岡本城(おかもとじょう)
岡本城の基本情報
通称・別名
- 岡本根小屋城
所在地
- 栃木県宇都宮市大字中岡本小字根古屋
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 岡本富高
築城年
- 14世紀前期
主な改修者
- -
主な城主
- 岡本氏、玉生氏
廃城年
- 慶長2年(1597)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(岡本城跡)
再建造物
- 碑、説明板
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-
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岡本城の解説文
[引用元:Wikipedia「岡本城」の項目]岡本城(おかもとじょう)は、栃木県宇都宮市大字中岡本小字根古屋にあった日本の城。
14世紀前期(1337年2月以降)築城、慶長2年(1597年)10月13日廃城。別称として岡本根小屋城。
【沿革】
~清党岡本氏時代~
岡本城は、14世紀前期、芳賀氏流岡本氏の当主岡本信濃守富高により、その居城として築かれた。しかし、築城した富高が観応2年/正平5年(1351年)の薩?山の戦いで討死すると、その跡を継いだ富高の子正高も貞治2年/正平18年(1363年)に武蔵野における戦いで討死し、富高の血統は断絶してしまう。
~藤姓岡本氏時代~
玉生氏の系図によれば、玉生信濃守富高が、貞治2年/正平18年(1363年)6月17日、武蔵国苦林野の戦いで討死すると、その戦功により、玉生氏は岡本郷を賜ったとある。その後、玉生富高の弟である勝親が、岡本信濃守富武を名乗り、岡本城に入城する。玉生氏は、塩谷氏を出自とする藤原姓の一族であり、富武は、藤姓岡本氏ということになるが、藤姓岡本氏の歴史は不明である。しかしながら、玉生氏の系図によれば、玉生勝定(1459年生~1520年没)の娘が、勝親の子孫であろう岡本重親に嫁いでおり、この事から岡本城は、代々藤姓岡本氏の居城となっていたと考えられている。
~玉生氏時代~
玉生氏が芳賀高経の弟の重季を養子に迎えると、重季は、玉生氏の居城を岡本城に移す。その後、文禄元年(1592年)から同4年(1595年)まで笠間城を居城とした時代もあったが、代々玉生氏の居城となった。しかし、主君である宇都宮家が改易されると、岡本城も廃城となった。
【岡本城の縄張と現在】
岡本城は、高台になっている台地の角隅に築かれており、方形主郭を台地が突出した最北端に築き、その主郭を、ほぼ"へ"の字型の堀と曲輪を重ねて守る梯郭式の城と考えられている。但し、遺構は主郭周辺によく残っているものの、二の郭以降の曲輪は、長年の開発により時代を経てほとんど壊滅しており、三重堀説と五重堀説があり、議論が分かれている。
また、岡本城の北側約500mのところにも、岡本富高が築いたと伝わる居館跡の土塁と堀が僅かに残っており、名目的には別の城として扱われているが、機能的には、岡本城の出丸として位置づけられていたものと考えられている。[続きを見る]
岡本城の口コミ情報
2019年04月24日 クルス磐城守トッツィー
岡本城
4/23 主郭土塁を北側から見上げる。川は昔からあったのでしょうか?北側からは攻めにくそうです。
2012年02月22日 初代征夷大将軍天下一の号
岡本城
登録マップに誤差有り。岡本北小学校近くのセブンイレブンを北上約100メートル右折。案内板有ります。