野庭関城(のばせきじょう)
野庭関城の基本情報
通称・別名
- 野庭城、関城
所在地
- 神奈川県横浜市港南区野庭町
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 和田義盛?
築城年
- 鎌倉時代前期?
主な改修者
- -
主な城主
- 和田義盛?、石巻康保(後北条氏家臣)、安藤良整(後北条氏家臣)
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
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-
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野庭関城の解説文
[引用元:Wikipedia「野庭関城」の項目]
野庭関城(のばのせきじょう/のばのせきしろ)は、神奈川県横浜市港南区野庭町にあったと伝わる日本の城。
概要
平戸永谷川上流の丘陵地帯にあり、現在の野庭団地内に位置する「野庭中央公園」北側付近が本曲輪であったとされている[1][2]。1980年(昭和55年)の『日本城郭大系』(第6巻 千葉・神奈川)発行時点では、土塁が遺存していたとの記載がある。
築城者は鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛とする伝承があり、1213年(建暦3年)の和田合戦の際には、和田義盛に与する人々が泉親衡と共に立て籠ったと伝わる[3]。
参考文献
- 平井聖ほか 1980「野庭関城」『日本城郭大系第6巻 千葉・神奈川』p.313 新人物往来社(児玉幸多・坪井清足監修)
- 港南の歴史研究会 1986「4・野庭の関城跡」『こうなん道ばたの風土記』p.70 港南の歴史研究会
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野庭関城の口コミ情報
2025年05月24日 マグロ常陸介祐平
野庭関城
和田義盛が築城したと伝わり、建歴3年(1213年)の和田合戦では泉親衡ら和田方の武士が立てこもったとされています。乱を起こして逃亡した親衡(本拠地は信濃)が義盛に与して立てこもるのは、伝説としては面白いですが、現実的ではないように思われます。ちなみに空堀と土塁が残る親衡の館の伝承地は、このサイトの登録城である泉区の中和田城です。
日本城郭大系では、城の存在が明らかにされるのは後北条氏玉縄城の支砦として当時の野庭の領主石巻康保・安藤良整の時代からであるとしていますが、北条氏所領役帳によると野庭の領主は東慶寺の住持(松岡殿)で、新編相模国風土記稿によると天文18年(1549年)に石巻康保が寺領に捕鳥人の入ることを禁じる禁制を出したことや、安藤良整が天正2年(1574年)に当郷の住民に税務課役の定法を発令したとあり、領主ということではなく行政官として活動しており、お城と関係したようには思えません。埋蔵文化財包蔵地としても時代区分は鎌倉時代とされています。また、風土記稿には、お城や和田氏に関する記載はありません。
お城は現在「野庭中央公園」となっています。北側の築山あたりが城址とされるようですが、伝承地の域を出ないように感じました。
2024年10月14日 ゆきのじょう
野庭関城
上永谷駅から徒歩で二十分程度ですが、登り坂のため、気持ち遠く感じます。上大岡からバスが複数出ているので、そちらを使うほうが便利かもしれません。遺構は見当たらず、団地の一角の公園です。
2023年10月08日 式部大輔こやまん
野庭関城
団地の中に、ひっそりと存在しています。少し分かりづらいです。
2023年03月25日 tower428肥後守
野庭関城
桜が咲いていて広い公園でしたのでお天気の良い日にお花見兼ねて行ってみるといいと思います。
2022年05月02日 左近衛少将てつ
野庭関城
上永谷駅より徒歩20分程度で城址である野庭中央公園に着きます。遺構らしき物は見つけられませんでした。
2022年04月11日 たか大膳大夫
野庭関城
横浜市営地下鉄ブルーライン上永谷駅から歩いて20分くらい?でした。大きな公園になっていて、良い天気だったこともあって遊んでいる子どもたちが走り回っていました。帰りはJR根岸線港南台駅へ向かいましたが、こちらはほとんど一直線であるものの30分くらいかかりました。
2021年07月18日 うっきー
野庭関城
横浜市港南区にある城の一つで、現在は公園になっています。
2021年04月09日 ファン掃部助トム治郎
野庭関城
上永谷駅にから洋光台までの一時間程度の散歩途中に野庭に立ち寄りました。団地中の緑茶、盛土上にチェックポイントがあります。