西馬音内城(にしもないじょう)
西馬音内城の基本情報
通称・別名
- 川名池城
所在地
- 秋田県雄勝郡羽後町西馬音内堀回
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 小野寺道直
築城年
- 建治3年(1277)
主な改修者
- -
主な城主
- 小野寺氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸
指定文化財
- 県史跡(西馬音内城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
湯沢城(秋田県湯沢市)[11.1km]
岩崎城(秋田県湯沢市)[12.1km]
赤館(秋田県由利本荘市)[12.2km]
小野城(秋田県湯沢市)[13.4km]
玉米館(秋田県由利本荘市)[13.9km]
吉田城(秋田県横手市)[16.2km]
大森城(秋田県横手市)[18.8km]
稲庭城(秋田県湯沢市)[20.9km]
八森城(秋田県由利本荘市)[21.3km]
横手城(秋田県横手市)[22.4km]
西馬音内城の解説文
期待以上に縄張りが楽しめる城です。最大の見どころは、二ノ郭の北東隅にある隅櫓台。大手口跡から登城道をずんずん歩いていくと、やがてどーんとせり出して来ます。誰が見ても、迎え撃つために張り出された櫓台だと絶対にわかります。「おおっ!」と声を上げてしまうほどわかりやすいです。二ノ郭へは東斜面からも侵入できるようになっていますから、大手道だけでなく東斜面からの敵もすべてこの場所で監視し、まとめて迎撃する設計でしょう。
二ノ郭から主郭までは、二ノ郭の西側の土塁と平行に進んでいきますが、この土塁がかなり強烈。2メートルはあろうかというちょっとした山のような土塁で、横矢が掛かるように弓なりの曲線を描きながら、かなり延々と続きます。堀切を通過し折れ曲がると、二ノ郭への虎口と主郭への虎口に至ります。このあたりは少し崩れているようでシルエットがゆるやか。二ノ郭の隅櫓台のようにエッジが効いてはいませんが、よく見ると同じ構造で、隅櫓台がせり出し、迎撃できるようになっています。その証拠に、搦手のほうに30メートルほど降りてから後ろを振り返ると、この隅櫓台がひとつ頭を出して搦手口側への射撃ラインを確保しています。
主郭は二ノ郭南の一段高くなったところにあり、東西約100メートル×南北約50メートルほど。けっこうな広さで、巨大な井戸もあります。主郭東側には空堀と土橋があり、搦手口の飯塚館と呼ばれる郭に通じます。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、小野寺氏は上杉方について最上氏と対立。しかし西軍が敗北し上杉氏が退却すると孤立し、西馬音内城主の小野寺茂道は城に火をかけて庄内に逃れたとされます。慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田に転封になると、小野寺氏は石見国津和野に配流。茂道の子孫は新庄藩や久保田藩に仕えたといわれています。国指定重要無形民俗文化財の西馬音内盆踊りは、諸説あるものの、土着した茂道の遺臣たちが踊った旧盆の亡者踊りが豊年祈願の踊りと合流して定着したのが起源ともされています。
西馬音内城の口コミ情報
2023年04月18日 気分爽快陸奥守
館山館[西馬音内城 周辺城郭]
昨年秋に間違って隣の山に登ってしまった館山館に再挑戦しました。登城路には、至る所に残雪があり歩きづらかったのですが、残雪のおかげで西斜面の畝堀をはっきり見ることができました。石沢川のためにかなり大回りの迂回が必要ですが、川沿いの道は秋よりも藪が少なく、この時期こそ狙い目と思われます。
①北の郭と手前の堀切
②西斜面の畝堀を横から
③西斜面の畝堀を上から
④南の段郭
⑤林道つきあたりから
⑥南の郭から北側
⑦東斜面の畝堀
⑧北の郭から南側
2023年03月28日 沼田乃豆腐屋
館岡城[西馬音内城 周辺城郭]
曲師山頂にほぼ4面の広い平坦面を認めることができ、それぞれ自然地形の平場を一部手を加えた程度のものと見られる。
防御の構えは、深さ1m、幅2m以上の大規模な空堀もしくは腰郭がほぼ全周し、一部2〜3重に補強される。
附近には館の下、谷地、長橋、曲師の地名が残り、『田沢村々誌』に延暦年間坂上田村麻呂の悪路王退治の伝承が伝えられるが、『羽後町郷土史』では、永禄2年没と推定される小野寺義忠が城主とされる。
