丸山城(まるやまじょう)
丸山城の基本情報
通称・別名
- 糟屋城
所在地
- 神奈川県伊勢原市下糟屋
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 扇谷上杉氏
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 扇谷上杉氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
岡崎城(神奈川県伊勢原市)[3.3km]
真田城(神奈川県平塚市)[5.1km]
七沢城(神奈川県厚木市)[5.1km]
厚木館(神奈川県厚木市)[5.4km]
公所ほんの内屋敷(神奈川県平塚市)[7.1km]
中原御殿(神奈川県平塚市)[7.1km]
梶原景時城(神奈川県高座郡)[7.4km]
海老名城(神奈川県海老名市)[7.4km]
波多野城(神奈川県秦野市)[8.0km]
荻野山中陣屋(神奈川県厚木市)[8.2km]
丸山城の解説文
丸山城の口コミ情報
2024年09月15日 あんどー主計頭
大慈寺山[丸山城 寺社・史跡]
太田道灌の菩提寺です。寺内の掲示板に歴史掲載されています
2023年07月03日 きた大学允ひろ
糟屋館跡の説明板[丸山城 碑・説明板]
館の説明板は、産能大学校門にありますが、マップ上でのマークは大学南側を東西にはしる道路脇にあります。
2022年11月27日 左近衛少将てつ
糟屋館[丸山城 周辺城郭]
産業能率大学正門前に、上杉定正糟谷の館址の説明板があります。その他の遺構は見つかりませんでした。
2022年10月16日 マグロ常陸介祐平
糟屋館[丸山城 周辺城郭]
現在造成中であちこちで発掘調査をしています。武者走り土塁遺構があるようですがわかりませんでした。近くの洞昌院には太田道灌の胴塚があります。
2022年10月16日 マグロ常陸介祐平
丸山城
城址は丸山城址公園として整備されています。部分的ですが高さのある土塁や横矢掛りが見られます。太田道灌が亡くなった糟屋館はここだった説もあるようです。近くの大慈寺には太田道灌の首塚があります。
2022年04月03日 左馬頭yasu.
糟屋館跡の説明板[丸山城 碑・説明板]
産業能率大学の入口にあります。見逃さないように気をつけて。
2021年04月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
丸山城
神奈川県の伊勢原市にある丸山城☆現在は『丸山城址公園』として空堀や土塁などが残ります♪
丸山城の詳細は不明ですが、扇谷上杉氏が築いたと考えられています☆武蔵七党の一つ『横山党』の一族の糟屋氏の居館があった場所とされていて、その後は伊豆から相模に進出した北条早雲に備える為に扇谷上杉氏が居館跡を改修して城を築いたと考えられています☆風呂場で謀殺された太田道灌の最期の地もここだったかもしれない可能性がありますが分かっていません☆
そしてこの丸山城の発掘調査では障子堀が発見されています☆(現在は埋め戻されています)
城郭のすぐ南側には高部屋神社♪
創建は不明ですが、鎌倉時代に糟屋庄の地頭であった源頼朝の家臣の『糟屋藤太左兵衛尉有季』が高部屋神社を守護神として新たな社殿を造営したと言う記録も残っています☆
その後の歴史は江戸に入った徳川家康から朱印石が寄進されているという事しか残ってませんが、障子堀が残っているって事は…☆
戦国時代には後北条方として生き残って行った城郭なんですね♪
2021年04月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
糟屋館[丸山城 周辺城郭]
神奈川県の伊勢原市にある粕屋館☆上粕屋の扇状地に立地しています☆古くから人の気配があり上粕屋・秋山上遺跡や上粕屋・神成松遺跡とかが重複してあります☆縄文時代から中世、近世の遺跡が見つかっていて往時から人気の立地になります☆
鎌倉幕府の時代が終焉すると伊勢原市域を中心に広がっていた糟屋荘と呼ばれる荘園は倒幕に貢献した足利尊氏に与えられました☆
