小田原城(おだわらじょう)
小田原城の基本情報
通称・別名
- 小峯城、小峰城、小早川城、小早川館
所在地
- 神奈川県小田原市城内、本町他
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- 複合式層塔型[3重4階/1633年築/倒壊(地震)]、複合式層塔型[3重4階/1706年再/解体]、複合式層塔型[3重4階/1960年再/RC造外観復元]
築城主
- 大森頼春
築城年
- 応永24年(1417)
主な改修者
- 北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝
主な城主
- 大森氏、後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)
指定文化財
- 国史跡(小田原城跡)
再建造物
- 天守、門、塀、石碑、説明板
周辺の城
-
今井陣城(神奈川県小田原市)[2.1km]
石垣山城(神奈川県小田原市)[3.0km]
岩原城(神奈川県南足柄市)[6.0km]
中村館(神奈川県中郡)[9.3km]
鷹の巣城(神奈川県足柄下郡)[9.4km]
苅野丸山城(神奈川県南足柄市)[11.1km]
松田城(神奈川県足柄上郡)[11.8km]
土肥城(神奈川県足柄下郡)[12.3km]
箱根関(神奈川県足柄下郡)[13.3km]
河村城(神奈川県足柄上郡)[13.5km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- 23 小田原城
設置場所
- 天守閣1階[地図]
小田原城の解説文
[引用元:Wikipedia「小田原城」の項目]
小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)。北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。
概要
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高等学校がある場所)を詰の城としていた。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地元地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えである。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
なお、小田原藩大久保氏の大名となった支藩(分家)には荻野山中藩(現在の神奈川県厚木市)がある。
小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した[1]。又、老朽化した天守の木造復元計画もある。
構造
平地部
近世に大久保忠世・稲葉正勝によって改修された部分。現在の小田原城址公園及び、その近辺である。主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城である。佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が窺える。なお、現在のような総石垣の城になったのは寛永9年(1632年)に始められた大改修後のことである。本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出(うまだし)として機能した。建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。
明治初期に殆どの建物が取り壊されたが、本丸・二の丸・茶壺曲輪・馬屋曲輪は復元が進んでいる。鷹部曲輪には図書館・郷土文化館が置かれ、小峯曲輪は報徳二宮神社、屏風岩曲輪は遊園地となっている。御蔵米曲輪は球場となった後、一時的に駐車場となっていたが、現在復元整備中。弁財天曲輪は城址公園外の住宅地となっており旭丘高校の校地も存在する。
なお、小田原城址公園に隣接する市有地には、小田原箱根商工会議所が事務所としていた1971年(昭和46年)に建設された商工会館(地下1階、地上5階建て)があったが、周辺は弁財天曲輪や蓮池があった場所で国の史跡指定の範囲内だったことから文化庁の許可を得て建てられた[2]。しかし、旧商工会館は建て替えが難しいことから、小田原箱根商工会議所は2021年2月に小田原市本町の新事務所に移転しており、旧商工会館を市に寄贈する意向を伝えている。
八幡山古郭
平地部に対する詰城に当たる。小田原合戦において、北条氏政がここに陣を置いたとされる。大森氏時代からの本来の小田原城とも言われるが、異説もありはっきりしない。東から順に、東曲輪、本曲輪、西曲輪、藤原平、毒榎平と連なる連郭式の構造。本曲輪の南側に南曲輪、西曲輪の北側に鍛冶曲輪を置き、守りを固めている。現在、大半が宅地化。東曲輪は一部史跡公園となったが、本曲輪とその北側、及び南曲輪は住宅地である。西曲輪、藤原平は現在の小田原高校で、鍛冶曲輪は庭球場、毒榎平は貯水池及び城山公園となっている。往時の面影はほとんど残っていない。
総構
小田原城は中核部が二の丸総堀、三の丸総堀、総構堀によって三重に囲われた構造となっている。二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。総構堀は上述のように小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。
歴史・沿革
元は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(土肥小早川氏の祖とされる)の居館であったとされる。
「鉢木物語」にて、北条時頼から佐野源左衛門に与えられたという物語がある。
応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げた。
明応4年(1495年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。ただし、年代については明応4年(1495年)、以後に大森氏が依然として城主であったことを示すとされる古文書[3]も存在しており、実際に盛時が小田原城を奪ったのはもう少し後(遅くても文亀元年(1501年))と考えられている[4]。ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ永正15年(1518年)もしくは盛時が死去した翌永正16年(1519年)の後とみられている[5]。以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。
永禄4年(1561年)、北関東において後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から侵攻し、小田原城の戦いとなる。軍記などでは、11万3千(関八州古戦録より)ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲。1か月にわたる篭城戦の後、上杉軍の攻撃を防ぎ切ったと伝えているが、実際は10日間ほどの包囲であったとみられる[6]。
永禄11年(1568年)甲斐国の武田信玄は駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、後北条氏は甲相同盟を破棄し越後上杉氏との越相同盟を結び武田方に対抗した。信玄はこれに対して北関東の国衆と同盟し後北条領国へ圧力を加え、翌永禄12年10月1日から4日(1569年11月9日から12日)にかけて後北条領国へ侵攻し、小田原城を包囲する軍事的示威活動を行い、撤退に際して追尾した後北条勢を三増峠の戦いにおいて撃退した。後に後北条氏は武田の駿河領有を承認し甲相同盟を回復している経緯からも、この時の小田原攻めは本格的侵攻ではなく軍事的示威行為に過ぎないものであったと考えられている。
