波多野城(はだのじょう)
波多野城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 神奈川県秦野市寺山
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 波多野次郎
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 波多野氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
真田城(神奈川県平塚市)[5.4km]
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七沢城(神奈川県厚木市)[7.9km]
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厚木館(神奈川県厚木市)[13.0km]
波多野城の口コミ情報
2022年11月30日 笑門来猫
金剛寺[波多野城 寺社・史跡]
鎌倉3代将軍 源実朝の法号 金剛寺殿にちなんだ名前を持つお寺。公暁に討たれた実朝の御首がこの地に埋葬されたことに始まるといわれおり、本堂には実朝の木像や、実朝の念持仏と伝わる金剛寺木造阿弥陀三尊立像があります。
2022年11月29日 左近衛少将てつ
波多野城
東小学校から案内板に導かれて5分位歩くと、波多野城址の石碑と説明板があります。
近くには田原ふるさと公園があり、源実朝の首塚があります。
2022年10月17日 マグロ常陸介祐平
波多野城
石碑が立っていますが、説明板には発掘調査では館に関するものは発見できず、空堀と信じられていた場所からは雨乞いに使用した大量の馬歯が出てきたと書かれています。近くの金剛寺には源実朝の首塚があり、周囲からは鎌倉時代の館跡(東田原丸遺跡)が発掘されており、こちらが波多野城かもしれないようです。
2021年02月11日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
源実朝公首塚[波多野城 寺社・史跡]
田原ふるさと公園(無料駐車場有)内に有ります、源実朝公は、甥の公暁(くぎょう)によって殺され、その後、御首(みしるし)は、公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)らによってこの秦野の地に持ちこまれました。そして当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられています、そして、この地は東田原中丸遺跡があり、縄文・古墳時代及び中・近世の複合遺跡として知られている。平成12年の発掘調査では、古墳時代の集落跡や鎌倉時代の武士の館跡と考えられる遺構が発見された。また、鎌倉でよく使われていた「かわらけ」という皿の形をした13世紀前半の土器も数多く出土した。この付近を本拠地としていた「波多野氏」の館跡ではないかと注目されているとの事です!
(公園内の施設では、お蕎麦屋さんが有ります、また野菜等を販売していますよ)
(秦野市HP等より)
2017年12月03日 マッキー上総介ペン@自転車
波多野城
中学校から台地を見渡すところに、石碑のようなものがありました。崩れてしまったのか、独特の風格があります。
2017年04月01日 にゃにゃーにょ豊後守
波多野城
波多野城は、相模国西部の丹沢山麓に広がる秦野盆地にあった…と云われておる城なのじゃ。
江戸期の「新編相模国風土記稿」にも波多野次郎の城跡との記述があるぞい。
県道70号線沿いにある東小・中学校から谷を挟んだ西の小高い丘がそれで、丘の西を流れる金目川が天然の堀となる立地や城郭に見える地形を目にするぞい。
その台地南方の畑の中の柵で囲まれた場所に城址碑や説明板などがあるのじゃ。
しかしのう…この丘の上全体だと城地が広すぎる様じゃし、東側の台地の方が高いのも防御はどうかと思ったのう。
近年の発掘調査でも館跡などの痕跡は見つからなかったそうじゃ…
じゃが調査によると、中世初期の居館跡は中学校東側の寺山字「竹ノ内」(館の内?)辺りのようじゃ、付近にも玄蕃屋敷、殿前、門畑など城館を示す地名が存在したそうなのじゃ。
城址より1km程西の「源実朝公御首塚」前にある『東田原中丸遺跡』(田原ふるさと公園)も発掘調査で鎌倉時代の館跡の遺構が発見されたそうなのじゃ。
実朝公は波多野氏の居館の敷地内に埋葬されたのかもしれぬのう…。
☆ここは駐車場や地元の物産販売の店もあるぞい。
2017年01月02日 笑門来猫
波多野城
東中学校の西側、現在は農地となっている場所に、案内板や石碑があります。
空堀の底の降りて上を見上げると、両脇にそそりたつ崖があり、いかにもな雰囲気があるのですが、残念ながら発掘調査では証拠となる遺物は発見できず...とのことです。
ちなみにすぐ近くに、鎌倉幕府三代将軍、源実朝の首塚があり、そちらの方が館跡として有力との話もあります。