町家が並び、宿屋が多かったといいます。また、七のつく日には市がたち、にぎわいをみせました。』と書かれています。

2022年10月31日 まー刑部卿
御山屋敷跡[宇都宮城  碑・説明板]

『この辺りは宇都宮藩主戸田氏の別邸があったので、御山屋敷と呼ばれていました。広大な敷地をもつ屋敷で享保16年(1731)藩主戸田忠真のとき、さらに追加拡張され9,000坪をこえる(約30,000㎡)敷地になりました。木々が生い茂り、四季折々に花が咲き、周囲を一望に見渡せる宇都宮第一の景勝地といわれました。

普段は庭に入ることが出来ませんでしたが毎年2月初午の日に限って一般に公開され、庭園内にあった稲荷、八幡の社に参拝することが出来ました。』と書かれています。

2022年10月24日 まー刑部卿
下蓮池跡[宇都宮城  碑・説明板]



お城の南東を守る堀があり最も外側に外側にあったと書かれています。
今ではお堀の跡形もわかりませんが城址公園との高低差により説明板の辺りが堀の跡?とうっすらわかります。

2022年10月24日 まー刑部卿
旭町の大いちょう[宇都宮城  遺構・復元物]



三の丸と百間堀との境にあった土塁上にあります。この時期は銀杏の実から発する強烈な臭いが辺り一面に漂っています。
第二次世界大戦時の宇都宮大空襲の際に戦火により被害を受けたが翌年に新芽を吹き現在の姿になったと説明があります。
昭和の時代にいちょうの木は宇都宮市の木に制定されたとのこと。
宇都宮市指定天然記念物。

2022年10月24日 まー刑部卿
御橋[宇都宮城  その他]



宇都宮市内にある釜川に架かる橋。
中世宇都宮氏が統治していた時期からあり、何度も歴史の歴史の舞台となったため釜川の架かる橋の代表的な橋の一つ。
当時は宇都宮氏の当主のみしか渡れなかったそうです。
現在の御橋は、昭和54年頃に地元有志の皆さんの掛け声で造られたようです。
車の往来が結構あるのでお立ち寄りの際はご注意を。

2022年10月24日 まー刑部卿
明神の井[宇都宮城  寺社・史跡]



二荒山神社境内にある宇都宮七水の一つ。
井戸が深く七水のなかでも随一と云われるほどの綺麗な水で現在も湧き出ています。井戸は蓋で覆われていますが横にある蛇口をひねると水が出ます。また七水の中でもここだけ飲用出来ますが飲用時は煮沸消毒してから飲用してください。

2022年10月24日 まー刑部卿
二荒山神社[宇都宮城  寺社・史跡]



七五三詣があってか人出が多かったです。宇都宮で定番パワースポットでした。

2022年10月23日 まー刑部卿
宇都宮城ものしり館[宇都宮城  関連施設]



【令和4年度城址公園清明館秋の企画展】
『宇都宮の幕末と戊辰戦争』が開催中です。
2022.10.7〜12.18(無料、会期中無休)
9:00〜19:00(入館18:30まで)
男性職員1名、女性職員2名いらっしゃいました。男性職員の方の説明を詳しく受けていましたが廃寺になった寺社について及び場所はわからない、とおっしゃていました。
中は本丸の模型と宇都宮城及び周辺の模型有り。
また発掘された出土品の展示がありました。

2022年10月23日 まー刑部卿
富士見櫓[宇都宮城  遺構・復元物]



清明台同様、内部見学可で土足厳禁。中は狭間があったり富士見櫓の模型も置いてありました。説明文は外にあります。

2022年10月23日 まー刑部卿
清明台櫓[宇都宮城  遺構・復元物]



訪れた際、中も見学出来ますが土足厳禁で入口で靴等脱ぎます。
階段から上も見学不可でした。

2022年10月23日 まー刑部卿
駐車場[宇都宮城  駐車場]

土日は午前10時頃に満車になります。トイレ完備されています。

2022年10月23日 まー刑部卿
駐車場(南側)[宇都宮城  駐車場]

土日は朝のうちに駐車しないとすぐ満車になります。

2022年10月11日 猛牛左衛門佐虎猫繁
宇都宮城

VRで城を見ることができました。思ったより画像は綺麗でしたよ。

2022年05月09日 マグロ常陸介祐平
宇都宮城



巨大な土塁の中は展示室となっていて、ボランティアの方がお城の説明をしてくれます。公園内の清明館にも城に関する展示があり宇都宮市が発行する歴史関係の書物が購入できます。徒歩10分ほど離れた英厳寺跡には最後の藩主戸田氏の墓があります。英厳寺は戸田氏の菩提寺で、戊辰戦争で官軍に焼かれて廃寺となり、明治41年に改葬されたとの説明板がありました。亀の上に墓碑がある立派なお墓です。