後北条氏による小田原城の改築は大きいものでは少なくても2度あったと考えられている。最初は伊勢盛時(北条早雲)が小田原城を得た直後で、ほぼ同時期に鎌倉に大被害をもたらした大地震があったと言われており(明応地震を参照のこと)、文献上の記録はないものの距離的に近い小田原も被害を受けた可能性があり、戦闘と地震による打撃を回復させるための改築が行われたと見られている(ただし、前述の通り、地震発生時の当主が大森氏であった可能性及び同氏が改築を行った可能性も否定は出来ない。また、近年研究が進み、地震に乗じて、又は、地震後の混乱に乗じて城を奪ったとする説も出ている[7])。もう1度は永禄9年(1566年)から同12年の時期に小田原城の改築に関する文書が多数発給されており、この時期に相次いだ上杉氏・武田氏の侵攻に備えたものと考えられている。また、甲相駿三国同盟の時期を除けば、小田原城の西隣に位置する駿河国駿東郡は後北条氏を含めた諸勢力による争奪が長く続いており、後北条氏の時代全体を通じて一番緊迫した国境であった駿東方面への押さえとして小田原城は重要視されており、関東地方の大半を制圧した後もその中央部に本拠地に移動させずに小田原城を本拠とした理由と考えられている[8]。なお、北条氏康の居館には会所・寝殿が備わっており、永禄元年(1558年)に小田原に入った古河公方足利義氏が氏康邸を宿舎としていたことが知られている[9]。
安土桃山時代
天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。小田原征伐(小田原合戦、小田原の役など)と呼ばれるこの戦いにおいて秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3か月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。その後、秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれをもって完成した(宇都宮仕置)。
総構(大構)の建造時期
後北条氏は永禄12年(1569年)に武田信玄に小田原城を攻められたことで未曾有の小田原城の大改修が始まったといわれているが、年代と普請内容については未だに不明な部分が多い。
永禄12年の三の丸大普請(大改修)
この頃の城普請の作業内容は土塁と堀の築造が主体。三の丸外郭を充実させながら、新たに外周に三の丸の外郭を構成し、三の丸の低地部分が優先となり、次に山岳部の外郭を築造した。
习歳大普請
天正6年(1578年)正月~
普請の内容
三の丸大普請(大改修)山岳部三の丸普請(新堀)
天正11年(1583年)~天正12年(1584年)3月13日の期間
普請の内容
北条氏照の屋敷を要害内に入れるため、寺地の提供を求め、結果的に北条氏の家臣朝倉氏が土地を買収している。
戌歳大普請
天正13年(1585年)2月~
乙酉大普請
天正13年(1585年)3月~
普請の内容
後北条氏時代に小田原城は二の丸・三の丸ともに山地部分が広大で、山城を意識して城地を拡大したと思われているが不明である。三の丸の外郭の普請は翌年には天神山尾根へ拡張し外郭が完成。
亥歳大普請
天正15年(1587年)正月~
相府大普請
天正15年(1587年)5月~
- 豊臣政権による小田原征伐に備えたもの。
寅歳大普請
天正17年(1589年)の秋から天正18年(1590年)正月
普請の内容
関東の支城群の普請・総構(大構)の築造。城下町と農村を城内に入れて、豊臣との全面対決を意識した。
江戸時代以降
戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。小田原旧城は現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な城郭であったが、大久保氏入部時代に規模を縮小させ、以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏が居城した。なお、天守閣は元禄地震により発生した火災で焼失した。一方北条氏は、一族の北条氏盛が河内国狭山(現在の大阪府大阪狭山市)1万余石を治める外様大名として明治に至っている。
近現代
- 明治3年(1870年)から明治5年(1872年)にかけ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられた。
- 1901年(明治34年)旧城内に小田原御用邸が設置された。
- 1909年(明治42年)唯一取り壊されなかった二の丸平櫓の修築工事が行われた。
- 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により、御用邸は大破し、その後廃止された。現存していた二の丸平櫓は倒壊、石垣も大部分が崩壊した。
- 1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて上記石垣が積み直されている。しかし、以前より低く積んでしまったため、偉容を損ねてしまっている。
- 1935年(昭和10年)震災で倒壊した二の丸平櫓が隅櫓として復興されたが、予算の関係で規模が2分の1となっている。
- 1950年(昭和25年)関東大震災で崩壊した天守台の整備を開始。その後、小田原城址は小田原城址公園として整備される。
- 1953年(昭和28年)天守台の石積工事が完成。その後、小田原市制の施行20周年記念事業で天守の復興が計画され、現存している旧天守模型を元にし、天守の再建工事が行われる[10]。天守が再建されるまでの間、天守台には観覧車が置かれていた[11][12]。
- 1960年(昭和35年)5月25日:天守の再建工事が完成[13]。ただし、再建した天守は鉄筋コンクリート構造によるもので、小田原市当局の要望により天守最上階に高欄が取り付けられ、天守の本来の姿を忠実に再現するものではない。天守からは太平洋や笠懸山の石垣山城がよく見える。
- 現在、小田原市では、城の中心部を江戸末期の姿に復元することを計画しており、天守の復興を手始めに1971年(昭和46年)には常盤木門(ときわぎもん)(外観復元)、1990年(平成2年)には住吉橋、1997年(平成9年)には銅門(あかがねもん)、2009年(平成21年)には馬出門を復元した。
- 2006年(平成18年)4月6日:日本100名城(23番)に選定された。
- 2013年(平成25年)2月:天守の木造復元を目指すNPO法人「みんなでお城をつくる会」が設立された[14]
- 2013年(平成25年)御用米曲輪跡で堀跡,北条氏時代の池、庭園跡が発見された[15]。
- 2015年(平成27年)7月から2016年(平成28年)3月まで耐震工事及び屋根瓦や壁の修復が行われた為に天守内へ入館できなくなっていた[16][17][18]。
- 2016年(平成28年)5月1日:耐震工事と修復が終了し、再公開された[19]。
- 2018年(平成30年)冬:約38年ぶりに堀の水を全部排水、清掃する。この模様は2018年4月22日放送のテレビ番組『緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦 〜日本三大“池”だ!小田原城&善光寺&日比谷公園〜』で放送された[20][21]。
遺構等
移築建造物
建造物としては、県内中井町(中井町史跡文化財)の民家に二の丸にあった幸田門と伝わる門が現存しているが、当時の部材が少しだけしか使われていないようであり、大きさの面でも違いがあることから確定には至っていない。また、市内の民家にも城門が移築現存しているが、改造が著しくこちらも移築城門と確定に至っていない。
中世城郭の遺構
中世小田原城の遺構としては、
などが、それぞれ現存する。また、遺跡調査では旧三の丸の幸田口門があった付近(小田原市栄町一丁目)で障子堀跡が確認されている。堀跡の1号堀は幅約20メートルの障子堀で、2号堀は幅約7メートル[22][23]。
- 小峰の大堀切、土塁、中堀
- 八幡山古郭 東郭
- 新三ノ丸土塁、
- 稲荷森の堀
