笹下城(ささげじょう)
笹下城の基本情報
通称・別名
- 笹下本城、篠笥城、佐々木城、間宮豊前守陣屋
所在地
- 神奈川県横浜市磯子区洋光台/港南区笹下
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 間宮信元
築城年
- 室町時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 間宮氏
廃城年
- -
遺構
- 横堀(空堀)、犬走り
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
野庭関城(神奈川県横浜市)[2.5km]
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笹下城の解説文
[引用元:Wikipedia「笹下城」の項目]
笹下城(ささげじょう)または佐々木城は、神奈川県横浜市港南区笹下にあった[1]日本の城。小田原北条家の家臣だった間宮氏の居城[2]。玉縄城と青木城をつなぐ「伝えの城」としての役割を有していた[3]。
概要
大岡川が、笹下川と日野川の二手に分かれる間にある高台一帯が城跡で、後北条氏に仕えた間宮氏の武将・間宮信元が築城したといわれる。築城時期は不明だが、1526年(大永6年)に安房里見氏が渡海して後北条氏領内を侵攻したこと(大永鎌倉合戦)により、江戸湾防備の必要に迫られて築城されたと考えられている[4]。その後、息子である間宮康俊の居城となっていた。康俊は『小田原衆所領役帳』において玉縄衆として記録される人物である。
遺構
横浜市に見られる谷戸地形を利用した「谷津構え」と呼ばれる築城方法で築かれており、笹下川や支流の左右手川(そうでがわ)、ほか大小の谷戸を天然の堀としていた。笹下の梅花山成就院裏の丘頂上部一帯が本丸とされ、その周囲には空堀、水堀、犬走りの跡らしいものがあるという[5]。城の周辺には、外郭の守りとして多くの間宮氏陣屋があった。
また前述の成就院の山門は、間宮氏の笹下陣屋の門を移築したものと伝えられている。太平洋戦争の戦火を被り復元された門とする資料もあるが[6]、その記載のない資料もあり[7][8]、創建時の門そのものか不明確な点があるが笹下陣屋門の姿を忠実に伝える山門とされる。
さらに、笹下五丁目にある笹下中央公園には雑色杉本遺跡があり、かつ笹下城の領域とされ間宮氏家臣・北見掃部の屋敷があったとされていたため、1989年(平成元年)の発掘調査で城の発見を主眼として発掘が行われたが、発掘の結果、城曲輪と目された平坦な場所は縄文時代以前に形成された埋没谷による地形であって、城郭や中世に属する遺構は発見されなかったという[9][10]。
参考文献
- 【書籍】「新編武蔵風土記稿」|publisher=内務省地理局|date=1884-6|ref=}}
- 大類伸監修『日本城郭全集』人物往来社、1967年、133頁-139頁。
- 鳥羽正雄『城郭 その総てを解体・復元』日本城郭資料館、1969年、214頁。
- 磯子区制50周年記念事業委員会『磯子の史話』(1978)71頁。
- 港南の歴史発行実行委員会『区制10周年記念・港南の歴史』(1979)101-115頁。
- 平井聖監修「間宮氏笹下本城」『日本城郭大系第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社、1980年、292頁-294頁。
- 横浜市教育委員会 1990年(平成2年)『平成元年度文化財年報(埋蔵文化財その8)』pp.5-6
- 横浜市埋蔵文化財センター・横浜市道路局 1996年(平成8年)『雑色杉本遺跡発掘調査報告-都市計画道路環状2号線街路整備事業(港南地区)に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-』
- 山本光正『東海道神奈川宿の都市的展開』文献出版、1996年、115頁。
- 港南の歴史研究会『こうなん道ばたの風土記』(1986初版・1999改訂版)18-19頁。
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笹下城の口コミ情報
2019年11月08日 鎌倉公坊臣相模守よしよし
笹下城
笹下城要塞群の場所
元笹下橋=大手
若宮御霊神社=若宮曲輪
成就院=江戸期本牧奉行所間宮邸移築門(再建/部分再利用:外観変わらず)
天照大神宮~笹下中学~陣ヶ台=松本城址
笹下中央公園=北見掃部屋敷跡と武者走り跡(環状2号建設で消滅)
上大岡ヨーカドー近くの鹿島神社辺りは馬飼谷(うまかいがやつ)と呼ばれ軍馬の牧畜が行われていました。
関の下~関~田中は“金沢道(六浦道)”の中でも“武者谷(むしゃがやつ)”や“立(館)野”と呼ばれており一帯には・・・
