岩槻城(いわつきじょう)
岩槻城の基本情報
通称・別名
- 岩付城、白鶴城、浮城
所在地
- 埼玉県さいたま市岩槻区太田3-4他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 不明
築城主
- 成田正等
築城年
- 文明10年(1478)
主な改修者
- 北条氏
主な城主
- 成田氏、太田氏、後北条氏、大岡氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 門、曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
春日部氏館(埼玉県春日部市)[4.4km]
江ヶ崎城(埼玉県蓮田市)[5.4km]
代山城(埼玉県さいたま市)[5.4km]
大和田陣屋(埼玉県さいたま市)[6.6km]
松野氏館(埼玉県さいたま市)[6.6km]
土呂陣屋(埼玉県さいたま市)[7.1km]
寿能城(埼玉県さいたま市)[7.2km]
伊奈城(埼玉県北足立郡)[7.8km]
越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市)[9.2km]
大成館(埼玉県さいたま市)[9.8km]
岩槻城の解説文
[引用元:Wikipedia「岩槻城」の項目]
岩槻城(いわつきじょう)は、埼玉県さいたま市岩槻区(武蔵国埼玉郡岩槻)にあった日本の城(平山城)。岩槻藩の藩庁。鎌倉時代以前に築かれ、大宮台地岩槻支台上に立地。別称に岩付城、岩附城、浮城、白鶴城がある。県指定史跡[1]。また周囲の大構(おおがまえ)は市指定史跡となっている[2]。
歴史
鎌倉時代以前
『新編武蔵風土記稿』によると、岩槻の弥勒寺に北条重時が寄附した寛元4年(1246)の鐘銘に「武州埼玉郡[竹斯]輪郷岩付」と彫られてあったといい、同書はこの頃には既に岩付城と呼ばれていた(岩付城があった)と推測している。[3]
室町時代
『鎌倉大草紙』には、古河城にいた古河公方・足利成氏に対抗するため、1457年(長禄元年)、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により、江戸城・河越城とともに築かれたとある[4][5]。(参照情報不足。「取り立てられた」とあるのではないか)
その後、永正7年(1509年)には、古河公方奉公衆である渋江氏が岩付城主となったとみられている[6]。
1990年に長塚孝は、1478年(文明10年)に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したとする史料[7]があることを紹介した[8][9][10]。
2012年に小宮勝男は、成田氏築城説の根拠となった史料で築城者「正等」の子とされている「顕泰」は成田顕泰ではなく、長尾忠景の三男であり太田道真の養子になった人物とし、「正等」は道真の法諱(仏法社会の本名)とみなすべき、と主張した[11]。
戦国時代
扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立から関東も戦乱期に突入する。1522年(大永2年)[12]、太田資頼が岩槻城を奪取し、以後、岩付太田氏の居城となる。伊豆、相模を手中に収めていた北条氏が武蔵に侵攻して岩槻城攻略に乗り出すと、1546年(天文15年)の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的になる中、岩付城はそれに抵抗する太田資正(三楽斎)の居城として機能した。1564年(永禄7年)、資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に内応し資正の追放を断行、岩付城は後北条氏方となった。1567年(永禄10年)、氏資が上総国で戦死すると、氏資には男子がいなかったため、北条氏はこれを契機に岩付城を直轄にする。1580年(天正8年)には北条氏直の弟の源五郎が、その早世後の1585年(天正13年)にはその弟氏房が城主になった(形の上では太田氏の名跡を継いでいる)。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩付城に籠城するが、浅野長吉等に率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。
江戸時代
北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の高力清長が2万石で岩槻城に入った。以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となった。江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入って藩主家が固定、廃藩置県まで大岡氏の居城となった。天守はなかったが、天守代用の櫓として本丸に二層二階の瓦櫓があり、他に杮葺二層二階の二重櫓と同じく杮葺の一層一階の櫛形櫓が本丸に存在した。
明治時代以降
城址公園に黒門と裏門が移築され残っている。黒門は一時浦和の埼玉県庁舎正門として移築されたが、岩槻市に払い下げられ、再度移築した。他に門2棟が移築され残っている。城址公園は曲輪の一部で、本丸があった場所は住宅地となっている。また1988年には地名変更により本丸が成立している。
構造
岩槻城の地形は「岩槻台地の舌状台地上に築かれ、北から東を元荒川が囲繞、その内側には帯曲輪があり、南西方向を除いて沼(堀)に囲まれ」ている。荒川(現在の元荒川)の台地を利用した平山城。また珍しい総曲輪型城郭の縄張りが施されていた。
城下町は、「南西方向は岩槻台地に連続し、武家屋敷が縄張りされ、町人町はその外側の南西から西側にかけてと南東側に配置されている。寺院は町人町の外縁、大構(惣構)の要所要所に配置されている。」。