- 高校脇ポケットパークの土塁、障子堀跡
- 大久保神社付近の残存土塁、
- お鐘の台曲輪付近に空堀および土塁
- 早川口付近に二重土塁
- 幸田口および蓮上院付近に土塁
史跡指定
1938年(昭和13年)8月8日、「小田原城跡」として国の史跡に指定された。1959年(昭和34年)5月29日一部地域を追加指定したが、1974年(昭和49年)と1975年(昭和50年)の両年度にわたって小田原市保存管理計画策定事業を行った結果、主として外郭部の未指定地において良好な遺構の遺存が確かめられたため、そのうち、後北条氏時代のものと思われる北東側の空堀と、江戸時代の絵図などで知られる「早川口」関連遺構と考えられる二重の土塁について1977年(昭和52年)5月4日、さらに当該部分の追加指定がなされた。その後もたびたび追加指定が行われている。[24]
史跡指定範囲は、小田原市城内・本町・栄町・浜町・城山・板橋・十字・谷津・南町におよんでいる。
立地
所在地
- 神奈川県小田原市城内6-1
交通
- ファイル:Shinkansen jrc.svg|18px|■ 東海道新幹線・File:JR JT line symbol.svg|18px|JT JR東海道線・File:Odakyu odawara logo.svg|18px|OH 小田急小田原線他小田原駅から徒歩約10分から15分
- 2006年(平成18年)、日本100名城(23番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
参考文献
- 小田原城天守閣編集・発行 『小田原城天守閣展示案内』 2016年10月31日
- 小田原市編集・発行『小田原市史 別編 城郭』平成7年10月15日
[続きを見る]
小田原城の口コミ情報
2024年08月14日 上杉弾正忠崇勝
小田原城
駅から徒歩で天守閣に行き登るには北門から行く方が近いです
東口に出て1階までエスカレーターで下り、右側に歩くとT字路になり、そこを右側に歩くと北口の案内があります
2024年07月15日 チエ式部少輔おチエ
小田原城
天守の展示は見応えあり、映像エリアや10問のクイズを解いて進むエリアもあり子連れも楽しい。展望室から石垣山城がよくわかり小田原から見た時の驚きの気持ちが共感できた。
2024年06月25日 やんちゃ幸村
小田原城
初めての小田原登城でした。北条五代の栄華が垣間見ることができました。保管米蔵の発掘調査を実施中でした。
2024年04月13日 弾正少弼のむげん
小峰御鐘ノ台大堀切東堀[小田原城 遺構・復元物]
念願叶い戦国北条氏総構の堀底ウォークを実現。幅と深さは確かに100名城に相応しい迫力があり、時間を忘れてしまう程であった。入口すぐ手前に市の無料駐車場があり、アクセス抜群。但し開放時間は10-15時限定のため、ご利用は計画的に。また、すぐそばにも三の丸外郭新堀土塁があり、山手を望めば距離はあるが石垣山城まで見渡せるので、皆様にオススメできる。
2024年04月04日 まり左京進
小田原城
丁度桜が満開でした。甲冑やお姫さま体験が500円ででき、城内を散策でき、写真も撮れますよ。雨天以外は散策O.K.ですので、是非、武士やお姫様気分で散策を。
2024年02月19日 蒼月☆大学頭
小田原城
小田原駅から小田原宿観光回遊バスうめまる号(土日祝通年運行)で、小田原城藤棚観光バス駐車場下車。途中で一夜城歴史公園を通るので先に一夜城へ。ボランティアガイドさんのガイド付きバスってなかなか。100名城スタンプは天守閣入り口入ったところに。お城印は場内見学ルート最後による感じなところて販売。チケット売場そばに100円が戻ってくるタイプのコインロッカーがあり、とても便利でした。
2023年12月09日 摂政丸
蓮上院土塁[小田原城 遺構・復元物]
土塁の途中に大きくえぐれた部分がありましたが、昭和20年8月13日の空襲時の着弾跡だそうです。
北条氏の築いた土塁を破壊したのが米軍という時代を超えたお話でした。
2023年11月27日 弾正少弼のむげん
小田原城
付近には駐車場がたくさんあり、駐車場に悩む事はありません。城巡りを始めて一年、ようやく念願叶い初登城。城郭としては徳川時代のものですが、天守閣の展示は北条が主で、今回は二代氏綱中心のイベント中でした。門や曲輪、水堀の配置に思わず頷けました。この後石垣山城に向い、双方の視点で思いを巡らせ、大変充実した登城でした。次回は総構を是非歩きたい!
2023年10月12日 高森内蔵頭権平
小田原城
天守閣をはじめ復元された馬出門、銅門、常盤木門が、小田原城の威容を醸し出す。美しい城だったと想像する。北条五代、大久保氏、稲葉氏に関する資料が分かりやすく展示され、時間を忘れて見入ってしまった。小田原城といえば、総構。城の北西に残る小峯御鐘ノ台大堀切を見たが、土塁と空堀の景色に圧倒された。余談になるが、「北条五代」を大河ドラマにの地元の熱意を支持したい。総構の写真を投稿したかったが、アナログ人間だけに、このソフトのやり方が分からず、断念。他の方の投稿写真で楽しんでください。
2023年09月24日 ゆみ兵庫頭
小田原城
天守閣内の展示、資料はとても分かりやすくて見応えがありました。戦国時代の変遷から、廃城になってから今日の復元までも丁寧に説明があり、地元の人の心意気を感じます。
随所にファミリーでも楽しめるような工夫がありました。
2023年08月13日 じゅんこ民部丞
小田原城
30年前眼の前で入るのを諦めたお城にやっとたどり着きました。中の展示物も良くって楽しめました。昔は天守閣跡に観覧車があったんやね(笑)流石の北条氏のお城素晴らしかったです。ぜひ、またこさせてください!
2023年05月09日 にゃにゃーにょ豊後守
三の丸二重櫓跡[小田原城 遺構・復元物]
幸田口三の丸土塁、手前だけ覗いて引き返しておらぬか?
堀跡の上に建つ小田原郵便局の裏側が三の丸北東隅にあたり、二重櫓が存在した場所なのじゃ。
説明板などは無いが城絵図に描かれていた石垣もあり、櫓台から振り返り目にする土塁もなかなかじゃぞい。
雰囲気を堪能しつつそのまま反対側の通りへ抜け、大手門跡を巡って登城するのも良いぞ。
この二重櫓当初はL字形の平櫓であったが、元禄地震で小田原城が大破した後に二重櫓となったようじゃ。
小田原城絵図「文久図」の記載では一階が四間✕五間、二階は三間✕四間(1間は約1.82m)高さ五丈六尺(約17m)で、他の二の丸二重櫓と同じ形じゃ。
なお三の丸は家老・重臣の武家屋敷地で、この櫓の場所は幕末期には山本内蔵邸の敷地内であった。
山本内蔵(くら)は御番頭中最高位で藩2番目の高禄(千四百五拾石)を与えられ、屋敷地は弐千八百七拾九坪の広さだったのじゃ。
2023年04月10日 今川党山県右兵衛尉ニャン八
小田原城
アクセスも良く、石垣、天守閣、堀切、全てが魅力的でした。100名城にも登録されているのでリア攻めする甲斐は充分にありますよ!
2023年02月25日 タタちゃん
小田原城
まだ寒いし曇ってたのに、城内は大勢の方が訪れて賑やかでした。城の外では風魔忍者に親しめる仕掛けやイベントも色々あって、子供も大人も楽しめます。
2023年02月13日 まりん兵部少輔
小田原城
休みの日に行ったので少し混んでいました。紅梅がとても綺麗でした。白梅はまだまだなのでこれから楽しめると思います。土日祭日は周遊バスが出ているので一夜城(石垣山城)へも行き易いです。
2022年11月27日 にゃにゃーにょ豊後守
三の丸外郭新堀土塁[小田原城 遺構・復元物]
【悲報、堀ぢゃない!】
この新堀土塁に来た方は多分この窪地を撮影すると思いますが、残念ながら城郭の遺構ではありませぬ。
正体はMRAアジアセンターという研修施設の建物地下室部分だったのでありまする。
意味ありげなロープ柵は転落防止の安全確保の為で史跡保護とは違うのでせうね。
2022年11月03日 相模守くさ王
小田原城
自転車で行きましたが、自転車でも回り道をすれば天守閣のある広場に行けました。
2022年11月02日 にゃにゃーにょ豊後守
花岳城[小田原城 周辺城郭]
花岳(かがく)城は"最初の小田原城"?
