川越城(かわごえじょう)
川越城の基本情報
通称・別名
- 初雁城、霧隠城
所在地
- 埼玉県川越市郭町2他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 連郭式平山城
天守構造
- -
築城主
- 太田道真、太田道灌
築城年
- 長禄元年(1457)
主な改修者
- 松平(長沢)信綱
主な城主
- 扇谷上杉氏、後北条氏、酒井氏、堀田氏、長沢松平氏
廃城年
- 明治3年(1870)頃
遺構
- 堀、土塁、御殿、移築物3棟
指定文化財
- 県有形文化財(川越城本丸御殿)、県史跡
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
河越館(埼玉県川越市)[3.7km]
砂久保陣場(埼玉県川越市)[4.5km]
大堀山城(埼玉県川越市)[6.4km]
中釘陣屋(埼玉県さいたま市)[6.5km]
永田陣屋(埼玉県さいたま市)[7.7km]
三ツ木城(埼玉県桶川市)[7.9km]
城山砦(埼玉県狭山市)[8.5km]
石戸城(埼玉県北本市)[9.5km]
難波田城(埼玉県富士見市)[10.1km]
大成館(埼玉県さいたま市)[11.0km]
川越城の解説文
[引用元:Wikipedia「川越城」の項目]
川越城(かわごえじょう)は、埼玉県川越市にあった日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。
概要
武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さであった。大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっているが、高校の南に、小高い丘の「富士見櫓」跡(埼玉県指定史跡)が残り、頂に御嶽神社と浅間神社が建っている。川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりをしていた。富士見櫓は三層であった。[1]。また、帯郭門、北門、高麗門、土塀、本丸御殿玄関の旧状の木造復元や土塁の復元計画がある。
中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。
別名
- 初雁城
- 城内の三芳野神社に「初雁の杉」があった。毎年同じ時期に北から初雁が飛来し杉の真上で三声鳴き三度回って南に飛び去った、という故事による。太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名したとされる。3代目の初雁の杉が神社の社殿裏にある。
- 霧隠城
- 城内に「霧吹きの井戸」という井戸があり、普段は蓋をしておくが危急の際は蓋を開くと霧が城を隠したという伝承による。井戸は移築され、現在は市立博物館の前庭にある。
歴史・沿革
室町時代
室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、代を重ねるごとに独立志向を強める鎌倉公方足利氏と、その補佐役でありながら、中央政権である室町幕府を支持する関東管領上杉氏との内部対立が生じていた。
そしてついに1454年(享徳3年)、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事をきっかけとして、関東を戦乱の世とした享徳の乱が勃発した。
鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。
武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。
河越城は武蔵野台地の北端の丘陵に位置し、東方の低地を睨んだ自然の要害に位置している、比高5~6mの平山城であった。城の北に赤間川(現新河岸川)が流れ、さらに北を入間川・越辺川などが流れて外堀の役割を果たす。城の南は遊女川(よながわ)の湿地帯であった。
道灌の築城方法は、「道灌がかり」という「連郭式縄張り」で、子城、中城、外城など独立した曲輪を連ね、周囲に高さ二間ほどの土塁を築く。そして曲輪の間には堀を巡らし、飛橋と呼ばれる橋で連結し、連結した入口には土橋、引き橋、食い違い虎口や横矢がかりなどの仕掛けを作ることで敵が侵入しても各曲輪にて防ぐ構造であった。
河越城の城郭はおよそ5万坪、8門8櫓を構えた。新編武蔵風土記稿によると本丸南西の20mの高台に富士見櫓を築いたのも道灌である。
なお、築城に際しては、太田道真主導説(北条五代記や永享記など)と太田道灌主導説(霊岩夜話や太田家記など)の2説ある。築城後、城の西に太田道真屋敷が、北西に太田道灌屋敷が築かれた。また、三芳野神社が祀られた天神郭も造られた。
太田道灌は享徳の乱の収束に尽力し、1482年(文明14年)に室町幕府と古河公方は和睦したが、名声を高めた道灌を恐れた主君扇谷上杉定正(持朝の子)は、道灌を暗殺してしまう。
これにより太田家は扇谷家と離反、上杉氏内部も山内家と扇谷家の内部分裂と抗争を繰り返し、その内部抗争に古河公方が介入する、泥沼の長享の乱となる。
1497年(明応6年)には、扇谷上杉氏の当主・上杉朝良が居城する河越城に対抗して、山内上杉氏当主・上杉顕定が入間川対岸の旧河越館に「上戸陣」を構築し、古河公方の足利政氏を招いて、7年間も睨みあった。
- 上杉時代の城主:(扇谷)上杉持朝、上杉政真、上杉定正、上杉朝良、上杉朝興、上杉朝定
戦国時代
長享の乱の頃、駿河国今川氏に仕えていた北条早雲は、関東の争乱に乗じて、瞬く間に伊豆国から相模国を制圧した。
早雲から1518年に家督を譲り受けた嫡男北条氏綱は、武蔵国征圧のため、1524年(大永4年)に扇谷上杉朝興の江戸城を収め落とし、翌年には扇谷方の岩槻城を占領して、武蔵の内陸に食い込んだ。
上杉朝興は河越に逃れて形勢を建て直し、蕨城や岩槻城で攻防を繰り広げた(以後、河越夜戦までを総じて河越城の戦いという)。
1537年(天文6年)に上杉朝興が死んで上杉朝定が若くして家督を継ぐと、若年の上杉朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱はそれに乗じて一気に攻勢をかけ、河越城を奪取。武蔵国支配を確定した。
上杉朝定は北方の松山城へのがれ、河越城は以降、北条早雲を祖とする後北条氏の武蔵国支配の拠点となり、そこに「河越衆」と呼ばれる大道寺氏らの精鋭部隊が置かれた。
1541年(天文10年)に北条氏綱が死に、氏康が継ぐと、河越城奪回をはかる扇谷上杉朝定は、それまで敵対してきた古河公方(足利晴氏)・山内上杉氏(上杉憲政)と連合を組み、1545年(天文14年)10月から8万の大軍で河越城を包囲し、さらに今川義元、武田信玄と連携し、駿河と武蔵でほぼ同時に後北条氏に対する軍事行動に出ることで圧迫を強めた(第2次河東一乱)。
この攻勢に「地黄八幡」で有名な北条綱成は半年に及ぶ篭城で抵抗し、1546年(天文15年)4月、今川氏との戦いを終えて救援にかけつけていた北条氏康との夜襲で連合軍を撃退した。これが日本三大夜戦の一つ「河越夜戦」である。その後、後北条家は北武蔵の支配を固めていった。
そして戦勝した後北条家は武蔵国の支配を完成させた。
その一方、扇谷上杉氏は当主上杉朝定討死、重臣難波田憲重死亡により滅亡、古河公方は古河に逃走、山内上杉氏は武蔵を捨て上野国へ逃亡し、長尾景虎に保護された。後に景虎は上杉家と関東管領を継承して上杉謙信となり、後北条領への侵攻を繰り返す事になる。
後北条氏は河越城を手に入れると大幅な修繕を実施、特に大道寺政繁は三の丸と八幡郭の拡張を行い、西方面への防備が強化された。
- 後北条時代の城主:北条氏綱、北条氏康、北条氏政、城代:北条綱成、大道寺盛昌、大道寺重興、大道寺政繁、大道寺直繁、大道寺直英
安土桃山時代
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、河越城を守っていた後北条氏の宿老大道寺政繁が、上野国まで出陣して迎え撃つが降伏。前田利家の軍勢が河越城に入城した。