石川(三浦氏族平子分家→宅間上杉家から養子入り)
北見(喜多見)
苅部(かるべ)
金子
岡本
・・・等の室町以来の南武蔵の名族から北条家臣化した武士の名字を持つ“大地主”の邸宅が昭和まで広い間隔を空けて並んで居ました。
元笹下橋近く妙蓮寺は北条綱成の付家老間宮康俊の孫で最後の笹下城主だった間宮直元と妻女の菩提寺。昭和中期まで間宮直元木像を御神像として祀る境内社が有ったが失火により御神像も焼失。
間宮直元は叔母の於久サンが家康公の側室で駿府で姫を産んでいる事もあり二代将軍徳川秀忠公と非常に仲良く、本牧奉行と但馬奉行=生野銀山奉行を勤め大久保長安失脚後は佐渡金山奉行も兼務、大坂城攻めで真田丸や総堀の埋め立てを家康公に献策した名軍師です。
妙蓮寺に直元公の御妻女の墓所だけは現存するが現在の寺の家人は歴史知識が乏しく手入れが行き届いてない。
成就院は古くは曲田山帶行寺と呼ばれ法相宗を経て鎌倉時代に源頼朝公の友人で真言宗の髙僧の文覚和尚が戦勝祈願の護摩焚きを行った記録が有る事から一時は真言宗系修験だった事が推測出来る。
成就院一帯の旧住所は小名が御下(おんしも)で本丸直下の曲輪群だった名残があり現在、御下公園に僅かに地名が残る。成就院は後に浄土真宗に改宗し江戸時代初期には九条関白や当時の本願寺のトップ良如上人が滞在している。
松本城址の一帯は天照大神宮や森浅間神社の宮司を勤める権現堂の屋号家が守るが鎌倉時代は鎌倉亀谷に存在した修験道門跡寺院の福禅寺の名代として久良岐郡の修験系神社は権現堂と泉蔵院の二院で全て支配し、近代まで権現堂家は50社余りを支配していた。
杉田妙法寺には分家の杉田間宮家の菩提寺で、徳川幕府初代鷹匠頭の間宮信繁公と御子孫の巨大な墓石群が守られている。
2019年11月08日 鎌倉公坊臣相模守よしよし
笹下城
笹下城の遺構の場所の現状
成就院横の大空堀は宅地化でコンクリート盛り土され家が立ち並び既に空堀を連想させる景観は失われていますが、成就院コンクリート擁璧に嵌め込まれた石碑に少し説明があります。
その擁璧の道は武者走りで本来もっと狭く半分程の幅でしたが、成就院側をコンクリートにする際に削り取られ拡張されています。
本丸跡の松が30数年前には現存したそうですが、成就院が伐採したそうです。
成就院の山門は洋光台1丁目武内家敷地に江戸時代まで存在した本牧奉行所で間宮屋敷の邸門を間宮家下総転封時に移築した物でしたが、成就院は歴代が養子ばかりで歴史情報伝達が上手く行かず、近年に仏教用語で寺院そのものを指す「山門不幸」や「山門祝融に遭う」等の意味を知らない郷土史家が養子の住職に「正門は燃えている」とデマを教えてしまい、それを真に受けた成就院は間宮邸門を一部木材を再利用したものの解体し“再建”してしまいましたが外観は以前のままです。
以前焼けたのは本堂でした。
本丸跡の崖は介護施設裏に現存しますが、そちら側の完全な大空堀も2017年に三井不動産レジデンシャルにより一部本丸が削り取られ破壊され空堀は完全にコンクリートで盛り土され消え去りました。
大手門は笹下川と堀川(現在は暗渠化)の合流地点に架かる元笹下橋の場所と伝わります。
そこから最初の曲輪と成る若宮御霊神社の若宮曲輪です。この若宮曲輪を四角に取り囲んでいたのが暗渠化された堀川で今も若宮曲輪の下に四角い道に名残が有る。形状から北条が得意とする角馬出しの跡だろう。
笹下中央公園には北見掃部屋敷跡の曲輪と武者走りも有りましたが環状2号線の建設で笹下杉本遺跡もろとも掘削され消失しました。しかし横浜市教育委員会は地下に保存していると虚偽説明の看板を設置しています。
笹下中学建設中に大量に瓦が出土しており、天照大神宮辺りに安房州明神が元々鎮座していた所を間宮家が接収し屋敷を建てた伝承が残り、同地は松本城と言われ旧住所の小名が「中丸」である事から戦国時代の笹下城は松本城址を取り込む巨大城郭である事が解ります。
2017年02月26日 相模守愛洲久忠
笹下城
京浜急行上大岡駅の南側、大岡川と左右手川に挟まれた大小の谷戸が多数入り込む段丘上に若宮郭を主とした本丸、北見掃部屋敷、松本社を有する中の丸の三つの砦から構成されていたようです。現地では若宮郭直下の大手に喰い違い虎口、空堀跡、堀底道からの角馬出しが道路の段差やクランクなどからかろうじて確認出来ます。
城主、間宮康俊は後の豊臣秀吉による小田原城攻めのおり、僅か200前後の兵で山中城の岱之崎曲輪での籠城戦を敢行するも全滅しますが、戦いぶりが余りにも見事であったと認められ一族の分家が徳川の旗本として取り立てられます。康俊の娘「おひさ」は家康の側室。末裔には樺太探検の「間宮林蔵」解体新書の「杉田玄白」。
笹下城の周辺スポット情報
杉田間宮氏陣屋(周辺城郭)
笹下間宮氏陣屋(周辺城郭)
若宮曲輪跡・若宮御霊神社(寺社・史跡)
笹下城総門跡・元笹下橋(その他)