小田原駅西口(新幹線口)から徒歩10分程、坂を越えた辺りの谷津地区に現代風な建物の寺社「城源寺」が在り、同時に「花岳城跡」でもあるのじゃ。
参道脇に城源寺石碑があり、向かいの雑草楽庭なる広場に大森氏花岳城城址と彫られた石板があるぞい。
☆花岳山城源寺は鎌倉末期の創建 正中二(1325)年。江戸末期の小田原城絵図「文久図」にも総構えの内側に寺名が描かれておる。
地形的には丘陵地に囲まれた窪地で鎌倉〜室町期の館ならば珍しくない感じだが、実は関東大震災後に小田原の町の復興のため大正末期頃この地に"競馬場"が建設されたのじゃ。
丘をすり鉢状に削り底の部分をコースとし周囲の斜面を段々にして観客席を造ったようなので、城の遺構は残っておらぬであろう。
後に廃止となり住宅地になった現在も航空写真で見ると競馬場だった楕円形の地形がわかるぞい。
競馬場が出来る前は梅林が広がり、足柄平野や丹沢山麓に小田原の町と相模湾を見下ろせる絶好の立地だったそうなのじゃ。
★石碑には「大森信濃守頼顕がこの地に築いた花岳城…」とあり、駿河国乗光寺所蔵の大森系図に「頼顕 小田原城主始」と記載され、江戸幕府が編修した寛政重修諸家譜も「頼顕のとき関東御所家中より撰ばれ鎌倉侍所となり小田原城に住みし西の方の警護となる」と書かれておるそうじゃ。
しかし!駿河国駿東郡を領した大森氏は、応永二十四(1417)年の上杉禅秀の乱の戦功で関東公方足利持氏から大森頼春へ小田原周辺の領地を与えられ小田原城を築城したとされておるので、南北朝時代に活躍した頼顕はちょっと違うとの事…この辺の詳細は不明じゃ。
2022年10月19日 にゃにゃーにょ豊後守
尊徳記念館[小田原城 関連施設]
薪を背負って本を読む"金次郎像"で有名な「二宮尊徳」の生誕地なのじゃ。
記念館の展示室では、ジオラマ・人形・アニメなどで尊徳の一生を学べ(ボランティアの方の解説もあり)遺品や資料なども展示されておる。(9:00〜17:00、一般200円)
他にも図書室・会議室・宿泊施設などもあり生涯学習活動の場として利用出来るそうじゃ。
隣接して二宮尊徳生家があるぞい。
木造平屋建・寄棟造・茅葺屋根で、江戸時代中期の足柄平野中流農家の典型的な建物として県指定重要文化財になっておる。
小田急線栢山駅から徒歩15分程。
☆二宮尊徳(にのみやそんとく、1787〜1856)
江戸時代後期の荒廃した農村を復興した農政家。
栢山の農家に生まれ、少年の頃両親に先立たれたが努力し家を再興、小田原藩家老服部家の財政立て直しも成功させ、藩主大久保忠真に信頼され武士に取り立てられた。
分家の下野国桜町領(桜町陣屋)の再建を頼まれ茄子の味が違うことから飢饉を予測、晩年には幕臣となり日光神領などの再建半ばで生涯を閉じたのであった。
身長182cm・体重92kg・草鞋の大きさ28cm
2022年10月02日 にゃにゃーにょ豊後守
山角天神社[小田原城 寺社・史跡]
山角天神社は菅原道真公を祭祀する神社じゃ。
小田原城の南側の天神山を越えた住宅地の一角に鎮座しておる。
石段を登る途中には、小田原を愛した海軍大将・瓜生外吉の胸像が目に映るであろう。(日露戦争時の提督。晩年別邸を構えそこへ行く"瓜生坂"と呼ばれた坂が数十m西にある)
社殿の前にはやはり梅の木が植えられておるのう♪
拝殿を覗くと「菅原道真画像」(俗に怒り天神)が拝見出来るぞい。
これは北条氏康公が天神社の別当寺(神社を管理する寺)三光寺(明治初年廃寺)に奉納したと云われる什宝なのじゃ(市指定文化財)。
童謡「通りゃんせ」発祥の地らしいのう。
近所に海軍中将・秋山真之終焉の地もあるぞい。
2022年10月01日 にゃにゃーにょ豊後守
上杉龍若丸墓(上杉神社)[小田原城 寺社・史跡]
山王小学校校門の手前左側にとても小さな覆堂が鎮座しておるのじゃ。
覆堂内部には7基の五輪塔があり、中央の少し大きめな五輪が龍若丸の供養塔なのだそうじゃ(他は従臣)。
なんと!説明板に"平井城保存会"と書かれておるではないか。
Σ(◕ᗜ◕๑)グンマカラ スゴイノー
平井城落城時置き去りにされた龍若丸は、上杉家臣の裏切りにより北条氏に差し出された。
幼少ながら大敵である関東管領山内上杉憲政の嫡子故に、北条氏康は殺害を命じたのであった。享年11、または13。
2022年08月09日 MY中務少輔
小田原城
天守閣には貴重な写真🤳があります。最上階にある廻縁からは伊豆半島、真鶴半島、箱根などが見えます。ひとつひとつの門がすごく立派です。また近隣の施設は遊園地🎡🎢、NINJA館やSAMURAI 館があります。御城印等については、御城印は天守閣受付に、武将印は天守閣売店に(5枚セットでも売ってます)100名城スタンプは、出口付近にあります。(詳しくはスタッフさんに来てください💁♀️)行ってみてね〜🏃♂️
2022年08月02日 mitt
小田原城
念願の小田原城、暑い中にも、感動一杯。お堀に浮かんでいたアヒルの浮き輪にも癒されました。
2022年05月04日 千葉相模守早雲
小田原城
言わずと知れた北条5代の城。しかし近世城郭に改修されたのは、大久保・稲葉氏が城主になってから。北条5代の頃は、土の城でした。即ち秀吉の小田原攻めは全国最大の土の城vs関東初の近世城郭・石垣山城の戦いだったという見方も出来るそうです。
2022年5月3日「北條五代 歴史と文化の祝典」のシンポジウムでの講演より
1.小峰御鐘ノ台大堀切東堀。北条期の遺構。
2.小峰御鐘ノ台大堀切東堀。別アングル。
3.三の丸外郭新堀土塁。
4.小峰御鐘ノ台大堀切西堀。
5.再建天守。
2022年02月02日 茅小屋武蔵守太郎
小田原城
小田原城の総構ガイドブックを利用して丘陵地域を散策。のんびり歩いて4時間位かかりました。現地では主要部分を除いて標識や案内図が少ないのでガイドブックは必須と思います。私の場合、持参しても多少迷いました。中世の城跡として全国規模の堀の大きさ。城源寺縦堀や荻窪の虎口、稲荷森や大堀切等、思った以上の高さに圧倒されました。
2022年01月29日 レック治部卿久太郎
小田原城