同年8月、徳川家康が関東に封ぜられたのに伴い、徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩が立藩した。
- 川越藩立藩以後の川越城主は、酒井家→酒井家→堀田家→大河内松平家→柳沢家→秋元家→結城松平家→松井松平家と推移した(詳しくは川越藩を参照のこと)
江戸時代
川越藩で最大の石高を領したのは結城松平家(越前松平家一門)の17万石である。
江戸時代には川越城を中心に城下町が形成され、小江戸と称された。城下は武蔵国の商工農の中心、物資の集散地として栄え、物産品は新河岸川を通じて江戸に運ばれた。
1767年(明和4年)、前藩主秋元家の移封に伴って川越は前橋藩結城松平家の所領となったが、同家の居城である前橋城が洪水で破損して再建が困難となったために前橋城を放棄して川越城に居城の変更することが認められた。この状態は100年後の1867年(慶応3年)に前橋城が再建され、それを機会に所領が再編されて前橋藩(旧川越藩・結城松平家)と川越藩(松井松平家)に分離されるまで続いた。
川越街道は川越藩主の参勤交代や、川越藩の分領の上野国前橋との連絡で重要な役割を果たした。
- 1639年(寛永16年) 、川越城主となった大河内松平家・松平信綱(知恵伊豆)は、大拡張工事を行い寛文年間に完成し、倍の規模の近代的城郭になった。
- 中郭、追手郭(あわせて外郭)、北東に新郭、東に帯郭、南に田郭が付加された。川越城は、本丸、二の丸、三の丸や八幡郭、外郭、田郭、新郭などの曲輪、本丸の富士見櫓(南西隅)と虎櫓(北西隅)、二の丸の二重の菱櫓という4つの櫓[2]、西大手、南天手、一、二、三、天神、蓮池、中、清水、田郭、帯郭、新郭、埋の13の門からなり、土塁・水堀を張り巡らした総面積が9万9千坪(約326,000㎡)余りの規模をもつ城郭となった。天守の代用となった富士見櫓は、基壇の高さ51尺(15.4m)、櫓の高さも51尺(15.4m)である。信綱による修築以前の姿は、国立歴史民俗博物館の「江戸図屏風」に残っている。 城主の住居は焼失するまで二の丸にあり、二の丸には武具方役所もあった。隠居屋敷は三の丸にあり、三の丸南には馬場と馬見所が設けられた。家老屋敷は外郭に配された。新郭には米蔵や火薬庫があった。
- 1848年(嘉永元年) 結城松平家・松平斉典により、本丸御殿の造営が行われる。二の丸にあった御殿が1846年(弘化3年) 焼失し、再建したもので、これが現存する御殿である。
近現代
- 1868年(明治元年) 松井松平家・松平康英が明治政府に恭順の意を示すため、堀を埋める。
- 1869年(明治2年) 川越藩が新政府に川越城の老朽化した建物を取り壊したい旨を届け出、城の部分的取り壊しが始まる。
- 1873年(明治6年) 廃城令に伴い、川越城内の不用・破損の建物等の入札・売払が行われる。
- 1924年(大正13年) 川越城跡が埼玉県指定史跡に指定される。
- 1967年(昭和42年) 本丸御殿が県指定有形文化財に指定される。
- 1989年(平成元年) 川越城主要部(13.5ha)を復元し城址公園を拡張するという初雁公園整備基本構想が策定。その後バブル崩壊とともに頓挫し計画は公表されることもなかったが、28年後の2017年にその存在が明らかになった。
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(19番)に選定された。
- 2017年(平成29年) 初雁公園整備基本構想が縮小し復活。初雁球場を移転させ城址公園を拡張すると発表。
遺構
現在、城址の大部分は市街地となっており、往時の姿を想像するのは難しいが、本丸御殿の一部(大広間と玄関)が現存している事は特筆に値する。
本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城のみであり、城郭御殿全体でも他に二条城と掛川城だけという極めて貴重な遺構である。本丸御殿南側には富士見櫓跡、西方には中ノ門付近の堀跡が現存している。
2019年3月に公園整備を推進する新たな基本計画として「川越市初雁公園基本計画」の策定を公表した。城跡に建設された初雁球場やプールを2032年頃を目標に移転する方針を固めている。[3]
川越城本丸御殿
本丸御殿は、1848年(嘉永元年)、松平斉典の17万石時代に建てられた入母屋造りで、豪壮な大唐破風と霧除けのついた間口19間・奥行5間の大玄関・車寄せをもつ。36畳の大広間は、板間で玄関と区切られ、さおべり天井で奥行3間の座敷には9尺の廊下が四方を囲っている。建坪は165坪である。
当時は16棟、1025坪の規模をもっていた。明治に入ると廃城令で多くの建物は解体され、現在残る建物は玄関・大広間部分と家老詰所のみとなっているが、本丸御殿大広間は川越城の他には高知城にしか現存せず、全国的に見ても貴重な遺構である。玄関・大広間部分は入間県県庁、入間郡公会所、更には煙草専売局淀橋支局川越分工場へと転用され、1933年(昭和8年)には川越武道奨励会の修練道場となり、名称も初雁武徳殿に変更、戦後は川越市立第二中学校(現在は初雁中学校)の校舎や屋内運動場として使用されていたが、1967年(昭和42年)、県指定有形文化財に指定された。家老詰所については、解体後上福岡市(現:ふじみ野市)の民家に移築されていたのを再度移築したものであり、位置は以前とは異なっている。こちらも1991年(平成3年)に県指定有形文化財に追加指定された。2008年(平成20年)10月から2011年(平成23年)3月まで保存修理工事が行われた。
富士見櫓跡
本丸御殿から南西へ直線で150メートル、道のりで約300メートルのところ、三の丸跡地である埼玉県立川越高等学校南側の小高い丘が城内で最も高い位置にあたり、この地に三層の富士見櫓があった[4]。川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に富士見櫓が天守の代わりとなっていた。 正確な規模は不明だが江戸末期の慶応2年(1866年)に川越城を測量した時の記録によれば、長さ八間三尺(約15メートル)、横八間 (約14メートル)あったと記されている。富士見櫓の名前の由来は、文字通り富士山を望めたためである。現在は浅間神社と御嶽神社が建っている。[5]
中ノ門堀跡
本丸御殿から市役所方面へ約300メートル西方の郭町1丁目付近の住宅の裏には、中ノ門付近の堀跡が現存しており、2008年(平成20年)より川越市による公園整備で堀や門の復元が行われた[6][7]。中ノ門掘は西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配された堀のひとつであり松平信綱によって造られたものである。
その他の遺構
本丸御殿の東側に隣接する三芳野神社境内には、かつての川越城の土塁とみられる高台がある。また、城跡と北方の氷川神社の間は低地となっており、かつて堀であったことがわかる。
かつての西大手門は川越市役所前に、本丸門は初雁球場近くに、田曲輪門は富士見櫓近くに、南大手門は第一小学校西門近辺にあった。南大手門の「馬出し」からの道がかつての城内の路の名残を留めている。
南大手門近くの「永島家住宅」は武家屋敷跡で、埼玉県内に残る江戸時代の武家屋敷の遺構はここだけである。川越では藩命で武家屋敷の生垣はカラタチと決められており美しい家並を形成、永島家住宅の生垣もカラタチである。また市内にある雲興山榮林寺の山門は二の丸の蓮池門を移築したものという。
市立博物館の資料によると、東松山市葛袋843の民家の門(旧川越城裏門扉)は川越城の裏門を移築した二層の長屋門のものといわれ、間口十四間、奥行き三間半、扉部が二間半の規模を持つ。川越城の移築門とされるのは、扉の天井部分等に今でも朱の跡が残されているためであり、城門由来の部材は扉のみである。
この他、市内三久保町の成田山旧客殿、加須市むさしの村武芸館が移築されていることが同じ資料にあるが、加須市のものは取り壊されて現存しない。
また、川越市立博物館には川越城のものと言われる扉が保存されている(非公開)。
江戸城遺構
