真田城(さなだじょう)
真田城の基本情報
通称・別名
- 実田要害
所在地
- 神奈川県平塚市真田(天徳寺)
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 真田義忠
築城年
- 応永年間(1394〜1428)
主な改修者
- 上田氏
主な城主
- 真田氏、上田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
岡崎城(神奈川県伊勢原市)[2.6km]
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真田城の口コミ情報
2024年08月08日 マグロ常陸介祐平
土屋城[真田城 周辺城郭]
桓武平氏良文流の中村庄司宗平の三男、土屋宗遠の居館です。宗遠は、土肥実平の弟にあたります。頼朝の元で源平合戦において活躍し、甲斐源氏参戦の交渉も行っています。お隣の岡崎氏とは養子をもらうなど固い姻戚関係にありました。土屋氏は、室町時代までこの地を治めますが、明徳の乱で当主宗貞が討死し勢力を弱め、上杉禅秀の乱で敗北し、所領は大森氏のものになっています。
お城は、大乗院の南にあったようですが、風土記稿の書かれた江戸時代後期には、「遺形と覚しき所なし」とされているので、遺構は残っていないと思われます。大乗院の墓地の先の携帯電話の電波塔付近は堀切のようにみえ(写真4枚目)、周囲は何となく城郭の雰囲気を感じます(写真1,2,3枚目)。
城域には土屋一族の墓が並んでいますが、昭和10年に付近にあった墓石を集めたもので、元の姿ではありません(写真6,7枚目)。また、南西に1kmにある芳盛寺は古義真言宗の檀林所で、古くは阿弥陀寺と号し、土屋氏の菩提寺でしたが、大森氏の所領となると小田原城主大森芳盛?の諱から芳盛寺と寺名を変えています。芳盛寺には江戸時代この地を知行した旗本窪田氏の墓があります(写真8枚目)。
2024年08月08日 マグロ常陸介祐平
真田城
新編相模風土記稿に真田城蹟として「村の中程に在 東西五十三間 南北三十五間 四方に堀の跡あり 治承の昔真田與一義忠の居城なりしと云 其後遥に星霜を経て明應四年 大森筑前守藤頼 北条早雲の為に小田原城を攻落され 當城に遁る 数度合戦ありしが藤頼遂に利なくして一族悉く當城にて滅亡す 廃城となりし年代は詳ならず 天正の頃は既に廃して 鈴木隼人某が持地なり 後 天徳寺境内となれり」とあります。
平塚市博物館の資料によると戦国期の記録では、明応5年(1496年)と永正元年(1504年)に上田氏(扇谷上杉氏家臣)の守る実田要害として現れるようです。発掘調査も行われており、城域は東西約500m、南北約300mの規模だったようです。堀から鉄砲玉と人骨が見つかっているので、北条氏の時代も活用され、攻城戦があったと推察されます。(堀底より上の堆積された層で発見)
遺構として土塁が残っているようですが、探し方が悪いのか見つかりませんでした。西側の真田与一公園とお寺との段差(写真4枚目)が、お城を感じさせてくれます。
また、与一堂の背後には与一の供養塔があります(写真6枚目)。
真田与一義忠は岡崎義実の嫡子で、石橋山の戦いにて25歳の若さで亡くなり、子の実忠は岡崎家を継ぎますが、和田合戦で滅亡しています。
房総には三浦系統の武士が多く、佐久間(家村系)、多々良(義春系)、正木(義同系)の他、与一の子孫とされる真田氏が見られます。
2023年10月15日 ファン掃部助トム治郎
真田城
鶴巻温泉駅から20分くらいです。岡崎城を経由し伊勢原駅まで歩きました。
2023年04月24日 左近衛少将てつ
真田城
天徳寺に眞田城址の説明板があります。天徳寺には真田学校跡の碑もありました。
2020年10月30日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
天徳寺駐車場[真田城 駐車場]
天徳寺さんの駐車場をお借りしました!
(真田与一公園には駐車場は無いのでご注意ください)
2020年09月11日 おかっぴき
真田城
真田城はお寺の中にあり説明板や石碑があります。真田発祥の地の石碑や土塁も残ってます。
2018年03月24日 戸沢大膳大夫盛安
真田城
三浦家庶流の佐奈田与一義忠が砦を築いたことが始まり。石橋山の戦いで義忠が壮絶な戦死を迎えた後は義忠の嫡男、岡崎実忠が継いだらしいが、1213年の和田合戦に巻き込まれて子共々戦死したらしい。
室町時代の真田城は扇谷上杉家(もしくはその配下の上田氏や三浦氏)の砦として機能していたと思われる。1495年頃、大森藤頼が伊勢盛時(北条早雲)によって居城小田原城を奪われるという事件が発生、藤頼は縁戚にあたる三浦義同の支援を受けて実田城に逃れ戦ったと言われるが、伊勢氏の侵攻に破れ真田城にて自害したと言われる。
また、扇谷上杉家の家臣で相模国守護代の上田氏の居城(?)として整備されたとも伝わるが不明。
1510年 上田政盛が権現山城にて挙兵し伊勢家に寝返ったが、山内、扇谷両上杉家によって攻められ滅ぼされている。このとき山内上杉家によって実田要塞が攻められた記録があるため。少なくとも上田氏の支城として機能していたとは思われる。その後の真田城の行方は不明
なお真田は後年の当て字であり 佐奈田もしくは実田が正しい
2016年07月01日 にゃにゃーにょ豊後守
真田城
実はここが「真田発祥の地」なのじゃぞ!
小田急線の東海大学前駅・鶴巻温泉駅が最寄りで、周囲より小高い台地上にある『天徳寺』が真田城の中枢だと云われておるのじゃ。
天徳寺に入ってすぐ左手奥に真田与一を祀る『与一堂』(眞田与一廟所)に解説板があり、天気が良ければ富士山も望める箇所じゃ。
本堂の裏手が主郭とされる曽我郭(ソガクルワ)で現在は墓地が広がっており、北東隅にある櫓台と伝わる土塁から周辺の平野部がよく見渡せるぞい。
堀跡なども残っておったそうじゃが平塚市の区画整理事業による発掘調査後に埋め戻され、現在は残念ながら道路やコンビニなどになっておる…。
他に天徳寺の東側にある鬼城(オンジロ)地区は真田城の出城のような場所で、そこの道路が屈折した形なのも東方からの防御のためと考えられるぞい。
★源頼朝の挙兵に馳せ参じ、石橋山の戦い(治承4年/1180年)で討死した真田与一(佐奈田義忠)が居館を築いたのが始まりなのじゃ。
ただ城としての遺構は後の領主、扇谷上杉氏による改修のようじゃのう。
廃城後、1574年に北条家臣の鈴木隼人が天徳寺を創建したそうじゃ。
真田城の周辺スポット情報
眞田氏発祥之地の石碑(碑・説明板)
土屋城址説明板(碑・説明板)
土屋城(周辺城郭)
天徳寺駐車場(駐車場)