広大な総構えを体感することができます。正規登城ルートに従って馬出門、銅門、常盤木門と歩を進めると天守が姿を現します。天守からは相模灘が見渡せ、東海道を厄する重要な城であったことがよくわかります
2021年12月06日 三河守ぱーる
小田原城
小田原駅から歩いて行きました。弁財天通りに突き当たった交差点に左を指した矢印と「正面入り口」の看板があります。が、逆の右に行くと北入り口に着けます。御用米曲輪の横を通り天守閣に行けるので電車できて時間がない、早く!という場合はこちらの方がおすすめです。
(おかげで御用米曲輪も初めて見ることが出来ました。)
2021年10月30日 龍馬太閤【備中の麒麟】
石橋山古戦場[小田原城 寺社・史跡]
神奈川県の小田原市にある【石橋山古戦場】♪実家へ里帰りした際行ってきました☆この場所は源頼朝が鎌倉幕府を拓く以前の話♪源頼朝VS大庭景親ら平家方との間での戦いになります☆石橋山の戦い♪源頼朝は3百騎に対して大庭景親ら平家は3千騎という10倍の兵力差の中戦はおこなわれました☆この戦は治承・寿永の乱の中の局地戦です☆平安時代の末期の地方には私有地である荘園が増え律令制度は徐々に崩壊していきました☆この崩壊により地方の豪族達は力を得た訳です☆荘園を開発した地方の豪族いわゆる武士達は東国の武蔵・相模に多くって小田原地方には曽我氏、大友氏、小早川氏、中村氏、河村氏、松田氏等の一族が勢力を持ちました☆西国の武士を従えた平家は保元の乱、平治の乱等の朝廷内部の争いを利用し勢力を広げ政権を握りました☆これに対し東国武士に信望のあった源家は以仁王による平氏追討の令旨を掲げて源頼朝が伊豆で挙兵☆伊豆・相模の武将の援軍を得て3百余騎を従えた源頼朝は鎌倉に向かう途中の石橋山で前方を大庭景親の3千余騎に後方を伊東祐親の3百騎に挟まれて大苦戦…源頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠が敵将の俣野景久と対戦したのを発端として戦闘に入るも10倍を越える敵の軍勢に源頼朝は破れ箱根山中に逃れた後に真鶴から海路で安房国(現千葉県) へ向かいました…そして安房国で力を蓄え再挙する事になりました♪此れにより源家と平家間では更なる軍事的な緊張が高まっていきました☆源家VS平家の戦いは以降激化☆ただしこの戦いを契機に平家に圧迫されていた三浦半島の三浦義明、和田義盛、千葉常胤、上総広常らの豪族は源頼朝に呼応☆三浦義明は好きな武士の1人ですが義明の最期がまた涙…。。「源氏累代の家人として、その再興に立ち会うことができた。これ程の喜びはない。武衛(頼朝)のために我が老命を奉げて子孫の勲功を募らん。皆は彼の生死を確かめよ」と言って1人、城に残り討ち死にしてます☆これが衣笠城で起こった衣笠城合戦です☆栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いは本州、九州の玄関口、壇ノ浦の戦いへと繋がっていきます☆そして後に鎌倉幕府を築き上げていきます☆今回は石橋山の戦いのみでお送りしました☆あともう1つ♪箱根外輪山の相模湾に面したこの山腹の一帯には江戸時代初期の寛永年間頃の江戸城の修築に使用された石垣用の『石切丁場』も残ります♪
2021年06月26日
いぬまき[小田原城 その他]
小田原城内にあるイヌマキで、小田原市の天然記念物に指定されてます。
2021年06月03日 陸奥守新九郎
小田原城
天守閣そびえる江戸時代の小田原城と戦国時代の小田原城とは、同じ名前・同じ場所でも全く違うお城です。
ぜひ、八幡山に登って、戦国時代の小田原城も散策してみてください。
市役所の文化財課や観光課で、総構散策マップを入手できます。
2021年05月09日 ジェラルド右衛門督
小田原城
小田原城は何回きても私は飽きません。天守閣の中の展示は分かりやすい説明で見ごたえがあります。天守閣の最上階からの眺めは最高です。最近、武将印が各地で販売されていることを知って、天守閣1階のショップで北条五代の武将印を買えて大満足でした。
2021年04月22日
小田原城跡のビャクシン[小田原城 その他]
同じく市指定天然記念物のイヌマキから近く、石垣で囲った盛土の上に立っています。市内で最大のビャクシンです。幹はだいぶ修復の跡があり痛々しくもありますが、芸術のオブジェの様な雰囲気を持つ面白い木です。
●神奈川県小田原市
●小田原市指定天然記念物
2021年04月04日
小田原橋親柱[小田原城 遺構・復元物]
「小田原橋」は、東京都中央区築地6丁目に所在したコンクリート製のアーチ橋です。昭和4年(1929)から築地川の東支川と南支川が交差する地点に架設されていました。橋の名称は、橋の東詰一帯が、江戸時代から昭和7年(1932)まで「南小田原町」、同41年まで「小田原町」と呼ばれたことに由来しています。
2021年04月04日
像のうめこのレリーフ[小田原城 碑・説明板]
レリーフは1956(昭和31)年に西村楽天氏から寄贈されたもの。ゾウ舎は3月14日から解体が始まり、整地後に小田原城本丸の説明版の設置とともに下の石張り部分にレリーフを埋め込んだ。
2021年03月30日 snowsurfer
小田原城
城郭と桜。
秀吉に滅ぼされた城の本丸で、猿を檻に入れて飼っているのが個人的にツボ。430年を経て、北条五代のリベンジ。
2020年12月14日 【城郭道】たっきー
銅門[小田原城 遺構・復元物]
銅門(あかがねもん)は近世小田原城の二の丸表門にあたります。この門を突破すると西に本丸常盤木門、北に二の丸御殿がありました。
名前の由来は扉などに銅金物が用いられていたことからです。
復元は1997年に発掘調査成果や古写真、絵図などを基にされました。
2020年10月19日 Maru姫22
小田原城
天守ばかり気にしてしまいがちですが、こども遊園地のほうに降りて行くと関東大震災の時崩れた石垣がゴロゴロしてます。
2020年10月12日 拓之助中務少輔
本丸石垣跡[小田原城 遺構・復元物]
本丸の石垣跡です。
関東大震災時に崩れてしまい、石垣全体図を見ることはできませんが、名護屋城や石垣山城のように崩れた石垣があちこちにあり廃城感や矢穴などあり石垣ファンにはたまりません!
崩れた石垣の矢穴に注目です!