2022年02月13日 かわ「弾正大弼」赤い彗星
宇都宮城



もう少し早く明るい時間に…と思いました。清明櫓…土塁に白壁の櫓は関東七名城のひとつ迫力さえも感じました。

2022年02月12日 ひ〜ふ〜
宇都宮城

宇都宮城址公園、休日は隣の市役所の駐車場に車を停めて、ゆっくり散策出来ます〜〜土塁の上までエレベーターで上がって、櫓にも入れました〜〜

2022年01月10日 弾正少弼しろし
宇都宮城



塀が工事中でした。堀の水も抜けてました。AR VRが見られるポイントがあります。鬼瓦の紋は、立葵。本田正純かな。

2021年10月02日 芦屋兵庫頭虎吉
宇都宮城



東武宇都宮近くに、近世城郭の遺構や復元された櫓跡があります。土塁の中には資料館もあり、係の人が色々と教えてくれました。

平安時代から長いこと下野の中心を担い続け、有名な釣天井事件の舞台にもなった由緒あるお城ですが、周りの地形的に守りやすそうな感じもない平城で、実際に戦場になると城主は逃げたりしていて、なんでここやったんやろ、と謎は深まります。

2021年05月18日 マークⅡ大宰大弐政宗
宇都宮城



市民が協力して、木造櫓を再建した城として、期待を持っての登城だったが、残念だらけの城だった。土塁の真ん中に大きな穴を開けて入口を作り、中の本丸に入ると、そこは運動場のように、備蓄倉庫らしき穴がさらに何箇所も大きく開けられていた。

2020年12月20日 YAMA治部大輔gen
宇都宮城



月に一回だけの櫓解放日に訪問。
宇都宮から、富士山の全景が見れるとは思ってなかったので感動しました。
冬場は、8:00~11:00に富士見櫓
おすすめは、8:00に開いてすぐだそうです。

2020年12月14日 粟船弾正少弼隆光
宇都宮城



目の前に無料駐車場があります。コロナの影響で建物に入る際は連絡先の記載をお願いされます。

2020年10月19日 拓之助主計頭【若者組】
八幡山地下壕[宇都宮城  寺社・史跡]

太平洋戦争末期1945年に陸軍は空襲と本土決戦に備えて八幡山に地下壕をつくりました。
八幡山には当時砲台があり当時宇都宮陸軍の中心と言っても過言ではない重要な場所でした。
地下壕は6月中旬から約2ヶ月間で掘られ全長721メートルに及ぶ横穴でした。
ですが、完成前に終戦になり実際に使用されていませんが、当時の陸軍は恥さらしだからと終戦後も完成まで彫り続けたらしいです。


2020年10月19日 ぱぱ〜ん伊豆守
宇都宮城



10月18日から御城印と御城印帳が販売開始になりました。戊辰戦争の激戦地のイメージが強かったけど、無料の資料館で情報収集出来ました。

2019年06月14日 野呂利左衛門督休三
栃木県立博物館[宇都宮城  関連施設]

中世のコーナーに皆川城と足利学校、近世で宇都宮城の模型があります。なお中は撮影禁止です。

2019年05月06日 わる爺陸前守
駐車場(南側)[宇都宮城  駐車場]



身体不自由な方用二台プラス7台、但し利用時間ある。

2018年10月12日 織田上総介晃司
宇都宮城

市街地にあるのでコインパーキングを含め駐車場はあります。

写真を見た時、土塁に不自然なトンネルがあって「?」と思って、リア攻めするとやはり違和感を覚えました。

宇都宮といえば「宇都宮ギョウザ」ですが、今回情報が仕入れられなかったので食べてません。残念…

2018年02月10日 土塁ルイ
宇都宮城

奥州仕置・上杉討伐・戊辰戦争と、関東七名城の中でも突出した歴史性を持ちながら見所が本丸復元土塁だけでは勿体ない。

城の遺構としては、市内外3ヶ所の移築城門と松ヶ峰門土塁が僅かに残る程度ですが、戊辰戦争・宇都宮城攻城戦の史跡巡りがオススメです。
宇都宮新選組同好会さんのHPで、街歩きのおすすめルートが紹介されていますので参考にするといいですよ。

ついでに、秀吉の奥州仕置日程です。
天正18年(1590年)
7月13日 小田原北条氏降伏
7月17日 鎌倉鶴岡八幡宮参詣
江戸・岩槻・古河を奥大道を経由し、
7月25日 結城城にて秀康を結城氏養嗣子に(黒田孝高が仲介)
7月26日 宇都宮城へ入城
7月28日 伊達政宗、奥州への迎えに宇都宮入り
8月9日 会津へ巡察
伊達の抑えとして、辞退した細川忠興に代え蒲生氏郷を配置

