藤沢御殿(ふじさわごてん)
藤沢御殿の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 神奈川県藤沢市藤沢1
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 御殿
天守構造
- なし
築城主
- 徳川家康
築城年
- 慶長元年(1596)
主な改修者
- -
主な城主
- 徳川氏
廃城年
- 明暦3年(1657)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
村岡城(神奈川県藤沢市)[2.2km]
玉縄城(神奈川県鎌倉市)[2.8km]
大庭城(神奈川県藤沢市)[3.2km]
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藤沢御殿の解説文
[引用元:Wikipedia「藤沢御殿」の項目]藤沢御殿(ふじさわごてん)は、相模国藤沢(現在の神奈川県藤沢市藤沢二丁目)にあった徳川将軍家の御殿(別荘)である。御殿は、現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあった。
【概要】
藤沢御殿は藤沢宿が設置される前の慶長元年(1596)頃に築かれたと推定される。徳川家康は天正18年(1590)関東に入ると地域支配の拠点、休憩・宿泊施設として御殿やお茶屋を設置した。記録としては『慶長記』に徳川家康が慶長5年(1600)に鎌倉遊覧のため訪れた記述があるのが最初で、秀忠、家光と寛永11年(1634)まで28回利用されている。
資料によると四方は水堀で囲まれ、内土塁と外土塁がめぐらされている東南の堀は幅6間、深さ2間半、南北の堀は幅5間、深さ2間半で、外土塁の外側は東西106間、南北62間で、内土塁の中は東西86間、南北36間の広さがあった。表御門は東海道に面した南側にあり、裏御門は東側にあった。表御門の西側には御殿番所、東側には代官陣屋が立ち並んでいた。総面積は6,000坪に及び、これは城郭構えである事は明らかである[要出典]。
2000年8月には藤沢御殿に関する考古学的な初めての調査が行われ西側の堀の遺構が確認された。相模国内には13箇所の御殿、御茶屋が資料[要出典]に記載され、うち純然たる城郭構の将軍の恒常的な宿泊施設は4箇所を数える。これらは藤沢御殿のように水堀と土塁または石垣が巡る方形の城郭に準じて造営された(なお、同国内の御殿は元禄時代に全て消滅している)。
将軍による藤沢御殿の利用は寛永11年(1634)が最後である。その後、江戸で発生した明暦の大火(1657)に伴う江戸城再築のために建築物が取り払われた。天和2年(1682)には跡地が検知され耕地となった。現在では、御殿橋、陣屋小路、陣屋橋が残るほか、藤沢市民病院付近には御殿辺などの地名が残っている。
【交通】
・小田急電鉄江ノ島線 藤沢本町駅
【参考文献】
・新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、429コマ。
・『藤沢-わがまちのあゆみ-』 児玉幸多、藤沢市文書館、1984年10月1日、増補版。
・『藤沢の地名』 日本地名研究所、藤沢市自治文化部市民活動課、1997年3月31日、第3版。
・『国別城郭・陣屋・要害・台場事典』 西ヶ谷恭弘、東京堂出版、2002年7月。ISBN 978-4-490-10605-3。
・『東海道と藤沢宿 東海道宿駅制度四〇〇年記念』 荒井秀規、藤沢市教育委員会 生涯学習課 博物館準備担当、2001年11月13日。[続きを見る]
藤沢御殿の口コミ情報
2020年08月18日 尾令利大蔵大輔太郎
藤沢御殿
藤沢市の旧藤沢公民館付近にあったと云われる藤沢御殿。周辺に堀などの遺構は何もないです。公民館の建物の前に説明板があります。近くに、御殿橋や御殿辺公園などの地名が残っています。御殿跡の周りには、東に境川、北に境川支流の白旗川が流れています。
藤沢本町駅からは、旧東海道沿いに歩けば10分程度です。藤沢宿交流館や時宗総本山遊行寺も近くにあり歴史散歩が気軽にできます。