2020年09月25日 ばらく~だ
小田原城
100名城スタンプ、御城印ともに天守にあります。スタンプは入館受付カウンターに、御城印は、出口付近で販売してますよ。
2020年09月24日 坂の上の蜘蛛
小田原城
復元天守ですが、2年くらい前に改修工事したらしく、きれいにリニューアルされています。
天守最上階から眺める相模湾は絶景で、感動しました。
2020年09月05日 笑門来猫
小峯御鐘ノ台大堀切東堀[小田原城 遺構・復元物]
箱根山から相模湾に伸びる台地の突端に築かれた小田原城。そのため主郭より北西側の標高が高く、攻め込まれやすい。それを断ち切るために巨大な堀切を作り、防御を固めています。
2020年08月20日 相模守アガメ
小田原城
現在甲冑着付け体験やNinja館はコロナの影響にて当面おやすみ中。甲冑つけて小田原城散策が楽しいのですが、仕方のないことです。天守閣、Samurai館は運営しています。
2020年08月15日 えるパパ左京大夫
小田原城
総構えの広さは半端なくちょっと想像を越えています。町のあちらこちらに、お堀や石垣の遺構が残っています。駆け足なので秀吉の一夜城まで行けなくて残念です。
2020年01月19日 伊達大蔵丞愛
小田原城
二の丸の入口、銅門(平成9年復元)。本日は内部特別公開日で、上の櫓の中に入ることができました。3/31までの土日祝日限定公開とのことです。中には小田原評定中の面々が…(人形が置いてあります笑)
2020年01月12日 えぞにゃん▲小机衆
馬出門[小田原城 遺構・復元物]
石垣は何度も積み直しされており、現在の門は平成21年に復元されている。
復元の際、早川石丁場に放置されていた石を小田原城が貰い受け一部は早川で取れた石を使用している。
江戸城にも使用されている石だが、表面に気泡のような紋様が見られる。
角の石との質感の違いが面白い。
2020年01月12日 えぞにゃん▲小机衆
北篠稲荷神社[小田原城 寺社・史跡]
元々は小田原城内にあった稲荷神社を、戦国期の山王口であった場所に移設したといわれる。
三代氏康が詠んだ歌によって命を絶たれたと恨み枕元にたった狐。
翌年氏康が亡くなったため、四代氏政が狐の霊を鎮めるために盛大に供養し稲荷神社を建てたのが始まりとされている。
小田原駅から徒歩20分程。
2020年01月12日 えぞにゃん▲小机衆
小田原城
三の丸の杉浦兵太夫邸跡の発見現場。
現在の横浜地方検察小田原支部の敷地内です。
写真に写っているのは江戸期の遺構と、戦時中の防空壕跡になります。
写真ではわかりづらいですが、オレンジ色っぽい地層は元禄関東地震の際の火事によるもので、更に掘っていくと別の焦土層が有りそうだというところまでわかっているとのこと。
令和2年1月12日の遺跡見学会にて
2019年11月25日 越中守松宙右衛門
小田原城
三の丸外郭(写真の場所)への出入りは10時〜15時までです。
写真はありませんが、その奥にはもっと気合いの入ったゲートで閉鎖されてます。
2019年09月02日 つぼすけ
北条氏政・氏照の墓所[小田原城 寺社・史跡]
おしゃれ横丁という、なかなかなネーミングのプチ繁華街に鎮座しています。
何の偶然か、仙石秀久ばりに鈴がたくさん。
自害された石も祀られています。南無
2019年07月17日 まさある甲斐守⛄
小峯御鐘ノ台大堀切西堀[小田原城 遺構・復元物]
少し高台に有り、案内板も有ります。
2019年07月17日 まさある甲斐守⛄
小峯御鐘ノ台大堀切東堀[小田原城 遺構・復元物]
城山公園内、散策路に成っています。
2019年07月17日 まさある甲斐守⛄
小峯御鐘ノ台大堀切[小田原城 遺構・復元物]
この位置は中堀になり、現在は道路に成っていました。
2019年07月17日 刑部卿清老頭天和
天守閣1階[小田原城 スタンプ]
スタンプだけなら無料で押せます
2019年06月03日 清円院上野介華姫
小田原城
野面、打ち込み、切り込み様々な形で積まれた石垣たちにあえます。天守は復興ですが、美しいぃ〜
2019年05月21日 龍馬太閤【備中の麒麟】
小田原城
総構☆小峯御鐘ノ台・大堀切☆小田原城の北に配置☆深い大堀切は敵兵の行く手を阻む☆
2019年05月17日 龍馬太閤【備中の麒麟】
小田原城
総構・北側の前線を守る稲荷森☆深い堀は小田原城を守る☆良好に残る遺構の総構☆東に小峰御鐘ノ台の大堀切☆西に山ノ神堀切と全長9キロにわたる☆
2019年05月16日 龍馬太閤【備中の麒麟】
小田原城
小田原城の北西側・山ノ神堀切☆谷津丘陵上に交通を制約する為に設けられる☆高低差を持って小田原城の総構堀と連動☆
2019年04月26日 大納言Z周防守369
銅門[小田原城 遺構・復元物]
平成9年に復元された桝形門
2019年04月26日 大納言Z周防守369
八幡山古郭 東曲輪[小田原城 遺構・復元物]
当時の小田原城の主郭があったと推定される場所。
2018年10月13日 織田上総介晃司
小田原城
南入口近くの駐車場に停める。
豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏政・氏直親子は籠城戦を決意。
上杉謙信や武田信玄を撃退した経験からである。
ただ氏政の誤算は秀吉軍の性格を把握できてなかった事にある。
農繁期には国に帰らなければならない上杉・武田軍に比べずっと駐留できる秀吉軍は持久戦に持ち込んだのである。
「対の城」石垣山城を築くのも北条の戦意を損なうものである。
童謡「おさるの駕籠や」の
♪小田原提灯ぶら下げて
を子どもの頃、さるのきんたピーだと思ってました。
2018年09月24日 GAGA関白百万石
小田原城
小田原城は、現在線路で曲輪が分断されています。
天守内には天守の構造や、高さ比べの展示がされています。
北条氏の治世について知ることのできるコーナーもあり、大変楽しむことが出来ます。
その他に、甲冑体験もすることが出来ます。
2018年06月03日 玄蕃助がげちゃんⅡ号T型
小田原城
バイクで小田原城に行く場合、小田原駅東口近くの”おだわら市民交流センター”にバイク専用の有料駐輪場があり、1日(24時間)200円です。入口は、有料駐車場出入り口の南側で、看板があるので、判りやすいと思います。但し、駐輪場から出る時にすぐそばの交差点は、右折禁止になっているので注意して下さい。時々、警察官が、右折禁止違反(?)の取り締まりをしているみたいです。
2017年11月18日 てっちゃんだよ
小田原城
いつも素通りしていた、小田原城。。
なぜか?無性に見たくなり、車での登城
2017年07月02日 笑門来猫
小田原城
駅から向かう場合、お堀にかかる2つ目の馬出門土橋を渡ります。1つ目の学橋が絵になるので引き寄せられてしまいますが、騙されてはダメです(^^; 馬出門から入りましょう。
2017年07月02日 笑門来猫
小田原城
小田原城は東側(お堀端通り側)から入るのがオススメです。先に八幡山古郭へ行くと、うっかり北側から入ってしまう可能性ありますが、それ、かなりもったいないです(>_<)
国道1号線がクランクしているところに大手門跡があります。
2017年06月19日 木下近江守湖一郎
小田原城
山側の3つの遺構を巡りました。天下人・秀吉と関東の覇者・北条氏の衝突の舞台を感じ、感動しました。
1つ目は、小峯御鐘ノ台大堀切。名前の通り大きな堀切が残ります。これは、北条氏康が築いたそうです。東堀は、土塁から堀切の深さを感じ、堀底から土塁の高さを感じれます。また、横矢掛りも見ながら、堀底を通り抜けると、眺望が開け、相模湾と丘陵地が見え、周囲の地形を感じることもできます。
2つ目は、稲荷森。小峯御鐘ノ台大堀切から畑の中の道を10分ぐらい歩くと、道路脇に入口があります。整備された道を歩くと、綺麗に整備された空堀が現れます。
なお、畑の土壌から関東ローム層の赤土を見ることができました。
3つ目は、城下張出。こちらも大きな堀と土塁の高さ、そして、横矢掛りを地形として実感できます。ブラタモリでも紹介された場所です。
稲荷森と城下張出は駐車場、スペースがないので、注意してください。大堀切は駐車スペースがありました。
大堀切と稲荷森は、路面が土です。少なくともスニーカーで訪れましょう。
遺構見学の後は、小田原丼と小田原スイーツでお腹を満たしましょう。いろいろ種類があるみたいです。
2016年08月27日 天昇龍修理亮智くま
小田原城
今日と明日に小田原城祉公園二の丸広場で風魔まつりが行われます。そのため小田原城内の展示を見るのにも時間がかかります。城内の展示のみ見たい場合は、日を改めた方がよろしいと思います。ちなみに風魔まつりでは手裏剣や乗馬(有料)が体験できるそうです。
2016年08月06日 まるき〜陸中守
小田原城
予定通りスマホで小田原市のHPから小田原城の
割引きを提示すれば天守には1割引で入れました。
天守内は資料館で順路に従い見学して行きます
暑い日でも安心のエアコン完備で快適な空間に
リニューアルされていますね〜、中もキレイ!
