早川城(はやかわじょう)
早川城の基本情報
通称・別名
- 早川城山、城山(じょうやま)
所在地
- 神奈川県綾瀬市早川城山3
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 渋谷氏
築城年
- 鎌倉時代?、室町時代前期?
主な改修者
- -
主な城主
- 渋谷氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁、堀切、物見塚
指定文化財
- 県史跡(早川城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
海老名城(神奈川県海老名市)[4.0km]
厚木館(神奈川県厚木市)[4.8km]
座間城(神奈川県座間市)[5.6km]
富士塚城(神奈川県横浜市)[6.8km]
中和田城(神奈川県横浜市)[6.9km]
深見城(神奈川県大和市)[7.7km]
磯部城(神奈川県相模原市)[8.5km]
梶原景時城(神奈川県高座郡)[8.8km]
大庭城(神奈川県藤沢市)[9.1km]
荻野山中陣屋(神奈川県厚木市)[9.2km]
早川城の解説文
早川城の口コミ情報
2024年10月17日 武蔵守のむげん
早川城
城山公園の無料駐車場が利用可能。公園入ってすぐに土塁と空堀が確認できます。また曲輪は小高い丘になっており、周囲との高低差があることがわかります。犬の散歩が賑わっていました。
2024年05月18日 いれぶん[⭕️雁雁]
神崎遺跡資料館[早川城 関連施設]
弥生時代の遺跡資料館ですが、早川城発掘調査に関するパネル展示や渋谷氏に触れた年表、綾瀬市に関係する後北条氏文書の展示等もあり、早川城パンフレットも置いてあります。リア攻めの前後に立ち寄ると良いです。十分な数の駐車場や清潔なトイレが使えます。
肝心の神崎遺跡に関する展示も、わかりやすく簡潔に興味深くなされていて、とても為になりました。V字型環濠の断面模型が楽しいです
2024年02月28日 ごこちゃん
早川城
広い公園の中ワンちゃん連れの人がたくさんいました。さくらが満開できれいでした。空堀もあり散歩しながらお城跡を楽しみました。
2024年01月22日 Maru姫22
早川城
公園として整備されてました。一角に物見塚があり「東郷氏祖先発祥地碑」が立ってました。
2023年06月27日 みよ釆女正
早川城
駐車場も資料館もあり整備されてましたが、17時迄でしたので、本丸近くまで車でいきました。外堀の名残の所は水が溜まっていました。本丸跡に入ると、城感満載で、石碑もありました。堀切もあったり、城感あるので、再度ゆっくり行ってみたいです。
2022年11月05日 左近衛少将てつ
早川城
城山公園として整備されています。中世からある物見台が残っていて渋い雰囲気です。
2022年11月05日 左近衛少将てつ
落合館[早川城 周辺城郭]
稲著社に説明板があります。銀杏が沢山ありました。
2022年05月21日 コロスケコロコロ
早川城
遺構が残っていて意外に楽しめました。バラ園が見事でした。
2021年04月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
相模国分寺跡[早川城 寺社・史跡]
神奈川県の海老名市にある相模国分寺☆聖武天皇の発願で建立された国分寺の1つで奈良時代に創建されました☆
地震・火災で焼失してしまう相模国分寺ですが再建☆再建するも全国の国分寺に国分尼寺は9世紀以降衰退一時徐々に衰退していきます☆鎌倉時代に入ると源頼朝は衰退した東海道各国の国分寺の再建を図りました♪そんな中で源頼朝は妻の北条政子の安産の為に相模国内の寺社に対して神馬を奉納し相模国分寺でも安産の読経を行っています☆
鎌倉時代以降に相模国分寺は文献上に出てきません☆その後の南北朝時代から室町時代にかけて相模国分寺がどうなっていたかは分かってません☆ただ相模国分寺は再び衰微し戦国時代には戦火の為ほぼ焼失していた様です☆唯一、相模国分寺が記録に現れるのは安土桃山時代の豊臣秀吉の小田原征伐の際に国分尼寺に制札を掲げた記録が残っているのみの様です☆戦後にかけて宅地開発が進み今は現在はのどかな公園になっています☆
2021年04月22日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
龍峰寺跡[早川城 寺社・史跡]
神奈川県の海老名市にある城跡かと思われる場所☆お友達に聞いて行って見ました☆歴史詳細、一切不明になります☆一応Googleには幻想城として位置が出てきます☆ハッキリ言って城跡かどうかも不明です☆
早川城の北西側、直線3キロ位かな〜☆
海老名中学校と小学校の高台付近が城郭だったらしい☆
行って見て…高台しか無い☆遺構、痕跡はありませんでした☆中学校を中心に城郭を展開していた様ですが全く分かりませんでした☆
調べてみたのですが唯一の手掛かりとして、同場所に南北朝時代に龍峰寺というお寺があった様です☆この龍峰寺という寺は円光大照禅師に創建されています☆昭和初期に場所が変わっていて現在は国分北にあります☆寺紋にはシッカリと【北条鱗】北条方の寺院と言う事ですね☆戦国武将と寺はかなり密接な関係になっていて時には戦う寺、城郭寺院なるモノもある位ですから、鍛え上げられた僧兵が北条家・家臣として守っていたのかも知れません☆
残っている歴史が全く無いので妄想になってしまうのですが、南東側に早川城、南西側の相模川を越えて厚木城、更に真北に座間城と北条方の城郭が構えてます☆その三角形の中心に幻想城が位置している為、無くは無いな〜って個人的に思いました☆
北条方の寺院、または城郭、館跡だったのかな〜?分からない事を模索する☆凄く楽しいですね♪因みに近隣には相模国分寺(奈良時代)があって歴史深い場所となります☆
2021年04月22日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
上浜田中世建築遺構群[早川城 周辺城郭]
神奈川県の海老名市にある上浜田中世建築群☆出土品の特徴から武家屋敷跡と推定されていて室町時代の上流階級の武士の居住区になります☆
ただどの武士が居たかは分かっていなくてという状況になっています☆場所的には相模・早川城の近辺の為に渋谷氏の家臣団か?