川越城と江戸城は築城当初より深い縁があるが、川越城南方の喜多院(本丸御殿から南へ約800メートル、徒歩10分)には、江戸城の建物が移築され、現存している。客殿には徳川家光誕生の間と言われている部屋があり、家光の乳母春日局の間を含む書院、庫裏も移築されている(全て国の重要文化財)。初期の江戸城の御殿建築と末期の(川越城)御殿建築を比較するうえで両者とも貴重な遺構である。
また、市内の氷川神社(本丸御殿から北へ約400メートル、徒歩5分)には1637年(寛永14年)に家光が江戸城二の丸に建立した東照宮が移築されている。江戸城内の宗教的建造物としては現存する唯一のものである。
城下町の町割
老中首座で「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱によって形作られた川越の町割は、「十ヵ町四門前町」(じっかちょうしもんぜんまち)に郷分・城付を設けた合理的なもので、三方を低地と河川で囲まれた防衛に最適な台地の形状に合せて城と城下町が配置された。台地の北西端にあった城は、台地を開削して西へ大きく拡張され、その本丸の北側に総鎮守の氷川神社が置かれた。
城の表玄関である西大手門(現在の市役所)の前は、伝馬問屋の置かれた江戸町で、そこを基点に南方に川越街道が江戸まで伸びた。西大手門から西へ進む先には高札場である「札の辻」が設けられた。ここを軸に縦二十三条、横七十八条の概ね碁盤の目状に町割がなされた。また、袋小路・鉤の手・七曲り・丁字路など城下町特有の街路が作られた。
札の辻を中心とした一帯が城下の商人地区である上五ヶ町である。その南北の目抜き通りが、今日では蔵造りで有名な「一番街」である。町屋は概ね間口数間、奥行15間から20間の短冊型に区切られた。上五ヶ町に隣接して、時の鐘も建つ職人町の下五ヶ町があった。ここまでが町奉行の管轄であった。
一番街の西側には養寿院、行伝寺、妙養寺、南側に蓮馨寺があり、4つの門前町を形成した。町火消しはここまで担当した。
- 上五ヶ町
- 江戸町(えどまち):川越街道の基点で、川越城西大手門前の南北の地区。人馬継ぎ立てをする問屋や蔵米の点検をする改があった。
- 本町(ほんまち):西大手門から札の辻に至る大通り地区。
- 南町(みなみまち):札の辻から南側。大店の呉服問屋が連なり隆盛した地区。蔵造りで有名な現在の川越一番街。西側に養寿院門前(門前横丁)と行伝寺門前(出世横丁)が伸びる。
- 喜多町(北町。きたまち):札の辻から北側の地区。河越夜戦の舞台となった東明寺の門前町だった。
- 高澤町(たかざわまち):札の辻から西側、高澤橋までの地区。江戸時代は特産品のそうめんを作る店を軒を連ねた。菓子製造の家も多く「菓子屋横丁」として現存している。
- 下五ヶ町
- 鍛冶町(かじまち):南町のさらに南側の地区で、現在は一番街の仲町交差点北側にあたる。北条氏が相模から鍛冶職を移住させ鍛冶の町となった。
- 多賀町(たがまち):時の鐘のある現在の鐘つき通りの地区。桶屋・大工の集まった職人街。
- 鴫町(志義町。しぎまち):現在の仲町交差点の東西にあたる地区。鍛冶町の刀匠・鴫善吉が開いたので名が付いた。穀物問屋が軒を連ね、米市の取引量は武蔵国最大であった。川越藩の馬場もあった。妙養寺門前に連なる。
- 志多町(下町。したまち):喜多町のさらに北側、東明寺橋までの地区。東明寺の広大な境内が町になった場所で、東明寺坂を下った位置であることから、古くは下町と呼ばれた。
- 上松江町(かみまつえちょう):川越街道の江戸町より南側の地区。江戸から見ると川越城下の入口であり、宿場として栄えた。蓮馨寺門前(立門前通り)が西に伸びる。
城の南側には江戸幕府の直営社であった喜多院や仙波東照宮が広大な寺領を構えた。これは軍事的配置でもあった。
城の周囲は堀が張り巡らされ、家老などの上級藩士の武家屋敷は、南大手門周辺の堀の南側に建ち並んでいた。下級藩士は川越街道の入口近くの組屋敷に住まわされた。武家地は藩の加増に伴い、街道沿いに南へと開発されてゆき、1778年(安永7)の地図では、中心市街地から離れた現在の川越駅付近まで拡大していた。
城下の南方には川越の外港である川越五河岸が設けられ、大きな物資は船でしか運べなかった時代における、川越の物流拠点であった。
絵図
- 川越城図(楽只堂年録第26巻の内)(公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会蔵)は、楽只堂年録の元禄7年(1694年)9月15日条に収められており、近世川越城を描いた最古の城絵図とされている。
その他
童謡の舞台
童謡「とおりゃんせ」は城内にあった三芳野神社を舞台にしたものだといわれている。庶民は気軽に参拝できるものではなく「ご用のないもの通しゃせん」であり、帰りは厳しいチェックが待っていたので「行きはよいよい帰りは怖い」だった。
川越城七不思議
- 初雁の杉:上述
- 霧吹きの井戸:上述
- 人身御供
- 城が築城された地は「七ッ釜」という湿地帯で太田道真、太田道灌父子は土塁が完成しない。ある夜、沼の主・龍神が道真の夢枕に現れて「明朝、一番早く汝のもとに現れた者を人身御供(人柱)として我に差し出せば、築城は成就する」と告げる。翌朝一番に現れたのは道真の娘・世禰姫(よね姫)であった。実は娘も同じ夢を見たのだった。姫は城の完成を祈り沼に身を投げて龍神に捧げ、城は完成した。
- 天神洗足の井水
- 道灌が水堀を造るため水源を探していたところ、老人が三芳野神社付近の井戸水で足を洗っていた。この老人に案内され道灌は水源を発見できた。道灌は、この老人こそ三芳野天神の化身である、と天神洗足の井水と名付け大事にした。
- 片葉の葦
- 浮島稲荷神社の一帯は湿地帯で「七ツ釜」と呼ばれていた。城が敵に攻められ夜陰に乗じて城中から姫が乳母と逃げ七ツ釜までたどり着いたが、姫が足を踏み外し七ッ釜に落ちてしまった。葦にすがって這い上がろうとしたところ葦の葉がちぎれ姫は葦の片葉を掴んだまま水底へ沈んだ。この近辺の葦は、姫の恨みによってどれも片葉である。浮島稲荷神社に碑があり、七ツ釜の面影が残っている。
- 遊女川(よなかわ)の小石供養
- 芳野村の名主に、およねという美しい娘がいた。城の小姓が城主の鷹狩のお供で村に来た折に一目惚れして、およねを嫁にした。しかし武家に嫁いだことから身分違いで姑に苛められ、川に身を投げてしまった。夫は毎日、川に行き「およねやー」と叫び続けた。川底から「はーい」とおよねの返事があるので夫も川に吸い込まれるように身を投げた。川に石を投じるとおよねの返事があるという。
- 城中蹄の音
- 城主・酒井重忠は不思議なことに毎夜、矢叫びや蹄の音に眠りが覚めてしまう。易者が言うには城内のどこかにある戦の絵が災いしている、とのこと。宝物庫を調べたところ堀川夜討の戦いを描いた一双の屏風があった。この屏風を養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫びや蹄の音が消えた、という。
その他の謎
- 玄関外窓の溝[8]
- 本丸御殿の外窓は、場所によって敷居・鴨居の溝の数が異なる。具体的には、玄関側の外窓は2本溝、玄関側以外では3本溝である。
- 御殿建築の外窓は、多くの場合、3本溝の敷居・鴨居を使用する。外側に2枚の雨戸(板戸)、内側に1枚の障子という構成で、窓に戸袋がなく、雨戸2枚を片側に寄せると障子1枚で開け閉めが可能である。しかし上記のとおり玄関側には溝が2本しかなく、保存修理工事に入る前から疑問視されていた。
- 後世の改修によって作り替えられたと考えられていたが、解体調査の結果、敷居・鴨居ともに建築当初のものと判明し、謎の解明には至っていない。
- 現在では、普段は雨戸で閉められ、使用時のみ障子と交換する、という仮説が考えられている。城主が住む本丸御殿の玄関や広間は特別なものであるため、重要な会議や来客時のみ使用されたのでは、という推論に基づくものである。
現地情報
所在地
- 埼玉県川越市郭町2-13-1
交通アクセス
- 東武東上線・JR川越線「川越駅東口」および西武新宿線「本川越駅」から東武バス「上尾駅西口行き」、「埼玉医大行き」又は「川越運動公園行き」で約10分「市役所前」下車、徒歩約10分