二階の一部を除き写真撮影も可能です
念のためどこがNGなのか警備員さんに尋ねて下さい
最上階からの眺めは海が見えて爽快!
遠くに見えるのは伊豆半島かな…
上に上がれば下に降りるでしょう?
降りてくると な、なんと!うまい具合にお土産コーナー
という天守内の枡形に誘導されてしまいます。
恐ろしくも巧妙な北条の仕掛けに気づく間もなく手には
たくさんのお土産を持ってレジに並んでいる事でしょう。
小田原城天守は8月は土、日、祝日と15日〜19日までの
平日は午前9時〜午後7時まで開館延長しているようです。
(入場は6時30分まで)
2016年07月15日 まるき〜陸中守
小田原城
小田原市、小田原城のHPで天守閣・小田原城歴史見聞館特別割引券というものがあり、それをを提示すると1割ほど安く入場できるそうです。
印刷したものを持って行ってもスマホに表示したものを入城の際に見せてもOK!←電話で確認済。
こういうものはカッコなんて気にせずにどんどん活用しないとね。
小田原市公式サイト→観光→ご利用案内→インターネット割引券
(=゚ω゚)ノもし行ったら使ってみようと思いまーす。
って行ってないんかい!(爆
2016年05月03日 テルカゲ
小田原城
本日、北条五代祭り
小田原駅構内から甲冑を纏った方々がお出迎え
12時30分から武者行列が小田原城を出陣します
2016年02月06日 鎌倉五山勘解由長官建長僧堂
小田原城
2016/5/1リニューアルオープンどす
2015年10月17日
小田原城
主な総構遺構です。南西から時計回りに列記しました。
☆早川口遺構(南町4-4付近)土塁が残ります。南端に虎口らしい跡あり。
☆三の丸外郭新堀土塁(城山4丁目付近)相洋高校隣。眺めが素晴らしいです。開放時間は10時〜15時。
☆小峯御鐘ノ台大堀切(城山3-30付近)東・中・西堀で構成され、堀底を歩けるのは東堀。中堀は道路になっています。西堀南側は埋め立てられていますが、北側の畑には堀跡が残ります。
☆稲荷森の堀(緑4丁目付近)御鐘ノ台大堀切から尾根沿いの道なりに進むと案内板があります。総構の堀が良好に残ります。
☆山ノ神堀切(緑4丁目付近)稲荷森から道なりに進んだ先。尾根を分断した堀で、後北条氏の時期の虎口があったと考えられています。
☆城下張出(谷津227付近)北へ馬出状に突き出た遺構。横矢掛けの為と考えられます。
☆井細田口(国道255広小路交差点付近)虎口の一つ。道の折れ曲りから横矢の効果があったとされます。
☆蓮上院土塁(浜町2-1付近)太平洋戦争時の着弾跡が残る約100mの土塁。小田原合戦時に徳川家康が対陣。
以上、小田原市史城郭編を参考させていただきました。
2015年08月15日 まー刑部卿
小田原城
小田原城天守は先人の言われた通り来年4月中まで入れません。百名城や各スタンプは歴史見聞館へ移動してます。
2015年05月01日 るーみん越前守
小田原城
天守閣は、耐震改修工事及び展示リニューアルのため、平成27年7月1日〜平成28年4月30日まで休館します(予定)
小田原城歴史見聞館、遊園地など城址公園は、その期間中も通常通り営業します。
2015年02月17日 五七桐みみなが内蔵頭
小田原城
北條五代祭 行列参加できます。異国の方多し。
2015年01月12日 GINTOKI
小田原城
小田原城にはバス用の駐車場しかない為、車の場合は周辺の駐車場を利用する!しか無いです!
2014年08月20日 タコ武蔵守イカ
小田原城
本日2014/8/20登城したところ、小田原城 天守閣内 中4Fにて屋内プロジェクションマッピングを実施中でした。2014/9/29まで実施中とのことです。
屋内なのでかなり地味でしたが、北条5代の各当主の名台詞が印象に残るなかなか味のある展示でした。
2014年06月10日 奥月
小田原城
小田原陸上競技場内には後北条氏時代の祭祀施設の遺構があります。
2014年06月01日 奥月
小田原城
天守や門に目がいってしまいますが、時間があれば城址公園内にある郷土資料館もオススメ。城内で発掘された資料が展示されている事もあります。入場は無料。
2014年05月18日 奥月
小田原城
常盤木門で甲冑と打掛のレンタルをしています。受付は15時30分まで。
2014年05月03日 五七桐みみなが内蔵頭
小田原城
小田原城と家康殿でごさる。もののふ達がウロウロしていたで候
2014年04月14日 すかんぴん左馬助
小田原城
3月8日の御用米曲輪の発掘調査報告会に行ってきました。
御用邸期、江戸期、戦国期の三つの時期がありますが今回は最下層の戦国期です。
数棟の大型の建物群、石組水路、暗渠水路、道路状遺構、畝のある堀、井戸、庭園などが検出されたそうです。
庭には産地の違う切り石が敷かれ、円形の泉のような?ものと特別な井戸のようなものも確認されています。
池の護岸は石塔の足部分のみ(新品と思われる)が加工されて縁を形どっていたそうです。
今回をひと区切りに埋め戻しされて、平成30年を目処に史跡公園になるそうですよ〜(^○^)
2013年09月08日 宮内卿ピロシキ
小田原城
商店街を歩くよりも、駅を出てからすぐ右側を行った方が近いですよ。
2012年12月09日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
小田原城
ライトアップもいいですが朝焼けの小田原城も良いので日が昇る時に見て下さい(^_^)b
2012年08月09日 はせちゃん弾正忠
小田原城
8/18 小田原城御用米曲輪跡にて発掘調査現地説明会が実施されますよぉ
2012年06月03日 ||| & |||
小田原城
小田原城あじさい花菖蒲まつり
6/9~7/1まで
2012年04月30日 三日左馬助落人
小田原城
周辺には豊富です。天守周辺もいいですが、できれば城内でレンタサイクルを借りることをお勧めします。
氏政・氏照墓→早雲銅像→八幡山古廓→小峰の大堀切…といった風に、北條氏時代をしのぶ遺構を巡ると、きっと「戦国最大級」を堪能できます。
ちなみに5/3は「北條五代祭り」で賑やかみたいです