①坂虎口のように見える
②館岡城最高所154.2m
③北側の腰郭と切岸
④西側にある横堀
⑤南側の横堀
⑥南西側尾根の先の曲輪群
2022年10月20日 沼田乃豆腐屋
伝・矢島五郎満安自刃の地[西馬音内城 碑・説明板]
主郭の南部、一段低い郭にある。
由利十二党の抗争に敗れ、西馬音内城に身を寄せていた満安は、十二党の奸計で軍を起こした小野寺義道を前に文禄二年(1593年)この小郭で自刃したと伝えられている。
2022年04月30日 沼田乃豆腐屋
田代城[西馬音内城 周辺城郭]
山麓では、七曲越西馬音内・梨木越軽井沢~由利玉米・仙道~真坂越矢島・上到米~由利山崎に通ずる4本の間道が交錯する。
遺構は東から食い込む急な浸食性の沢斜面を大手に利用し、これを取り囲むように尾根を利用した連郭性平坦面を13面もち、大手道と連続する幅5mの腰郭が囲む。北西南の三方は深さ5m以上の空掘をつくり、斜面には10m等間隔に幅2m以上の竪堀を布設しさらに内側は高さ1mの土塁状の高まりをもって搦め手を固めている。搦め手道はこの空掘によって切られる尾根道で途中、両側に竪掘を設け、土橋風になった防禦施設がある。
①城内にはいくつも郭がある
②西郭東側の切岸
③西郭北側の畝状竪堀群と横堀①
④西郭北側の畝状竪堀群と横堀②
⑤西郭にある土塁
⑥西郭の西側にある二重堀切と搦手郭
⑦西郭北側の横堀、残雪が川の流れのよう
⑧西郭西側の高さのある切岸
2022年04月30日 沼田乃豆腐屋
館山館[西馬音内城 周辺城郭]
館は南東尾根鞍部に上幅5m、深さ1.5mの2条の堀切を設け、連郭性の平坦面を取り囲む幅5mの腰郭が堀切に連続してほぼ一周する。この腰郭には緩斜面もしくは沢に面する部分で、上幅2mの竪堀が33条造られる。さらに北に連続する郭の東辺には高さ1m上幅1mの土塁状の高まりが見られる。主郭は南端の15×40mの平坦面で主郭直下の堀切に連続する登城道がある。
①北側からの遠景
②主郭下の大堀切
③北郭にある土塁
④北郭東側の畝状竪堀群
⑤北郭とその先の尾根を隔てる堀切
⑥北郭先の尾根と北出丸を隔てる堀切→竪堀へ
⑦西郭下の畝状竪堀群(縦)
⑧西郭下の畝状竪堀群(横)
2021年06月15日 沼田乃豆腐屋
八反田城[西馬音内城 周辺城郭]
新町川左岸の小高い丘に築かれた八反田城。現在は八反田公園となっている。雄勝郡から由利郡へと通じる本荘街道を押さえる役割を担った城であった。
丘の最高所に主郭を置き、北と西側にそれぞれ段郭が数段配置されているが、丘陵北側はグラウンドになっており、この部分にあったであろう城の遺構は破壊されている。
北西部のグラウンド入口には両側に土塁がある。この土塁は南側の郭に沿って築かれ、その外側には空堀が残っている。
築城年代や築城者は定かではないが、近くにある高寺城の出城として機能していることから、高寺城が築かれた元亀年間に築城されたと推測される。
慶長年間に最上義光の侵攻により落城、城主小野寺久昌は剃髪し、その後久昌寺を開基したとされている。
①北西部に残る土塁と堀跡
②獣道と化していた大手門跡
③南側中央にある虎口(城内側から撮影)
④南側の郭に伸びる土塁
⑤主郭跡にある小野寺家の碑
⑥一段下から主郭部を見上げる(中央左側)
⑦二ノ郭の段郭
⑧北側からグラウンドを挟んで城跡を臨む
2019年05月03日 沼田乃豆腐屋
旧元西小学校[西馬音内城 駐車場]
現在は廃校となっており、敷地内に駐車可能です。校舎右手側から登城口に向かいます。
2019年05月02日 沼田乃豆腐屋
西蔵寺[西馬音内城 寺社・史跡]
西蔵寺は、西馬音内小野寺氏の菩提寺とされています。慶長6年(1601)攻め入る最上の大軍を前に自焼落城した際、焼け残った城門を移築したと伝えられる「城下がりの門」があります。
西馬音内城の周辺観光情報
道の駅うご「端縫いの郷」
2016年7月に新規オープンした道の駅。農産物直売所や羽後町名物「西馬音内そば」を味わえるダイニング、地元で行列のできるジェラート店の姉妹店など施設も充実している。
お問い合わせ:道の駅うご「端縫いの郷」(0183-56-6128)
三輪神社
養老2年(718)、行基によって創始されたとされる神社。本殿は室町時代、同じ境内にある須賀神社本殿は桃山時代の建立とされ、ともに国の重要文化財に指定されている。
お問い合わせ:羽後町教育委員会(0183-62-2111)