- 東武東上線・JR川越線「川越駅西口」及び西武新宿線「本川越駅」からイーグルバス「小江戸巡回バス」「あぐれっしゅ川越行き」で約15分「博物館・美術館前」下車、徒歩約2分
2006年、川越城は日本100名城(19番)に選定され、同年6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
参考文献
[続きを見る]
川越城の口コミ情報
2024年08月14日 hiroppie左近衛少将
川越城
連休明けの火曜日、閉館でした(泣)隣の休憩所にスタンプあります。
2024年07月16日 ふくちゃん
川越城
公共交通機関を使うなら川越駅からバスで行くことになりますが、最寄りのバス停に停まるバスの本数が少ないため、「札の辻」交差点付近に停まるバスに乗車してそこから歩くのもありです。
城攻めだけではなく、小江戸川越の観光の一つとして組み込んだほうが個人的には良いのかなと思います。
2024年05月23日 巨福呂左近衛少将充流
川越城
本丸御殿のみが現存しています。修復はされていますが、柱などには長い年月を感じさせるものがありました。
2024年02月11日 伊達大蔵丞愛
川越城
川越駅から‘小江戸めぐりバス‘を利用しました。博物館前下車、目の前が城址入口です。
時刻表どおりなら6駅18分の道のりなのですが、三連休だったからなのか、休日はいつものことなのか、道路が混みすぎていて出発も遅れた上に、遅々として進まず、45分くらいかかりました…(到着の遅れによる待ち時間を入れたら1時間です)…
駅からは2㎞半ほど、おそらく徒歩30~40分なので、この場合は、歩ける人は歩いた方が早かったですね。帰りは小江戸の町並みを観光しつつ歩いて帰りました。
蔵のまちエリアからなら徒歩10~15分くらいでしょうか。
珍しい現存御殿ですが、これでも本来の一部分だけなんですね。全部残っていたら…と思わずにはいられません。
2024年02月11日 曲輪但馬守削平
喜多院[川越城 寺社・史跡]
天台宗 星野山 無量寿寺 喜多院(川越大師)。
川越城へ行くついでに寄りました。川越駅から歩いて20分くらいです。仙波東照宮と合わせ見所が多く、1時間ではとても回りきれませんでした。室内の撮影は不可。
①客殿(国重文)家光公誕生の間があります。川越大火後に江戸城から移築。
②書院(国重文)春日局化粧の間があります。川越大火後に江戸城から移築。写真右側の建物。
③慈恵堂(県指定)本堂、川越大火後の再建。
④慈眼堂(国重文)慈眼大師天海を祀る。
⑤山門(国重文)川越大火前からの建造物。
番所(県指定)江戸中期
⑥鐘楼門(国重文)
⑦多宝塔(県指定)
⑧五百羅漢(市指定)拝観すれば入場券がついてます。
2023.12.17
2024年02月10日 曲輪但馬守削平
中ノ門堀跡[川越城 遺構・復元物]
中ノ門は追手曲輪から中曲輪に入る際に通る門で櫓門になっていたそうです。江戸時代初期、松平信綱が川越城を拡張整備した際に作られたとか。平成22年に遺構が整備され堀跡が眺められるようになっています。堀跡を見て気付くのは城内側の左側が低くなっている事(写真①)。土塁は撤去された状態であり、台地先端にある城では珍しい事ではなく現地では気になりませんでした。しかし帰宅して地図をよく見ると堀の右側は微高地でした。看板では直進出来なくするとしか書かれてませんが絵図で屋敷となっているこの微高地の前を通る導線となっています。それっぽい場所の写真を見るとわずかですが登ってます(写真②)。屋敷は防御拠点。門に攻め込もうとすれば屋敷から横矢が、屋敷に取り付けば櫓門から攻撃される形。屋敷と櫓門が相互に補完して守る形が見えてきました。是非、VRで再現して欲しいです。9時~17時開門、年末年始休み。2023.12.17
2023年12月20日 あんどー主計頭
川越城
100名城へ。それにしても武蔵の城はみんな太田道灌が築城してるの?ってくらい名前出てきますね笑
本丸御殿内100円で入れるのは貴重。廊下はひなたを除けば、冬は冷たいのでスリッパ欲しくなります笑
土塁跡や切り立った堀なども見れますが、広大な城内のほとんどは市街地化されてるようです。でも、遺構は綺麗に整備されています。
2023年11月25日 千葉相模守早雲【権六】
川越城
享徳の乱をきっかけとして、足利成氏と対立した扇谷上杉家の家宰太田道真(資清)、道灌(資長)父子によって武蔵南部の本拠地として築城されました。
その後、伊豆・相模を治めた北条氏が氏綱の代になって、武蔵へ進出して河越城を奪取。
氏綱が亡くなり、氏康が後を継ぐと、扇谷上杉は古河公方・山内上杉と連合し河越城へ攻め寄せ、大軍で包囲します。この時、河越城に籠城するのが、「地黄八幡」で名高い北条綱成。河越城の危機を聞きつけた北条氏康は今川義元と交戦中でしたが、停戦して救援に向かいます。そして夜襲を仕掛けて両上杉・古河公方連合軍に大勝。世にいう「河越夜戦」です。その後は武蔵支配の拠点として、河越衆を率いて大道寺氏が城代を務めました。
徳川家康の関東移封により、酒井家が城主となりますが、次々と城主は変わります。越前松平家が城主の時に本丸御殿が焼失し、1848年に再建したのが現在の本丸御殿です。
市街地化により遺構はあまり残っていませんが、中ノ門堀跡は堀の深さと切岸の勾配のえげつなさがよく分かる貴重な遺構です。
オススメです♪
1.本丸御殿
2.中ノ門堀跡
2023年11月01日 RED副将軍
川越城
北条氏と、扇谷・山内の両上杉氏・古河公方の連合軍が争った河越夜戦の舞台⚔
日本𝟣𝟢𝟢名城
𝟣𝟦𝟧𝟩年に太田道真と太田道灌の父子により築城。
𝟣𝟦𝟧𝟦年に鎌倉公方こと足利成氏が関東管領である上杉憲忠を謀殺したことに端を発して享徳の乱が勃発。足利成氏は、不在の隙に本拠地であった鎌倉を上杉氏に付いた今川範忠勢により制圧されてしまったため下総国古河に拠点を移し古河公方と称されます。
上杉氏と古河公方の対立の最前線の地に上杉氏の本拠地として上杉持朝が家宰であった太田道真、太田道灌の父子に築かせたのが川越城です。
太田道灌の活躍により、𝟣𝟦𝟪𝟤年に室町幕府と古河公方は和睦し享徳の乱は収束しましたが、𝟣𝟦𝟪𝟨年に勢力を拡大した太田道灌は下克上を恐れた主君であった扇谷上杉定正により暗殺されてしまいます。
𝟣𝟧𝟤𝟦年に小田原の北条氏綱が扇谷上杉朝興の居城である江戸城に侵攻し落城。
𝟣𝟧𝟥𝟩年には川越城も落とし、扇谷上杉氏は武蔵松山城へ逃亡。川越城は北条氏の支配となり城代として北条綱成が入城。武蔵国支配の拠点とします。
𝟣𝟧𝟦𝟣年に北条氏康が家督を継承すると、扇谷上杉朝定と上杉憲政の扇谷・山内の両上杉氏は古河公方足利晴氏と結び、川越城を大軍で包囲します。北条綱成は籠城し半年に渡って抗戦します。𝟣𝟧𝟦𝟨年、今川氏との戦いを終えた北条氏康が救援に駆けつけて夜襲で連合軍を撃退。河越夜戦と呼ばれ、日本三大夜戦のひとつに数えられます。
この戦いで扇谷上杉氏の上杉朝定は討死、山内上杉氏の上杉憲政は上野国へ逃亡、古河公方足利晴氏は古河に逃走。北条氏による武蔵国統治が完成しました。
𝟣𝟧𝟫𝟢年の豊臣秀吉による小田原征伐において、川越城は前田利家に攻められ落城し、城主であった大道寺政繁は降伏。その後、関東に入部した徳川家康は家臣の酒井重忠を入城させ川越藩を立藩。
𝟣𝟨𝟥𝟦年に酒井氏が転封となると、堀田氏、大河内松平氏、柳沢氏、秋元氏、越前松平氏、松井松平氏と江戸幕府重鎮が続いて明治に至りました。
𝟣𝟨𝟧𝟥年の大河内松平氏である松平信綱の時代に近世城郭へと大規模な改修が行われたとされます。
見所
本丸御殿が現存しており𝟣𝟪𝟦𝟪年の越前松平氏である松平斉典により造営されたものです。本丸御殿が現存するのは他に高知城だけです。
市街化により周辺の遺構はほぼ消失しましたが、本丸西側に深さ𝟩𝗆、幅𝟣𝟪𝗆の中ノ門堀跡、南側に富士見櫓、東側の三芳野神社に土塁が残ります。
また、喜多院は川越城の出城とも想定されています。
風情溢れる小江戸の散策と併せて城郭遺構も巡ってくださいませ
2023年08月25日 理右衛門(勘解由次官)
川越城
以前は体育館として使われていたため、天井にバレーボールの跡があるのだと親から聞きました。貴重な文化財の中でまさか、と思っていましたが、調べると本当のようです。
