太田道灌屋敷(おおたどうかんやしき)

太田道灌屋敷の基本情報

通称・別名

所在地

神奈川県横浜市南区三春台42(推定地)

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

なし

築城主

太田道灌

築城年

室町時代

主な改修者

主な城主

太田氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

周辺の城

蒔田城(神奈川県横浜市)[1.7km]
永田陣屋(神奈川県横浜市)[2.1km]
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太田道灌屋敷の解説文

太田道灌屋敷はその名の通り、上杉氏の家臣であり江戸城を築城したことでも知られる太田道灌の居館であったとされる。

現在は遺構も全く残っておらず正確な場所も不明であるが、横浜市立太田小学校がある場所が跡地であるとされている。

太田道灌屋敷の口コミ情報

2019年11月09日 鎌倉公坊臣相模守よしよし
太田道灌屋敷

太田道灌屋敷と“対岸”の蒔田城は江戸時代まで海だった蒔田湾を守る立地に位置する城塞。
現在の関内~野毛~黄金町~吉野町~真金町~伊勢佐木長者町は江戸時代まで蒔田湾と言う入江だった。
現在の神奈川県庁~ニューグランドホテル辺りには横浜市の地名由来に成った「横浜」の半島が湾の入口を塞ぐ形で、丁度、太田道灌公が深く関わった東福寺の旧所在地辺りが湾の入口だったと思われる。
旧太田道灌公の所領に所在する東福寺は鎌倉時代の天皇の勅願寺にして戦国時代関東最高の軍師、太田道灌公が中興した寺院。
高野山真言宗。
始まりは寛元元年(1243年)に後嵯峨天皇が鎮護国家を願い元心法印に開かせた勅願寺。
以前は更に大岡川(旧蒔田湾)寄りの海辺に存在した。

旧地の立地から海防や治水の願いを込めて勅願所に成った事が推測出来る。
東福寺が開かれた年にキプチャク・ハン国が中東に建国される等、田畑を食い荒らすイナゴの如くチンギス・ハンによる侵略の“黄禍”が世界を恐怖のドン底に陥れていた時期で、後嵯峨天皇の御心痛と寺院建立に尽力したであろう鎌倉幕府の武士達の緊張が御寺の歴史からヒシヒシと伝わる。

御寺は後に荒廃していたのを、室町時代に築城の名手にして合戦無敗の名軍師だった太田道灌公により復興される。
復興されたと言う事は事実上は廃寺で、鎌倉幕府滅亡時に新田義貞がありとあらゆる神社仏閣で略奪放火の狼藉を働いていたので、その時に例に漏れず荒廃したのだろう。
近くに南太田駅等の地名に太田が残る地域は戦国時代初め頃に太田道灌公の領地だった歴史に由来する。
太田小学校が太田道灌公の城館跡と伝わるが、旧蒔田湾の対岸の蒔田地区、英和学院の有る丘には太田道灌公の親友で名称の蒔田吉良成高公の居城の蒔田御所が存在した。
東福寺の歴史は天皇家や名将達の歴史や世界史にも通じる感慨深い物語が有る。
東福寺は、その歴史から赤門の設置が許され今に、その伝統を伝え守る。
寺紋が徳川家より葵紋を許されている経緯等は現在の御住職様達には伝わっていないが、恐らく家康公の愛した側室の於梶の方(英勝院)様が道灌公の御子孫に当たるからだろう。

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