足利尊氏は京都の幕府とは別に鎌倉に東国を支配する為の「鎌倉府」を置きます☆この鎌倉府には関東(鎌倉)公方と呼ばれる足利氏がいて東国の武士を率います☆上杉氏はこの関東公方を補佐する関東管領と呼ばれる地位に就いていきます☆元々は4家に別れていた上杉家ですが山内上杉、扇谷上杉の2家が残っていきました☆
今回の糟屋館ですが扇谷上杉持朝の館跡になります☆扇谷上杉持朝は相模守護になり守護所を糟屋に置いたと考えられています☆
後に扇谷上杉氏は埼玉県の河越城を築いて拠点を移しますが糟屋館は使用されていた様です☆
扇谷上杉氏の館跡の正確な所在は明治以降、上粕屋に残る立原、的場、馬防口とう地名から現在、産業能率大学がある台地上が上杉館と考えられています☆
また戦国時代に活躍した扇谷上杉家・家臣の太田道灌はここ糟屋で主家定正によって謀殺されてしまいます。。。風呂で襲われた太田道灌は『当方滅亡』と叫び絶命したと言います。。。謀殺された場所までは分かっていませんが、ここ糟屋で起こった歴史になります☆
現在も発掘調査をしている様でまた新しい発見があると嬉しいですね♪
2021年03月07日 うっきー
糟屋館[丸山城 周辺城郭]
産業能率大学の門の脇に説明板がありました。そこまでに行く道路の脇にあるのが当時からの土塁なのかは不明。
2021年01月30日 でんろく兵部卿パルキー
糟屋館[丸山城 周辺城郭]
太田道灌が主君上杉定正により殺された場所という上杉館跡こと糟屋館に行きました。産業能率大学の敷地内が糟屋館のようで、訪ねた時はバスで多くの人が発掘調査をしていました。当たりをぐるぐる回りましたが、案内は見つけられませんでした。
2021年01月29日 至誠✿大納言殿参り給ひて
五霊神社[丸山城 寺社・史跡]
糟屋館で非業の死を遂げた太田道灌を北条早雲の命にて合祀されています。御祭神名、太田三徳命(おおたさんとくのみこと)
2020年12月31日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
高部屋神社[丸山城 寺社・史跡]
丸山城と国道246号線で隔てられて隣接していて、城域だったと思われる場所に有る神社です、高部屋神社のこの地は、千鳥ヶ城(丸山城)と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が認められた、鎌倉時代に源頼朝の家人で、藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭「糟屋藤太左兵衛尉有季」の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営したとの事です!
尚、高部屋神社は国登録 有形文化財です!
(高部神社内案内板より)
2020年12月31日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
丸山城
丸山城は、別名は糟屋城・千鳥ヶ城とも呼ばれています!切通になった部分にある国道246号線を挟んで国の文化財でもある高部屋神社のすぐ北側の丘陵上に立地し、現在は丸山城址公園として整備され、城の構造は半円形をした主郭を中心に腰曲輪が取り巻いていて、土塁、建物址、竪穴状遺構などが見つかり公園内でその一部(土塁)を間近に見ることができます!
丸山城址は、伊勢原市下糟屋地区の台地上に築かれた中世に城郭です。大規模な堀や土塁の存在が確認され、江戸時代末の地誌には、平安時代から鎌倉時代初期にこの地を支配した糟屋氏の居跡との伝承がありますが、発掘調査の成果から、15世紀から16世紀頃の城郭と考えられるようになってきました。ちょうど太田道真・道灌父子とその主家の扇谷上杉氏が活躍した頃から、上杉氏の勢力を追い払い、伊豆から相模へ侵攻した小田原北条氏の時代に当たります。
城の範囲は、西は東海大学医学部付属病院あたりから東へ延び、上杉氏と関係深い臨済宗・普済寺あたりまでと考えられ、城郭遺構が発見されています。(伊勢原市教育委員会、公園内案内板より)
尚、丸山城址公園の東入口に駐車場とトイレが有りますが、駐車台数が少ないので要注意です!