付近にはとおりゃんせ発祥の地の碑がある三芳野神社もあります。一説には、とおりゃんせは川越城のなかにあった同神社へのお参りの歌なのだとか。
2023年08月11日 武蔵守マクシミリアン
川越城
東日本で唯一現存する本丸御殿には、エアコンはありません。ただ木造の大きな建物なので、風通しがよく、外気が38℃超えの酷暑でも、意外と涼しく感じました。
歩いて2、3分の距離(旧二ノ丸)の市立博物館は冷暖房完備です。江戸時代の川越の街の再現ミニチュアがあって、当時の川越城の様子もよく分かります。
本丸御殿の家老の間がある棟には便所が2ヶ所あります(使えませんよ)。御殿は政庁なので大勢の人が集まる場所でしたので、当時は今残っている建物の何倍もの巨大な本丸御殿(千坪を超えてた)だったので、あちこちに便所があったそうです。格式張ってた場所というイメージがありましたが、そんな所にちょっとホッとしました。
2023年05月10日 カツ式部卿
川越城
平日の夕方に行ったのもあると思いますが、空いていてみやすい状態でした。普段城郭や城跡、郭や堀跡(空堀)を見るのがすきですが、こんな感じもリアルを感じれていいなぁと思いました。
2023年05月05日 ニセロー
川越城
御殿が残っている数少ない城になります。よく知らない観光客は『城跡かぁ』と言ってましたので、ゴールデンウィークでも御殿内の混雑はありませんでした。
2023年03月23日 がつ
川越城
川越の街並みからちょっとだけ離れた所だが歩きやすくいい感じでほっこりできました。
2023年01月20日 野呂利左衛門督休三
田郭の堀跡[川越城 遺構・復元物]
新河岸川寄りが宅地造成中。間もなく東半分が見れなくなります。
2023年01月02日 野呂利左衛門督休三
土塁[川越城 遺構・復元物]
川越城自体の上総介様の口コミにもありますが、市制100周年事業の一環で本丸北側の土塁の位置を一部再現表示したものです。それに先立つ発掘で北門の遺構も出土。絵図面より位置を推測して建てた本丸門石柱の場所通りで、大手門よりも若干幅広の薬医門構造だったと見られているそうです。
また堀跡も見つかっていますが、2層の版築構造も見つかったそうです。説明板には書かれていませんが、本丸側で、これで土塁の立ち上がり位置が確認できたとのこと。
(参考:初雁公園整備に伴う川越城跡発掘調査結果、朝日新聞2021.11.25「本丸の北門 絵図と位置ぴたり 埼玉・旧川越城」)
2022年12月11日 上総介尾張守
川越城
川越市制100周年記念事業として本丸御殿周辺を広場化。前を通っていた道路は広場を迂回させて移設。12月1日から共用開始されました。博物館から本丸御殿への通路上に北門跡の碑、案内板、土塁を設置、御殿の北に古図面に記載されていた拾人部屋を復元。休憩所として使われています。拾人部屋、どのような用途に使われていた建物かは不明との事です。
2022年10月02日 ジョウ陸奥守
川越城
本丸御殿では、地元中学生が、ボランティアで説明をして頂け、なかなか興味深い?内容でした。
2022年09月04日 マグロ常陸介祐平
奥貫家長屋門[川越城 寺社・史跡]
江戸時代の名主の門で川越景観百景に選定されています。屋敷の周りには部分的に水堀が残っており武家屋敷のような雰囲気です。近くには、江戸時代中期の洪水で私財を投じて10万人を救った奥貫家当主奥貫友山の墓(県指定旧跡)があります。
2022年08月27日 puru下総守堀戸道光↸雁
川越城
小江戸川越。
扇谷上杉氏時代から幕末まで栄えた城下町✨
近世城郭ですが、遺構はほぼ無く、現存する御殿と町並みが素敵でした😃✨
御殿でスタンプは押せますが、御城印はありません😅➡️何処にあるんですかね💧
貴重な文化財は、すごく趣があって後世まで残していきたいものです👍
2022年08月11日 勘解由長官信タン
川越城
江戸の搦手。文化財も神社も寺も、本丸御殿界隈は混雑していましたが、歴史を感じる景色でした。
2022年07月03日 ☀みどりいろ弾正尹たおる☀
川越城
近くに『野球場⚾』や『とうりゃんせの神社⛩️』があったりと『憩いの場』のような感じはするけど、圧倒的な『存在感』を感じさせるたたずまいの居館城郭でした✌😁✌
ただ『登城記念の紙』の価格の高さにビックリでした😲
2022年04月03日 氣志本下総守幸兵衛
川越城
本丸御殿の桜のコラボも見事ですが、近くの氷川神社裏の新河岸川沿いの桜が素晴らしい。富士見櫓は残念ながら立ち入り禁止です。
2022年02月11日 HAL2000壱岐守
川越城
本丸御殿と中ノ門堀跡。江戸後期に建築された本丸御殿はきれいに残っていて、100円とお安く見学できるのでおすすめです。
2022年01月20日 四間飛車左衛門佐とみー
川越城
活動の振り返り!
2022年1月9日 チームメイトと一緒に河越・川越エリアの攻略に行ってきました!締めくくりは川越城です。東武東上線川越から徒歩約30分、道中は熊野神社や時の鐘、整備された小江戸の街並みを堪能する事ができます。時間に余裕があれば、徒歩でブラブラ向かうのも一興でしょう。
本丸御殿は1月9日時点で16:30最終入場となっています。御殿内には枯山水の庭園、移築前の瓦など興味深いものが展示されており、思った以上にボリューム感のある施設となっております。
2021年09月24日 銀英10島大和守誠長
川越城
本丸御殿は江戸の名残があり必見です。幸運が重なり現在も見ることが出来ます。
2021年08月26日 乱会
川越城
川越市役所前に、川越城の縄張りのレリーフが置かれています。現存している絵図は全て江戸時代遺構のものなので、中世の川越城の姿がどのようなものだったのかは不明です。中曲輪・追手曲輪・二ヶ所の丸馬出は松平信綱が城主だった時期(江戸初期)に増築された模様。
2021年07月24日 特にありません
川越城
本丸御殿は見学出来ましたが、近所の川越歴史博物館が館長が老朽化で閉館中という事で残念でした。あの施設は結構お宝あるんですよ!
2021年05月31日 安房守旅とも
川越城
工事中のエリアもありますが、小江戸川越を楽しむのにはいい場所です。
2021年04月25日 弾正忠ひろし
川越城
2021.4.20登城 無料駐車場あり 本丸御殿100円 川越市立博物館200円 川越市立美術館200円 三館セット券370円 初めに市立博物館に行って城と城下町についての知識を入れてから本丸御殿 その後城下町の散策をするのが効率的です
2021年04月24日 いーさん丸三柏
川越城
初雁城とも云われた河越城🏯
小江戸と呼ばれた町並みの方が有名ですが
東日本唯一の本丸御殿遺構があります
2021年03月11日 山下相模守正成
旧本町[川越城 碑・説明板]
本町は川越城の西大手の本通りである。古くは本宿といった所で、江戸時代から本町と呼んだ。ここは明治の頃に米穀商品取引所があった跡なので米商とも呼ばれていた。本町の四ツ辻は昔、高札場があった所なので札の辻と言って、道路元標の基点とされていた。この本町を中心に昔は市店が立って繁昌した。(説明板より)
2021年03月11日 山下相模守正成
旧江戸町[川越城 碑・説明板]
川越城西大手門より、鉤の手までを指す。旧十ヶ町のうち上五ヶ町の一。城より、江戸へ行くための起点となる町であるため江戸街道と呼ばれていたが、町の繁栄とともに江戸街といわれるようになった。「れんしやく丁」「唐人小路」などの北条氏時代の古名も伝わり中世以来の繁栄が窺われる。ここは、道路が二回直角に曲がる城下町特有の鉤の手跡である。昭和三十六年町名変更。(説明板より)
2021年01月20日 流浪の若狭守城巡ラー
あぐれっしゅ川越(農産物直売所)[川越城 駐車場]
あぐれっしゅ川越(農産物直売所)の駐車場は、観光用としても使えます。(普通車のみ)
2021年01月13日 scene1右衛門督
川越城
新型コロナ感染予防の為、本丸御殿は閉鎖中でした。
2020年09月22日 ロボーティ掃部允
川越城
富士見櫓と本丸御殿をリア攻め。富士見櫓は階段が立ち入り禁止になっており断念も本丸御殿を堪能。入館料100円は安い!
