畠山重保館(はたけやましげやすやかた)
畠山重保館の基本情報
通称・別名
- 畠山六郎重保居館
所在地
- 神奈川県横浜市戸塚区汲沢2(推定地)
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 平城
天守構造
- なし
築城主
- 畠山重保
築城年
- 正治年間(1199〜1201)
主な改修者
- -
主な城主
- 畠山氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
岡津城(神奈川県横浜市)[3.4km]
野庭関城(神奈川県横浜市)[5.0km]
玉縄城(神奈川県鎌倉市)[5.0km]
斎田左衛門屋敷(神奈川県横浜市)[5.1km]
村岡城(神奈川県藤沢市)[6.2km]
藤沢御殿(神奈川県藤沢市)[6.4km]
今井砦(神奈川県横浜市)[6.7km]
落合館(神奈川県綾瀬市)[7.0km]
大庭城(神奈川県藤沢市)[7.4km]
笹下城(神奈川県横浜市)[7.5km]
畠山重保館の解説文
畠山重保館の口コミ情報
2021年04月23日 龍馬備中守【】
中和田城[畠山重保館 周辺城郭]
神奈川県の横浜市にある中和田城☆いずみ中央公園が城郭の跡地になります☆別名を泉小次郎親衡館とも呼びます☆
この城郭は信濃国・小泉庄の豪族であった泉親衡の居館と伝わっています☆
城址の西側下には泉親衡の道場であった長福寺がその脇に彼が信奉したと言われている須賀神社があります☆
鎌倉時代に源頼朝に従い幕府の御家人として勢力を奮いました☆
詳しい歴史は余り残ってませんがその時にこの地に居館を取り立てたのでしょう☆
大きな歴史としては泉親衡の乱☆
源頼家の遺児・千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時を打倒しようと図りました☆
北条氏による源頼家の幽閉・暗殺、実朝の擁立等の流れに泉親衡は不満を抱きました☆
密かに源頼家の遺児である千寿丸を取り立てて北条氏追討を計画しました☆
がしかし…その計画が発覚☆
泉親衡は北条氏の追討を受けてしまう事になってしまいます☆
泉親衡は、この館に攻め寄せてきた北条軍と合戦になりその混乱の内に信濃に逃亡しました☆その後は、信濃・飯山城を居城としました☆この時に廃館となったと思われていますが個人的にはその後も機能したんでは無いか?と思ってます☆
台地先端部を利用した城郭ですが主要部の南側には台地上を切り込んだ二重堀切を確認する事が出来ます☆土塁、土橋等も残っていて城としてなのか?館としてなのか?何らかの形で使用された様にしか見えません☆ソレは鎌倉時代の城郭と言う簡素な物では無い技術的な物が少しずつ取り込まれた様な城郭と言った印象です☆
後から調べてみて分かったのですが主要部の西側にある馬洗の池から出土した板碑には建武4年(1337年)の銘や延文6年(1361年)銘のものが出てきている様です☆泉親衡の乱の時代とは100年以上離れた南北朝時代の城郭?はたまた、北条氏の城郭として後に戦国時代も生きてきたのか?
麓にある長福寺には北条鱗の紋が現代に生きてます♪北条家に関係していた事は明らかですね☆
今後また何か出てきたら楽しみです♪
2021年04月19日 龍馬備中守【】
富士塚城[畠山重保館 周辺城郭]
神奈川県の横浜市にある富士塚城☆現在は富士塚公園に石碑のみ残っています☆別名を飯田五郎家義館とも呼ばれています♪
富士塚城は早川城主・渋谷重国の子である飯田五郎家義の居館と伝わります☆飯田五郎家義は源頼朝が石橋山合戦に敗れて安房国へ逃れる際に命を助けた事で知られています☆
源頼朝の命を助けた功績からこの地を与えられました♪
富士塚公園に石碑が残りますが館跡は横浜市の西南、境川流域の台地上と伝えられています☆現在は宅地開発により遺構は残りません。。。位置としては横浜市戸塚区下飯田町と伝えられていて付近には【下馬】などの地名が残ってます☆富士塚と呼ばれる塚があり明治時代に塚の南面を開墾した際には五輪塔や納骨瓶が出土した様です☆
2019年11月05日 吉四六の冒険
畠山重保館
ここは高台になってるために富士山もよく見えます
城があったなんて驚きです
詳細は不明であるが、重保の名からとったと考えられる「六郎丸」や「源氏山」という地名が残っており、その近辺に居館があったと推定されている。