この渋谷氏は鎌倉時代には広大な領地を持っていて東京の渋谷城もこの渋谷氏の発祥だったという考え方もあって、往時の渋谷氏は川崎の方面から綾瀬の方まで広大な領地を持ってました☆
鎌倉初期には源頼朝に従い活躍した渋谷重国が有名になります☆
あと縄文時代から平安時代にかけての竪穴式住居跡や古墳も近所にはあるんですが、古い時代から人の住んだ気配を残しています☆
2021年02月27日 奥月
早川城
公共交通機関でリア攻めする場合は、海老名駅からバスで向かいましょう。城山公園バス停下車。残念ながら綾瀬市には電車の駅が無い(´・ω・`)
2021年01月03日 でんろく兵部卿パルキー
落合館[早川城 周辺城郭]
最終的に源頼朝の御家人となった渋谷重国の長男光重の六男である落合重貞の館があった場所が稲著社となっている。地名も綾瀬市落合であり、落合氏と所縁がありそうである。その後、落合重貞は薩摩国に渡り高城氏と称したとのこと。周囲はキツツキの森となっており散歩道もある。
2020年06月14日 フー甲斐守
早川城
Googleで案内してもらうと南東の駐車場に案内されますが、北側に綺麗な駐車場がありました。
南東側の駐車場も勿論とめれます
(8時以降)。
早川城は舌状地に造られた城で、北側以外は切り立った自然の防衛網ですので、遺構は北側の堀切が中心ですが、南東側のホタル用の場所も空堀が巡っていた可能性もありそうです^o^
市民の憩いの場になっていますが、入れない所に遺構は残っていそうです^o^
2016年04月05日 相模守愛洲久忠
早川城
綾瀬市役所そばの「城山公園」が早川城跡です。城の北東側は平坦な台地で防衛に不向きな為に比較的大規模な空堀を巡らせたようでその名残を確認することができます。反対の南西側は早川との谷の段差を利用した天然の要害となっています。主郭部南西側には比高2㍍の円形土塁があり「物見塚」とされていますが、ちょっとした櫓を立てれば物見櫓の役目を果たしていたのでしょう。出土品から平時には祭祀も行われていたようです。発掘調査から主郭土塁の一部を加工した腰曲輪も数カ所確認されています。
鎌倉時代桓武平氏の流れをくむ秩父党の一派渋谷重国が、相模渋谷荘の荘司になったと考えられ、源頼朝に臣従すると子の高重と共に鎌倉幕府の御家人となりその所領を安堵されたようです。渋谷氏の支配はその後室町時代初頭まで続いたとされています。
2013年09月09日 空灯
早川城
公園として整備されているので、しっかりした駐車場があります。案内板がたくさんありましたが、いまいちわかりにくいです。遺構もほぼわからず、城跡としてよりは、公園の感じが強いです。BBQなどができる炊事場なんかもありました。
2013年09月08日 空灯
落合館[早川城 周辺城郭]
綾南公園の駐車場にとめられます。キツツキの森を抜けて5分くらいで社に着きます。神社には猫がいました(・∀・)
2011年08月16日 II軽内大臣為信
落合館[早川城 周辺城郭]
落合キツツキの森の中にあります。昔は古道がこの地を東西に通っていたといわれ、中世の在地領主渋谷重国の孫の落合六郎重貞の居館があったと解説されています。
綾瀬市教育委員会は平成元年~6年、早川城跡の学術研究を目的とした発掘調査を行った。これは周辺の区画整理事業の影響が早川城跡にも及ぶことが懸念されたためである。
調査の結果、早川城跡は室町時代初期ないし鎌倉時代にまでさかのぼる可能性のある中世城郭であることが明らかとなった。
県内でも、往時の姿を良好に残す数少ない城郭であることから、その学術的価値も高く評価され、2008年、神奈川県指定史跡となった。
城山は目久尻川に向かって相模野台地の南端が舌状に突き出した先端に位置し、その東~南~西側は急峻な崖で、天然の要害の地となっている。中世の城は、石垣を積み上げる戦国時代以降の城とは異なり、周囲に掘切を巡らし、その内側に掘った土を積み上げ土塁を築いて、主郭(戦国時代の城では本丸に当る部分)が造られた。
早川城跡では三方を崖に囲まれた地形が利用され、北側の台地へと続く部分に深い掘切を設け、内側に土塁を築き、加えて周囲の急斜面にも掘切と土塁が巡らされて主郭が形成されている。
主郭西部には物見塚があり、西側斜面2ヵ所では曲輪(腰郭)が確認された。この城郭は、有事の際に武士が立て籠もる砦としての機能をもった山城だと考えられている。
また、中世城郭遺構のほかに、縄文時代中期及び古代の竪穴住居址も多数確認された。城が造られる以前、この地には大規模な集落が存在していたと推定されている。
調査結果を受けて開発計画の一部が再考され、城跡は現在、城山公園の中で中世城郭の遺構を残した状態で保存されている。