2020年09月21日 坂の上の蜘蛛
川越城
高知城とここしかない現存本丸御殿は、ある意味、現存天守より貴重な遺構だと思います。
職員の人に聞いた話しでは、川越城はもとから天守はなかったそうで、この現存本丸御殿が川越城と言いでしょう。
2020年08月23日 清水伊豆守興聖
川越城
休館日がありますが、その際100名城スタンプは市役所でもらえるそうです。木造の本丸御殿はこの酷暑でも涼しかった。
2020年06月20日 松之助尾張守
富士見櫓跡[川越城 遺構・復元物]
2020.6.20現在、富士見櫓に登る階段が立入禁止になっています。
ですがぐるっとまわると神社に続くコンクリートの階段があり、そこから富士見櫓に登れます。
2020年03月21日 まりも
川越城
川越市のHPによると、本丸御殿は新型コロナウイルスの影響で3月末まで閉館だそうです。日本100名城スタンプも本丸御殿では押印できないので気をつけてください!
2019年11月20日 北条左京大夫氏直
川越城
本丸御殿が見事でした。
中の門堀跡や大手門跡を巡る時は車を近くの駐車場にとめて徒歩で回るのが良いですね。
2019年09月21日 刑部卿清老頭天和
本庁舎6階観光課[川越城 スタンプ]
本丸御殿休館日はこちらで押せます
2019年08月12日 あおっち図書助
川越城
バスを利用して春先に2度目の攻城。現存の御殿内にスタンプあります。周辺も静かで縁側でのんびりしました。
バスで移動して行けば、時計台や蔵造りの町並みもみれるので一日散策できます。私は喜多院にも寄りました。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
時の鐘[川越城 その他]
徳川家光時代の老中・大老の酒井忠勝(寛永四[1627]年-十一年。若狭小浜に転封)によって初めて建てられましたが、何度か焼失し、現在のは明治二十七(1894)年の再建。「残したい日本の音風景百選」(環境庁)に選出されています。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
喜多院[川越城 寺社・史跡]
慈眼大師天海を祀る慈眼堂の裏に歴代住職墓。正面に立つ石塔婆は天海の物。この奥には南北朝時代の板碑も2基ある。なお慈眼堂と歴代住職墓のある場所は古墳とも言われている。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
喜多院[川越城 寺社・史跡]
慈覚大師円仁が平安時代前期の天長七(830)年に創建した星野山無量寿寺の仏蔵院が起原です。北院とも呼ばれ、今の喜多院になったのは慈眼大師天海の時です。
鎌倉時代になるまでは今の新河岸川より南は無量寿寺の影響下で、河越氏の勢力も及んではいませんでしたが、畠山重忠が討たれた元久二(1205)年に兵火に遭ったと伝えられています。
その後、復興を遂げ、鎌倉時代後期の永仁四(1296)年に伏見天皇により、関東の天台宗の総本山とされたそうです。しかし天文六(1537)年の河越合戦(北条氏康でなく氏綱の時の)で再度兵火に遭ったそうです。この頃まで無量寿寺の中心は今の中院(ただし場所は現在と違い、今の仙波東照宮のある位置にあった)でしたが、天海が徳川家康の信を得ることで喜多院の寺運は興隆し、こちらが中心となりました。
寺領は七百五十石、境内は四万八千坪に及び、寛永十五(1638)年の火災では江戸城紅葉山の御殿が移築されるなどの保護を受けています。しかし、明治になり徳川家の保護を失うと、寺域は東照宮を含めて一万四千坪に縮小し、家康の遺骸が日光に遷される際に4日間法要を行った阿弥陀堂などの建物も失われています。また多宝塔など境内の縮小により建物の配置も江戸時代と変わってしまったものもあります。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
蓮馨大姉の墓[川越城 寺社・史跡]
北条氏の河越城代の大道寺政繁の母の墓。蓮馨寺の名前はこの方の法名に由来します。なお、蓮馨寺開山の感誉は大道寺政繁の甥で、増上寺の住職も務めるなどしています。蓮馨寺は江戸時代には関東の浄土宗の僧侶養成機関の関東十八檀林に列せられています。また小江戸川越七福神の福禄寿の寺でもあります。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
此の道喜多院西外堀の址[川越城 碑・説明板]
今の喜多院は仙波東照宮込みで一万四千坪(およそ4万6千㎡)ですが、かつては四万八千坪(およそ16万㎡)あったそうです。その西側の境域の堀がこの通り沿いだったそうです。なおこの通り、外堀通りというみたいです。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
浮島稲荷神社[川越城 寺社・史跡]
川越城七不思議の片葉の葦の碑。この辺りに生える葦はすべて片側にしか葉が生えなかったといいます。地形的な要因によるそうですが、こんな伝説もあります。ある時、川越の城主が戦に敗れ、姫と乳母は夜陰に紛れて城を落ち延びることになりました。今とは比べ物にならないほど暗い夜、姫は誤って七つ釜に落ちてしまいます。年取った乳母は姫を助けあげることはできず、姫は葦の葉をも掴んで這い上がろうとしますが、葦の葉はあえなくちぎれてしまい、やがて姫は溺れてしまいました。それ以降、この辺りに生える葦は片側にしか葉をつけなくなったと言います。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
浮島稲荷神社[川越城 寺社・史跡]
神社の前の池。七つ釜の名残か。
この辺りは七つ釜の沼と低湿地帯で、伝説では築城は困難を極めたとか。なかなか普請が捗らない中、太田道真(息子の道灌とも)の夢枕に龍神が現れ、明朝この部屋に最初に来た者を人身御供とせよと告げます。翌朝、部屋に最初に現れたのは娘で、娘いわく、自分が人身御供になれば普請が進むと龍神に夢で告げられたと。しかし、道真は娘を閉じ込めます。もちろん普請は進みません。ある晚、娘は部屋を抜け出して七つ釜に身を投げます。それからは嘘のように普請が進み、城は完成したとされます。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
浮島稲荷神社[川越城 寺社・史跡]
城のすぐ南にある神社。平安時代前期に慈覚大師が無量寿寺(喜多院、中院)を創建する際にここに遷したとも、河越城築城の際に勧請されたともいいます。この辺りは川越城周辺で最も標高の低い部分で七つ釜と呼ばれる沼や低湿地がありました。七つ釜は川越城七不思議の片葉の葦、人身御供の舞台です。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
田郭の堀跡[川越城 遺構・復元物]
写真は空き地でできた隙間から。ポイントはその撮影地点に設置。もしかしたらここからはそのうち見られなくなるかもしれない。なお、ここからもっと東に行ったらしく新河岸川そばからでも見ることはできる。手前の高まりが田曲輪。その奥の緑が本丸の三芳野神社。田曲輪の手前に窪みがあるが、それが堀の名残。田曲輪の上に立つのは川越市最古の給水場の郭町給水場。水源は2本の井戸だそうで、博物館の霧吹きの井戸、ここから少し南の浮島稲荷神社(七つ釜の伝説)と、水の豊かさが覗える。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
田郭の名残[川越城 遺構・復元物]
現在の三芳野神社参道正面入口と富士見櫓跡下を結ぶ南北の道路周辺が田曲輪跡。その道の北側が本丸の堀跡。ポイントはその道路から一段下った場所。今も田曲輪の高低差の名残を見ることができる。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
土塁[川越城 遺構・復元物]
ポイントの北側にある土塁。こっちは見た目通り南北方向に走っている。それとこの道の間には堀があった。天神門を通った城下の人々はこの道を通って三芳野神社に至った。
2019年06月23日 野呂利左衛門督休三
土塁[川越城 遺構・復元物]
三芳野神社は本丸の中にありますが、さらにその周囲を土塁が囲繞しています。そのため、当初の本丸を同神社とみなす説もあります。写真はポイントの南側の土塁。現況だと南北に走っているように感じるが、実際には東西方向の土塁。
2019年06月22日 野呂利左衛門督休三
三芳野神社[川越城 寺社・史跡]
三芳野神社の創建は平城天皇の大同二(807)年とされています。
