梶原景時城(かじわらかげときじょう)

梶原景時城の基本情報

通称・別名

梶原景時館

所在地

神奈川県高座郡寒川町一之宮

旧国名

相模国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

梶原景時

築城年

正治元年(1199)?、正治2年(1200)

主な改修者

主な城主

梶原氏

廃城年

遺構

土塁、横堀(空堀)跡

指定文化財

再建造物

石碑(梶原景時館址)、説明板

周辺の城

中原御殿(神奈川県平塚市)[5.2km]
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厚木館(神奈川県厚木市)[8.1km]

梶原景時城の口コミ情報

ブラ弾正少弼後方支援!様[2017年05月15日]
またその状況は「景時引近辺橋、暫可相支之處、(中略)違兼日自称云々」(同年2月6日条)つまり館の周りもしくは近辺の橋を引き上げて防禦の体勢に入って応戦する事が「防戦」のスタイルで、景時も日頃から語っていたらしい事を示している。また、同条には、本来ならば「引橋」を引いて堀に通じる「樋」=水門を開いて水を入れ近隣の小屋を橋上に壊しかけて焼き落とす事が「城郭を構える」事の常道だと述べている。しかし、こうした「防戦」システムの構築が不十分のまま、館を捨ててしまったらしい。この事から普段の館は、空堀もしくは若干の水がある堀に囲まれ、非常時には「樋」を調節して水を引き入れる事ができ、そこには引橋が架かっていた様子が窺える。

ブラ弾正少弼後方支援!様[2017年05月15日]
この城館に関する史料として、相模国御家人梶原景時が多くの御家人から弾劾を受け、孤立を余儀なくされ、ついに鎌倉を退去した後本領の一宮付近の様子を他の御家人の飛脚を通じて鎌倉に知らせてきた内容を示した『吾妻鏡』正治2(1200)年正月20日条がある。引用すると「原宗三郎進飛脚申云、梶原平三郎景時此間於当国一宮構城郭、備防戦之儀、人以成怪之処、去夜丑刻、相伴子息等、偸遜出此処、是企謀叛有上洛聞云々」(伊藤一美稿「鎌倉御家人梶原景時の立場」金沢文庫研究288 1992)とある。景時が一宮に「防戦の儀」に「備える」ため「城郭が構え」られた事を示す。

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