2010年10月07日 tomm加賀守
小田原城
出来れば八幡山などの大堀切や石垣山城とセットで見学したいですね
二之丸観光案内所には銅門や石垣山城のパンフレットがあります。
また小田原市HPにて1割引券がダウンロードできます
が、昨年末の話ですが「西さがみ回遊スタンプラリー」というパンフレット付属のクーポンで天守閣400円→320円・天守閣&見聞館共通券600円→500円でした
2010年08月14日 伊予守でいすけ
小田原城
小田原城攻略!もち、見学しましたよ
2010年07月21日 徳川内大臣源朝臣康武
小田原城
[武将像]北条早雲像
小田原駅前に鎮座。
小田原城の周辺スポット情報
大外郭堀(遺構・復元物)
小峯御鐘ノ台大堀切(遺構・復元物)
三の丸外郭新堀土塁(遺構・復元物)
小峰御鐘ノ台大堀切東堀(遺構・復元物)
総構山ノ神堀切(遺構・復元物)
八幡山古郭 東曲輪(遺構・復元物)
早川口二重戸張(遺構・復元物)
蓮上院土塁(遺構・復元物)
三の丸土塁(遺構・復元物)
三味線堀(遺構・復元物)
清閑亭土塁(遺構・復元物)
城下張出(遺構・復元物)
大手門石垣(一部)(遺構・復元物)
銅門(遺構・復元物)
天守閣(遺構・復元物)
御用米曲輪北西土塁
(遺構・復元物)
お鐘ノ台(遺構・復元物)
常盤木門(遺構・復元物)
馬出門(遺構・復元物)
本丸東堀跡(遺構・復元物)
八幡山古郭跡(遺構・復元物)
小峯曲輪北堀(遺構・復元物)
小峯御鐘ノ台大堀切東堀(遺構・復元物)
小峯御鐘ノ台大堀切西堀(遺構・復元物)
御用米曲輪(遺構・復元物)
弁財天曲輪(遺構・復元物)
稲荷森(遺構・復元物)
滄浪閣土塁(遺構・復元物)
毒蝮平北堀(遺構・復元物)
南曲輪石垣(遺構・復元物)
二の丸隅櫓(遺構・復元物)
御前曲輪敷石遺構(遺構・復元物)
本丸石垣跡(遺構・復元物)
本丸堀跡(遺構・復元物)
住吉橋(遺構・復元物)
鉄門(遺構・復元物)
総構堀跡(遺構・復元物)
羽柴秀次寄進梵鐘(遺構・復元物)
小田原橋親柱(遺構・復元物)
箱根口門跡(遺構・復元物)
本丸御殿跡(遺構・復元物)
馬屋曲輪(遺構・復元物)
御茶壷曲輪(遺構・復元物)
南曲輪西二重櫓跡(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
箱根口三の丸土塁(遺構・復元物)
馬屋曲輪二重櫓跡(遺構・復元物)
切石敷井戸跡(遺構・復元物)
雁木(遺構・復元物)
香林寺山西土塁(遺構・復元物)
小峯御鐘ノ台総構(遺構・復元物)
百姓曲輪(遺構・復元物)
二の丸二重櫓跡(遺構・復元物)
蹴上坂土塁(遺構・復元物)
二の丸東堀(遺構・復元物)
総構(遺構・復元物)
三の丸二重櫓跡(遺構・復元物)
八幡山古郭 本曲輪(遺構・復元物)
鍛冶曲輪(碑・説明板)
小田原城案内板(碑・説明板)
小峰御鐘ノ台大堀切東堀(碑・説明板)
小峰御鐘ノ台大堀切東堀(碑・説明板)
小峰御鐘ノ台大堀切中堀(碑・説明板)
小峰御鐘ノ台大堀切西堀(碑・説明板)
鉄砲矢場(碑・説明板)
小田原城江戸口見附跡(碑・説明板)
小田原城址碑(碑・説明板)
小田原城と小田原用水(碑・説明板)
三の丸元蔵跡・元蔵堀の発掘調査(碑・説明板)
元蔵(碑・説明板)
金箆小路(碑・説明板)
早川口(碑・説明板)
小田原城板橋見附跡(碑・説明板)
南曲輪西南二重櫓(碑・説明板)
三の丸外郭跡説明板(碑・説明板)
屏風岩説明板(碑・説明板)
八幡曲輪(碑・説明板)
水之尾口櫓台(碑・説明板)
二の丸御殿(碑・説明板)
二の丸跡(碑・説明板)
本丸東掘跡(碑・説明板)
本丸跡(碑・説明板)
像のうめこのレリーフ(碑・説明板)
小田原城址(碑・説明板)
案内図(碑・説明板)
新堀(碑・説明板)
欄干橋町(碑・説明板)
天守裏(碑・説明板)
安斎小路(碑・説明板)
御用所(碑・説明板)
日向屋敷(碑・説明板)
一里塚(碑・説明板)
御花畑(おはなばた)(碑・説明板)
御前曲輪(碑・説明板)
岩槻台(碑・説明板)
毒榎平(碑・説明板)
富士山砦(周辺城郭)
多古城(周辺城郭)
花岳城(周辺城郭)
小田原古城(周辺城郭)
片岡本陣(周辺城郭)
北条氏政・氏照の墓所(寺社・史跡)
報徳二宮神社(寺社・史跡)
居神神社(寺社・史跡)
北篠稲荷神社(寺社・史跡)
小田原用水取入口(寺社・史跡)
北条幻庵居館(寺社・史跡)
大久寺(寺社・史跡)
大久保神社(寺社・史跡)
蓮池弁財天(寺社・史跡)
水之尾毘沙門天(寺社・史跡)
石橋山古戦場(寺社・史跡)
上杉龍若丸墓(上杉神社)(寺社・史跡)
佐奈田霊社(寺社・史跡)
香林寺(寺社・史跡)
北条氏康夫人墓(寺社・史跡)
海蔵寺(寺社・史跡)
堀秀政墓(寺社・史跡)
大久保一族の墓所(寺社・史跡)
伝肇寺(寺社・史跡)
山角天神社(寺社・史跡)
報身寺(寺社・史跡)
松原神社(寺社・史跡)
蓮船寺(寺社・史跡)
新田義貞の首塚(寺社・史跡)
久野坂下窪遺跡(寺社・史跡)
久野諏訪ノ原丘陵の縄文遺跡(寺社・史跡)
ねじり畑(佐奈田与一義忠討死の地)(寺社・史跡)
天守入城券売り場(御城印)
天守閣1階(スタンプ)
トイレ(トイレ)
多機能トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
本丸広場トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
藤棚臨時駐車場(駐車場)
本町臨時駐車場(駐車場)
小田原市郷土文化館(関連施設)
郷土資料館(関連施設)
小田原城歴史見聞館(関連施設)
小田原城址公園(関連施設)
二の丸広場(関連施設)
城山公園(関連施設)
尊徳記念館(関連施設)
小田原宿なりわい交流館(関連施設)
小田原三の丸ホール(関連施設)
北条早雲公像(その他)
喫煙所(その他)
小田原城跡のビャクシン(その他)
いぬまき(その他)
御感の花(その他)
井細田口(その他)
谷津口(その他)
小田原城ガンダムマンホール(その他)
本丸の巨松(その他)
渋取川(その他)
浜手口(その他)