仕置後、帰途、岩槻城で「萩の和歌」を残す
8月20日 駿府城へ入城
9月1日 帰洛

いやー、秀吉ってホントに宇都宮の方まで来たんですねー。

2016年08月28日 たな左近衛少将
宇都宮城

土塁にある案内所では、案内の方が宇都宮の歴史について親切に詳しく教えてくれました。とても分かりやすくありがたかったです。ちなみに宇都宮餃子の情報も教えてくれますよ。

2014年10月16日 【隠者】史学会帰新参
宇都宮城

宇都宮城は戦後までは土塁や水堀がかなり残っていた。
1953年に三の丸の西館堀北側が埋められて体育館が建てられる。
1961年から残りの西館堀と地蔵堀が環境衛生と宅地造成で埋められる。
昭和40年代の後半に本丸西側の水堀と土塁が壊されて遺構は完全に消滅する。

栃木県立博物館発行の「名城宇都宮城」より

2012年11月25日 あぶり餅征夷大将軍@ついに管領
宇都宮城

城跡の西側からアプローチし高さのある土塁と復元櫓を見たときはワクワクしましたが、土塁をぶち抜いた通路にある展示室に入った時に『エレベーターで登れますよ』と言われびっくり??
展示室にはガイドの方がいて説明もしてくれます

西側3分の1くらいの土塁を復元しているのでセットみたいな感じでした

は城跡西側にある役所の駐車場が無料でした。城跡東側に身体障害者専用が3台分あり

2012年02月15日 傾奇揚げ仙兵衛
宇都宮城

土塁のトンネル内に資料やバンフがあり宇都宮餃子オフィシャルマップが置いてあります。この地に来たならば餃子を食べねば!

2010年10月25日 サムライ陸前守はる
宇都宮城

城跡は宇都宮城址公園として整備されており、2基の清明台櫓・富士見櫓が木造復元されています。が2階は見学できないし、土塁の中にエレベーターがあったり、事務所があったりと、的ハズレな復元の仕方には疑問を感じます。

2010年09月25日 徳川内大臣源朝臣康武
宇都宮城

御本丸公園の表と内側で、あーも様子が違うのはなんとも・・・
復元とはいえない。城跡に城っぽい構造物と公園を作っただけ。

宇都宮城の周辺スポット情報

 水堀(遺構・復元物)

 富士見櫓(遺構・復元物)

 清明台櫓(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 本丸堀(遺構・復元物)

 旭町の大いちょう(遺構・復元物)

 松ヶ峰門土塁跡(遺構・復元物)

 宇都宮城移築門?(遺構・復元物)

 (伝)宇都宮城今小路門(移築門)(遺構・復元物)

 (伝)宇都宮城移築門(遺構・復元物)

 清水門(碑・説明板)

 追分一里塚(碑・説明板)

 下蓮池跡(碑・説明板)

 御山屋敷跡(碑・説明板)

 材木町木戸跡(碑・説明板)

 御橋(碑・説明板)

 【旧町名】大黒町(碑・説明板)

 【旧町名】蓬萊町(碑・説明板)

 【旧町名】茂破町(碑・説明板)

 【旧町名】挽路町(碑・説明板)

 【旧町名】小幡町(碑・説明板)

 【旧町名】歌橋町(碑・説明板)

 松ヶ峰門跡(碑・説明板)

 地蔵堀跡(碑・説明板)

 西館堀跡(碑・説明板)

 百間堀跡(碑・説明板)

 歌橋番所跡(碑・説明板)

 南館堀跡(碑・説明板)

 【旧町名】代官町(碑・説明板)

 【旧町名】小袋町(碑・説明板)

 【旧町名】博労町(碑・説明板)

 【旧町名】上河原町(碑・説明板)

 【旧町名】一ノ筋(碑・説明板)

 【旧町名】一ノ筋(碑・説明板)

 【旧町名】ニノ筋(碑・説明板)

 【旧町名】ニノ筋(碑・説明板)

 【旧町名】三ノ筋(碑・説明板)

 【旧町名】三ノ筋(碑・説明板)

 朝日坂(碑・説明板)

 【旧町名】四ノ筋(碑・説明板)

 【旧町名】四ノ筋(碑・説明板)

 佐野口木戸跡(碑・説明板)

 千歳坂(碑・説明板)

 狸坂(碑・説明板)

 小豆坂(碑・説明板)

 今小路門跡(碑・説明板)

 【旧町名】杉原町(碑・説明板)

 【旧町名】材木町(碑・説明板)

 【旧町名】猿が町(碑・説明板)

 【旧町名】中宿(碑・説明板)

 【旧町名】八日市場(碑・説明板)

 【旧町名】東新町(碑・説明板)

 【旧町名】紺屋町(碑・説明板)