2014年12月01日 にゃにゃーにょ豊後守
糟屋館[丸山城 周辺城郭]
『当方滅亡!』
糟屋館(別称:上杉氏館)は、相模守護である扇谷上杉氏の本拠地。そして名将、太田道灌が非業の死を遂げた場所なのじゃ。
★文明十八(1486)年、主君の上杉定正から糟屋館に招かれた太田道灌は、風呂場から出た所を襲われ「当方滅亡」と叫び絶命したそうじゃ。
現在、産業能率大学がある高台付近が館跡と云われておるが、地図の印周辺は原っぱで遺構は何も見当たらぬのう。大学正門前に説明板があるぞい。その高台南側には「空堀」と云われておる大きな窪地が長く延びておるのじゃが、自然地形を天然の堀としたようじゃな。
☆太田道灌の墓(胴塚)がある洞昌院に駐車場があるぞい。すぐ近くには、道灌を守って討死した家臣の七人塚があるのじゃ。
☆「伊勢原観光道灌まつり」
毎年10月第1土日に開催される祭りじゃ♪メインは2日目の、道灌鷹狩り行列・北条政子日向薬師参拝行列で、毎年違う芸能人が両人に扮しておるのじゃ♪
※近年、下糟屋にある「丸山城」が糟屋館ではないかと云われ始めておるぞい?近くに太田家の菩提寺、大慈寺と道灌の墓(首塚)があるのじゃ。
丸山城 (まるやまじょう)は、神奈川県伊勢原市下糟屋にあった日本の城。
歴史的位置
丸山城は、伝承、文献が少ない「幻の城」です。江戸時代末の天保12年(1841)に刊行された『新編相模国風土記稿』には、平安時代末から鎌倉時代初期に活躍した糟屋有季の居跡として、「西北の方にて、八幡境内(註:現在の高部屋神社)より社領の地に係り、東西百余間、南北百十余間、其辺を殿ノ窪と字せり、四面に堀の遺形あり、(中略) 按ずるに、此地有季の居跡とのみ云うけれど」と記されています。明治時代になって殿ノ窪は丸山となり、明治20年にまとめられた「下糟屋村外六ヶ村地誌」の中に「丸山城」という名前が初めて見られ、昭和8年に刊行された『延喜式内社高部屋神社小誌』には、糟屋有季の居跡としながらも、「千鳥ヶ城」という別名が登場します。また、昭和28年刊行の『神奈川県中郡勢誌』では、糟屋氏歴代の居城とし、糟屋荘の政所との説が述べられています。
糟屋荘は、平安時代末の久寿元年(1154)に京都伏見にある鳥羽上皇が造営した安楽寿院の荘園として認められ、現在の伊勢原市から平塚市にかけての広い範囲にわたると考えられています。丸山城は、その糟屋荘の総社とされる高部屋神社の周辺に広がっています。
城の範囲
丸山城は、高部屋神社を中心に下糟屋の丘陵上に位置し、西は東海大学病院のある上ノ台、東は普済寺あたりまで城郭遺構が確認されています。また、普済寺の東側では、建物址や井戸、地下式坑、柵列などが発見され、生活エリアが広がっています。丸山城址公園部分については、昭和60年に伊勢原市教育委員会が詳細分布調査を実施した結果、丘陵部で堀、土塁、竪穴状遺構などが確認され、室町時代後半のかわらけや陶器が出土し、中世城郭の存在が明らかになったことから、その一部を公園として保存することとしました。
発見遺構
市教育委員会では公園整備に先立ち、遺構の配置を確認するための範囲確認調査を実施しました。その結果、公園用地中心部の上段には幅10m前後の土塁がまわっており、一部を除きほとんどは削られていますが、トレンチ調査により地中で土塁の盛土を確認し、その基底面が地表面下1~2mの所にあることがわかりました。土塁に囲まれた平坦部分では、建物址も確認されています。また、下段には、上段の外側を取り巻くように堀が巡っており、その幅は16m前後、深さは4~6mを測り、堀の底面には仕切り(障子)や衝立状の段差が確認されています。形態としては堀障子に似ていますが、階段状の掘り残しがそのまま残されており、造りかけとも考えられます。この堀の外側にも、幅10m前後の土塁が造られていたことが確認されています。
この他、高部屋神社の北側では断面逆台形の堀が鉤の手状に確認されています。内部には同様に障子状の施設が見つかりました。この部分の土塁は、幅約11m、高さ4mを測ります。
公園の北側では、L形に曲がる道状遺構が確認されました。南から北へ下る断面V字形の溝状で、底面は硬く踏み固められています。その先は東側に曲がっており、一段下の公園外へと続くと推定されます。丸山城の北からの入口施設(虎口)と考えられます。
出土遺物
丸山城から出土した遺物は、青磁、白磁、かわらけ、陶器、瓦等です。出土量は多くありませんが、それらの時期は、鎌倉時代から室町時代前半と室町時代後半から戦国時代にかけての時期に二分されます。前者は一部が糟屋氏の時期と重なり、後者は当地域で活躍した太田道灌の時代にあたります。丸山城の規模や構造を考え合わせると、道灌の主君である上杉定正に関連する城(館)の可能性も想定されます。