享徳の乱の初期の長禄元(1457)年に川越城が築城されるとその鎮守とされ、徳川家康が関東に入った翌年の天正十九(1591)年に社領二十石を賜り、江戸幕府直々の管轄の社として代々の将軍や川越城主からの奉納や保護を受けています。
寛永元(1624)年に川越城主の酒井忠勝による修築を皮切りにしばしば改修・修繕されています。明暦二(1656)年、松平信綱が城主の時に江戸城二の丸東照宮が移築されたとされます(なお、この翌年に江戸城主要部も焼失する明暦の大火が起きている)。これ以降は大きな改修はないようですが、現在の外観になった改修は大正十一(1922)年に屋根を銅板葺にした時です。
寛永元年の社殿は明暦の改修で境内内の外宮に、明治五(1872)年に氷川神社内の八坂神社に移築されています。
この社殿の裏に川越城七不思議の「初雁の杉」があったそうです。
2019年06月22日 野呂利左衛門督休三
鴉山稲荷神社[川越城 寺社・史跡]
河越城を築城した頃の話。太田道真が櫓から西を眺めたところ鬱蒼とした林によって富士山が見えなかったとのこと。それを切り開かせたところ、石祠と「源家勝平 怨敵退散 子孫繁栄 大願成就 守護 承安三癸巳天四月十七日 願主河島武盛」と書かれた願文が見つかったとか。これを吉兆として仮宮を建てたのが始まりだそうです。
承安三年は平治の乱から11年後、源頼朝らが挙兵する9年前で、西暦の1171年です。
2019年06月22日 野呂利左衛門督休三
経ヶ島弁財天[川越城 寺社・史跡]
室町時代にこの地の地頭が、今の新河岸川のたびたびの洪水を憂いて、経塚を築いて祀ったといいます。その後、河越城が築城されると裏鬼門(南西)にあたることから太田道灌から尊崇されたといいます。小江戸川越七福神でもあります。
2019年06月22日 野呂利左衛門督休三
田曲輪門跡[川越城 碑・説明板]
田曲輪への入り口の門の跡を示す標柱です。適地がなかったようで、実際よりは少し北よりの本丸堀の中に建てられています。南大手門を通った三芳野神社参詣の城下の衆は、ここを通って最後の関門の天神門に向かいました。
2019年06月22日 野呂利左衛門督休三
南大手門跡[川越城 碑・説明板]
川越城の南大手門は第一小学校の敷地にありました。城下の人々が三芳野神社に参拝する時はここから城に入り、田曲輪門に向かいました。この門の前にも丸馬出がありました。丸馬出の東側の入り口の道筋が今も細い路地で残っています(もう一枚の写真のクリーニング屋のところの奥へと向かっている道)。
2019年06月22日 野呂利左衛門督休三
栄林寺山門(蓮池門移築)[川越城 遺構・復元物]
栄林寺は、江戸幕府最初の川越城主の酒井忠利の伯母が、今の元町一丁目に創建した寺です。
写真の山門が、明治二(1869)年に移築された川越城二の丸にあった蓮池門です。
門脇の塀の裏に記されていますが、現在の門扉は当時のものではないようです。
2019年05月25日 i-Just
富士見櫓跡[川越城 遺構・復元物]
富士見櫓からは、天気が良ければ東京スカイツリーが望めます。今でも冬になればその名の通り富士山のてっぺんを見ることができます。
2019年05月17日 野呂利左衛門督休三
二の丸・三の丸の北側ライン[川越城 遺構・復元物]
今も高台になっています。道のあたりに二の丸と三の丸の境の堀がありました。三の丸の北側のラインは特別支援学校の敷地の南側にも見ることができます。
2019年05月17日 野呂利左衛門督休三
札の辻[川越城 その他]
高札場のあったことからこの名があります。現在はポケットパークになっており、川越高校卒業の関根伸夫氏のモニュメント(写真の)や、川越出身の彫刻家の橋本次郎氏の「日射し」が置かれています。橋本次郎氏は市役所前の太田道灌像の作者でもあります。
2019年05月17日 野呂利左衛門督休三
川越城大手門跡[川越城 碑・説明板]
市役所の辺りに大手門と丸馬出がありました。太田道灌像と慶応三(1867)年の川越城図の碑があります。太田道灌像の作者の橋本次郎氏は川越高校の前身の川越中学(旧制)の出身。
2019年05月17日 野呂利左衛門督休三
川越市立博物館[川越城 関連施設]
江戸時代の川越城と城下の模型などがあります。もちろん河越館にまつわる展示もあります。
2019年05月17日 野呂利左衛門督休三
霧吹きの井戸[川越城 遺構・復元物]
川越城と七不思議の一つに数えられています。敵が迫ると霧が吹き出て城を隠したとか。そのために霧隠城の異名も。城跡の南にある郭町給水場は二本の井戸を水源としていますが、こうした水の豊かさは、新河岸川が三方を取り巻く台地ならではなのでしょうか。
2019年05月17日 野呂利左衛門督休三
三の門跡[川越城 遺構・復元物]
今は城内を真っ直ぐに道路が突っ切っているが、昔は紆余曲折があった。手前のアスファルト舗装が当時の道筋に合致。堀に挟まれた通路だった。で、道と合流する辺りに三の門。
2019年05月17日 野呂利左衛門督休三
八幡郭跡[川越城 遺構・復元物]
この通りの辺りに八幡郭の西側堀が。八幡郭にあたる川越高校の敷地は少し高くなっている。太田道灌がこの曲輪内に川越八幡宮の分霊を祀ったことが名前の由来。
2019年05月17日 野呂利左衛門督休三
外郭南側のライン[川越城 遺構・復元物]
写真は少し北側から。左からの道が合流するあたりが落ち込んでいるが、外郭の南側のラインにあたる。外郭の堀は江戸時代前期に掘られたらしい。2018年度にここより少し西で江戸時代の堀とは別の中世の堀が見つかっているが、12mしか発掘していないため河越城の物とは断定していない。なお、この中世の堀は江戸時代初期に埋められている。
2019年04月30日 独眼竜和泉守めろん
富士見櫓跡[川越城 遺構・復元物]
付近では一番の高台にあった富士見櫓跡。富士山が見えたのでしょうね。20190430
2019年04月24日 大納言Z周防守369
富士見櫓跡[川越城 遺構・復元物]
この高台の上に川越城一の高さを誇った富士見櫓が建てられていました。
2019年04月24日
中ノ門堀跡[川越城 遺構・復元物]
中ノ門堀の特徴は、城壁側とその反対側の法面勾配が異なる点だそうです。城壁側60°、反対側が30°だそうです。
2019年04月24日
中ノ門堀跡[川越城 遺構・復元物]
中の門堀跡は、川越城からちょっと離れた場所にあります。天下が収まって間もない時代だったので、戦いを想定して造られたそうです。
2018年10月13日 織田上総介晃司
川越城
川越城前と隣に駐車場があります。
ただ、本丸御殿や美術館など利用施設から利用証明の印鑑をもらってください。
富士見櫓跡は住宅街にあって見落とす可能性があります。
川越市の観光で喜多院と時の鐘がある蔵造りの町並みがあります。
どちらも川越城本丸御殿からばらけてるので、時間に余裕の無い方はどちらかにしぼりこんだほうがいいです。
2018年08月18日 相模守愛洲久忠
川越城
公共交通機関を利用して川越城へ向かわれる方に、市内周遊バスのご利用をおすすめします。
川越駅西口から発着するボンネット型のレトロバスと、川越駅東口から発着する路線バスタイプの2種類があります。
西口からだと均一料金で@200、東口からだと博物館まで片道@190かかりますが、西口からの小江戸巡回バスは一日フリー乗車券@500、東口からの小江戸川越一日フリー乗車券@300でお得です。
どちらも小江戸協賛店で割り引の特典があり、レストラン、カフェ、お土産品、見学施設などで有効です。
喜多院はじめ時の鐘など見どころ沢山の小江戸の街歩きにいかがでしょうか。
2018年01月23日 ねこいんこ侍従
川越城
本川越駅からだとわかりやすいです。
本川越駅東口に出て左へ。倉の街並み方面へ。
倉の街並みを見て、時の鐘を過ぎたら信号を右に曲がり、市役所と太田道灌さんの像を横目に進むと右手に中の門堀跡。さらにまっすぐ行くと、左に博物館(天海さん木造を間近で見れたり、川越城下の再現ジオラマがみられます。)右に駐車場に入る道があるので右へ進むと川越城前につきます。
川越城前の道を進んでいくと(車は多分無理)突き当たりに案内板があるので、案内通りに右へ行くと富士見櫓跡があり、道は学校で突き当たるので左へ曲がり学校沿い道なりに右折し、信号を左、まっすぐ行き道なりに左折すると右手に賑やかな通りと通りに入る小道があるので小道から通りへ、手押し信号を渡ると、成田山と奥に喜多院(江戸城から移築された客殿や天海さんのお堂とお手植えの槇など正直お城より見所が多いです)。
喜多院のどろぼう橋を渡ったら左へ行き、突き当たり右にまっすぐで本川越駅です。
この行程で3時間くらい?