 【旧町名】元石町(碑・説明板)

 【旧町名】石町(碑・説明板)

 【旧町名】熱木町(ねぎまち)(碑・説明板)

 本陣跡(碑・説明板)

 【旧町名】南新町(碑・説明板)

 【旧町名】下河原町(碑・説明板)

 【旧町名】大町(おおまち)(碑・説明板)

 【旧町名】剣宮町(つるぎのみやまち)(碑・説明板)

 【旧町名】本郷町(碑・説明板)

 【旧町名】新田町(碑・説明板)

 【旧町名】新宿町(碑・説明板)

 【旧町名】宮島町(碑・説明板)

 【旧町名】小門町(碑・説明板)

 【旧町名】壁町(碑・説明板)

 【旧町名】扇町(おおぎちょう)(碑・説明板)

 【旧町名】清巌寺町(碑・説明板)

 【旧町名】大工町(碑・説明板)

 【旧町名】釈迦堂町(碑・説明板)

 【旧町名】馬場町(碑・説明板)

 【旧町名】伊賀町(碑・説明板)

 【日野町の由来】(碑・説明板)

 【旧町名】日野横町(碑・説明板)

 【旧町名】曲師町(まげしちょう)(碑・説明板)

 【旧町名】江野町(碑・説明板)

 【旧町名】千手町(碑・説明板)

 【旧町名】新石町(碑・説明板)

 【旧町名】餌差町(えさしちょう)(碑・説明板)

 【旧町名】池上裏町(碑・説明板)

 屋台(伝馬町)(碑・説明板)

 鏡ヶ池(碑・説明板)

 宇都宮城主 戸田家菩提所英巌寺墓跡入口(碑・説明板)

 三日月堀跡(碑・説明板)

 張番木戸跡(碑・説明板)

 大手門跡(碑・説明板)

 六道閻魔堂(碑・説明板)

 修道館跡(碑・説明板)

 丹堂薬師跡(碑・説明板)

 日光街道と奥州街道の追分(碑・説明板)

 【旧町名】小伝馬町(碑・説明板)

 【旧町名】伝馬町(碑・説明板)

 【旧町名】材木横町(碑・説明板)

 銅像盧舎那仏坐像(宇都宮市指定文化財)(碑・説明板)

 英巌寺のイヌツゲ(宇都宮市指定文化財)(碑・説明板)

 興禅寺大門跡(碑・説明板)

 贈従三位 戸田忠恕之碑(碑・説明板)

 旧地蔵寺(一向寺)参道(碑・説明板)

 蒲生君平勅旌碑(碑・説明板)

 蒲生君平誕生の地(碑・説明板)

 北ノ館(周辺城郭)

 光明寺(寺社・史跡)

 神明宮(寺社・史跡)

 宝勝寺(寺社・史跡)

 八幡山地下壕(寺社・史跡)

 二荒山神社(寺社・史跡)

 明神の井(寺社・史跡)

 安養寺(寺社・史跡)

 宇都宮貞綱銅像(寺社・史跡)

 妙金寺(寺社・史跡)

 生福寺(寺社・史跡)

 法華寺(寺社・史跡)

 今泉八坂神社(寺社・史跡)

 妙正寺(寺社・史跡)

 熱木不動尊(寺社・史跡)

 台陽寺(寺社・史跡)

 樋爪氏の墓(寺社・史跡)

 不動堂(寺社・史跡)

 清巌寺(寺社・史跡)

 およりの鐘(寺社・史跡)

 宝蔵寺(寺社・史跡)

 延命院(寺社・史跡)

 六道閻魔堂(寺社・史跡)

 林松寺(寺社・史跡)

 常念寺(寺社・史跡)

 弥勒堂(寺社・史跡)

 善願寺(寺社・史跡)

 正行寺(寺社・史跡)

 真福寺(寺社・史跡)

 宇都宮頼綱・芳賀高照・芳賀高継墓所(寺社・史跡)

 宇都宮貞綱・公綱墓所(寺社・史跡)

 奥平家昌・忠昌墓所(寺社・史跡)

 清明館(御城印)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(南側)(駐車場)

 身体の不自由な方専用の駐車場3台(駐車場)

 栃木県立博物館(関連施設)

 宇都宮城ものしり館(関連施設)

 清明館(関連施設)

 福守稲荷神社(関連施設)

 宇都宮城主 戸田氏の墓所(関連施設)

 宇都宮城今昔図販売場所(その他)

 御橋(その他)

 戊辰の墓(その他)

 三日月堀跡(湾曲部)(その他)

 官修墓地(その他)

 亀井の水(その他)

 おしどり塚(宇都宮市指定史跡)(その他)

 桑名主米の墓(その他)

 菅原神社(天神二番)(その他)

 菅原神社(その他)

 旧篠原家住宅(その他)

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