川越駅から本川越駅へは東口出て左へ、2つ目の信号を右へ行くと本川越駅。
あっちの方みたいに適当に歩くと大体迷います。
2017年05月08日 元気ですか。 やすし修理大夫
川越城
川越市には、十字路が2つしかありません。城下町を迷子になりながら、堪能してみて下さい。
2017年05月08日 あわなみ蔵人頭
川越城
川越城に行くまでに道に迷って、住宅街の中をうろついてた私...
川越城は川越駅よりも本川越駅の方が近いので、JRで行く際は、まず本川越の駅へ歩いた方がいいです。
この城の堀跡は古江戸の町の方にあります。
2017年01月22日 天下泰平刑部卿
川越城
近くにある喜多院もいいてすよ。江戸城から移築された客殿や仙波東照宮など川越城の南の守りに相応しい遺構も見られました。
2017年01月05日 かげちゃん参號
川越城
都市開発とかで遺構は、あまり残ってないです。本丸御殿と富士見櫓跡と水堀の一部分しか残ってないです。”小江戸”をぶらぶらしたついでに寄ってみる程度で充分です。
2016年02月26日 武田胆振守信玄餅
川越城
本丸御殿休館日に来てしまいましたが、100名城スタンプは市役所5階の観光課で無事に押せました。小さいサイズもありましたのでご安心を!
2015年10月23日 石田大宰帥いしのすけ
川越城
本日、行ったら、休館でした( ;∀;)
100名城スタンプは、市役所の5F 観光課にあるとの看板が本丸御殿前にありましたので、行ってみました
スタンプは、大小あり、日本城郭協会のスタンプ帳に収まるものもありました。
シャチハタで、インク補充したばかりなのか、かなり、インクが濃かったです。
気をつけたつもりだったのに、対面の八王子城のところにくっきり、写ってしまいました( ;∀;)
あて紙を持参したほうがいいかもしれません。昔、6年ほど住んでいた川越ですので、懐かしかったです!
2015年08月11日 永眠武蔵守釋 葱進
喜多院[川越城 寺社・史跡]
川越の喜多院に、江戸城の「家光誕生の間(客殿)」「春日局化粧の間(書院)」を含む別殿が移築されています。寛永15年の川越大火で境内焼失した後、家光の命令で移築させたそうです。
蛇足ながら、喜多院境内では厄よけだんごが売られています(1本100円)
2015年08月11日 永眠武蔵守釋 葱進
川越城
市立博物館では、学芸員による定時解説が2回(平日)~4回(土休日)行われています。(他の時間帯も支障なければ個別対応可とのこと)
太田道灌の築城から明治期にいたる川越城と蔵の街の歴史を中心に、展示物を使いながらの解説となります。
2015年05月06日 城ノ内山城守夏葉
川越城
本丸御殿で入手したクリアファイルは、表は御殿の写真と城の縄張り、裏は全国の百名城のリストと日本地図がデザインされた優れものでした。
2015年02月15日 武蔵の獅子安房守
川越城
ウォーターボーイズの舞台となった県立川越高校が隣にあります。ちなみにここは県内no.2の進学校です。
2013年09月24日 鶴亀仙人
川越城
川越城は毎週月曜日(ハッピーマンデーの場合は翌日の火曜日)と第4金曜日が休館日なのでご注意下さい。
私はまんまと休館日に来てしまいました(^^;)
休館日でもスタンプは駐車場のおじさんから小片に予め押したものなら貰えます。
また、市役所の観光課に行けばスタンプがありますが、本物よりデカくスタンプ帳のマス目からはみ出るサイズです(>_<)
本物にこだわる方は開館日にお越し下さい。
2013年06月07日 オーロラブレス
川越城
川越城に行ったあとはうなぎがいいですよ!いちのやがオススメ!
2013年02月18日 すかんぴん左馬助
川越城
本丸御殿の駐車場は博物館等の五館共通で無料です。
駐車場にトイレはありますが、本丸御殿の中にもありました。
ここから富士見櫓跡と中ノ門堀跡も徒歩圏内です。
また本丸天神曲輪の三芳野神社は川越城築城以前からのもので、現在の社殿は三代将軍家光の幕命で酒井忠勝が寛永元年に建てたもの。ここは童謡『とうりゃんせ』が生まれた所と言われています。
車を停めたまま、川越観光のメインの蔵造りの一番街も歩いて行かれます。
また、本丸御殿の大広間には天下三槍の一つ結城家の御手杵の槍のカバー?(レプリカ)が展示されてます。川越藩の参勤交代時の馬印だったそうです。
2012年04月11日 傾奇揚げ仙兵衛
川越城
本丸御殿前の駐車場は無料ですが門限があります
2011年08月03日 かつおぶし武蔵守
川越城
ドラマ「JIN-完結編-」の撮影で本丸御殿が使用されたようです。
台本も展示されていて、河越藩でのワンシーンを読むことができました
2010年07月25日 徳川内大臣源朝臣康武
川越城
[武将像]太田道灌像
川越市役所前に鎮座。
2010年07月22日 徳川内大臣源朝臣康武
川越城
中ノ門堀は土塀も復元整備され、平成22年春から公開されています。写真アップしました。
また、現在本丸御殿の保存修理工事が進んでおり、見学できません。
川越城の周辺スポット情報
中ノ門堀跡(遺構・復元物)
富士見櫓跡(遺構・復元物)
外郭南側のライン(遺構・復元物)
八幡郭跡(遺構・復元物)
三の門跡(遺構・復元物)
霧吹きの井戸(遺構・復元物)
二の丸・三の丸の北側ライン(遺構・復元物)
本丸御殿(遺構・復元物)
栄林寺山門(蓮池門移築)(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
田郭の名残(遺構・復元物)
田郭の堀跡(遺構・復元物)
本丸(遺構・復元物)
二の丸跡(遺構・復元物)
三の丸跡(遺構・復元物)
帯曲輪跡(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
拾人部屋(遺構・復元物)
水濠跡(遺構・復元物)
本丸中門(遺構・復元物)
川越城大手門跡(碑・説明板)
蓮池門跡碑(碑・説明板)
田曲輪門跡(碑・説明板)
南大手門跡(碑・説明板)
此の道喜多院西外堀の址(碑・説明板)
本丸門跡(碑・説明板)
河越夜戦の碑(碑・説明板)
旧江戸町(碑・説明板)
旧本町(碑・説明板)
川越野戦説明板(碑・説明板)
伊草の渡し跡・説明板(碑・説明板)
台所(碑・説明板)
川越城七不思議の碑(碑・説明板)
わらべ唄発祥の所(碑・説明板)
川越城図(碑・説明板)
太田道灌公像(碑・説明板)
川越城図(碑・説明板)
本丸御殿玄関前の施設(碑・説明板)
川越城虎櫓跡(碑・説明板)
老袋城(周辺城郭)
喜多院(寺社・史跡)
経ヶ島弁財天(寺社・史跡)
鴉山稲荷神社(寺社・史跡)
三芳野神社(寺社・史跡)
浮島稲荷神社(寺社・史跡)
蓮馨大姉の墓(寺社・史跡)
河越夜戦・激戦地・東明寺 河越夜戦石碑(寺社・史跡)
川越氷川神社(寺社・史跡)
奥貫家長屋門(寺社・史跡)
武家屋敷-永島家住宅(寺社・史跡)
川越八幡宮(寺社・史跡)
本庁舎6階観光課(スタンプ)
川越城本丸御殿受付窓口(スタンプ)
トイレ(トイレ)
トイレ (トイレ)
大手の手洗処(トイレ)
トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
市営駐車場(駐車場)
あぐれっしゅ川越(農産物直売所)(駐車場)
川越市立博物館(関連施設)
川越歴史博物館(関連施設)
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時の鐘(その他)
札の辻(その他)
尾崎古美術店(その他)
撮影ポイント(その他)
蔵造りの町並み(その他)
無料Wi-Fi(その他)
新河岸川(その他)