岩槻城の城跡は「本郭と東に続く二の丸、南の三の丸を中心に茶屋曲輪・天神曲輪・竹沢曲輪・新正寺曲輪・新曲輪などの諸曲輪からなり、沼地であった所へ縄張りして築城した」という。岩槻城の構造は、「西南を首とし東北を後とし、南は濠をめぐらして」いることから浮城・白鶴城などと呼ばれたという。岩槻城の城跡と構築については、城跡が「城下町(本郭の南方)まで含めて周囲に大構(土居)があり、それは城の外郭(周囲約8㎞)に当たり、内から外に土塁・濠・道路の順で構築され」たものであり、小田原城・館林城などのほか、あまり類例は少ないという。岩槻城の規模は、「天保年間の城の規模は大構内総面積99万7293㎡・城内面積10万9560㎡」であった。
岩槻城の本丸(8,930㎡)は城の東北に位置し、「土居を築き濠をめぐらし東北は沼、西南は濠を構えて他の郭(曲輪)と境をなし、車橋番所が重要な検問所となった」。「城内には将軍家の日光参詣の折に用いた茶屋曲輪御成門(本丸の南北)、馬出を構えた大手門(本丸の北西)などの6つの門と7つの木戸を設け警固にあたっていた」。
中世には奥大道(おくだいどう)(鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)、奥州街道(おうしゅうかいどう))沿いに、近世には日光御成街道沿いにあった。また、昔あったとされる水堀の面積は現在確認されている城の中で最大を誇る。堀や沼地は埋め立てられ、本丸や太田などの住宅地となっている。
別名について
岩付城は、太田道灌が築城した際の物語に由来し、別名「白鶴城」、「竹たばの城」、「浮城」などとよばれている。築城を命じられた太田道灌は、沼のほとりで2羽の白鶴が木の枝を水面に落とし、その上に舞い降りたことから、たくさんの竹をたばねて沼に埋め、盛土をして城づくりをし、岩付城ができたという[13]。
『新編武蔵風土記稿』は、「岩付」の呼称は鎌倉時代には既にあり、太田道灌が城を築いたときに、岩石を用いたように堅固な様から「岩築城」と呼ばれるようになったとするのは「後人の附会の説」と評している。
岩槻城址公園
岩槻城址公園(いわつきじょうしこうえん)は、岩槻城を含め周辺を整備した公園である。ほぼ岩槻区太田3丁目の全域に広がる。通称御林(おはやし)公園と呼ばれる。桜の名所としても名高い。園内の菖蒲池は初夏にはスイレンで覆われる[14]。
沿革
旧・岩槻市の都市計画公園として整備され、開園時は岩槻公園(いわつきこうえん)と呼ばれたが、さいたま市との合併に伴い「城址」の2文字が加えられた。14.54ha(計画面積は17.9ha)の起伏の多い公園で、岩槻城址の土塁が今でも残っている。土塁と空堀跡が残る、一部の場所は宗教施設になっている。
園内
園内にある池には、この公園の象徴で、ギザギザの橋が特徴的な朱塗りの八ッ橋が架かる。北側の広場には、子供用の遊具や広い芝生、童人形が時を告げるからくり時計と、東武1720系電車のモハ1726号が静態保存されている。これは、1994年5月に旧・岩槻市の市制施行40周年を記念して、東武鉄道から寄贈された車両である。
その他、さいたま市民会館いわつき、野球場、テニスコート、公民館などの施設が園内にある。
行事
- 毎年4月上旬には桜祭りが開催され、屋台なども出店され賑わう。植木市も開催される。
- 毎年4月29日には岩槻流しびなが行われる。子供の無病息災を願う行事で、現在のひな祭りの起源とも言われている。
- 毎年11月3日には園内西部の人形塚で人形供養祭が行われている。
史跡・文化遺産
- 細淵家住宅長屋門(さいたま市南区):「木造平屋建、瓦葺」である。「岩槻城からの移築という伝承」は信頼性が高い。[15]
- 岩槻城并侍屋敷城下町迄総絵図:江戸時代/18世紀中葉、「紙本着色。画面を内側として、縦7折、横11折し、表面となる2面の内1面に外題(標題)を墨書する。」[16]
- 長谷川家住宅旧店蔵及び主屋:「岩槻旧城下の町人地に位置」する。「旧店蔵 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積49㎡ 主屋 木造平屋建、瓦葺」である。[17]
参考文献
- 【書籍】「埼玉県の地名」
- 【書籍】「角川日本地名大辞典 11 埼玉県」
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岩槻城の口コミ情報
2024年08月07日 あんどー木工頭
岩槻城
本丸や二の丸などの跡は住宅地に整備されてしまったようです。住宅地のなかの各曲輪あとも廻りましたが、ほぼ駐車場のようになっています。唯一、城址公園内には移転された門や土塁、空堀などが見られます。空堀はしっかり歩けますので楽しいですよ。
2024年05月15日 マグロ常陸介祐平
柏崎久伊豆神社(柏崎氏館跡)[岩槻城 寺社・史跡]
久伊豆神社の由緒書によると、柏崎は武蔵七党野与党の一族である箕勾次郎経光の曾孫柏崎次郎為経が開いた村で、神社は当初村の西にある宮台という所に勧請され、その側に柏崎氏の館があったとしています。(余談ですが、風土記稿では柏崎村は栢崎村と誤記されており柏崎氏に関する記事はありません)
事前に調べた岩槻市史の柏崎氏の項では、「柏崎氏が本拠地とした場所は柏崎小学校付近と思われる」としていますが、小学校は神社の東側であり、これは人に聞くしかないとダメモトで居合わせた地元の方に声を掛けてみました。すると「柏崎氏の館跡ならピノチオの倉庫の裏の崖辺りだよ」と即答いただき、北西に800m程離れた該当地への道順を教えてもらいました。
教えていただいた場所は、高台ですが造成地・住宅地・資材置き場になっており、遺構や雰囲気を感じ取ることは出来ませんでしたが、史跡探検としては楽しむことが出来ました。
写真1~6枚目は、台地の縁に位置しそれらしく感じられる久伊豆神社の周辺(お城のサイトで一般的に紹介されている)、写真7,8枚目は教えていただいた館付近です。
2024年04月21日
岩槻城
東岩槻から歩いて20分ほど所にあります。城趾は公園になっており、園内に売店もあります。
見所は朱塗り八ツ橋と堀跡です。特に堀跡は堀障子の痕跡が残っており、その上を歩くことができます。
余談ですが、東岩槻駅の近くにはオランダ軒というラーメン店🍜があり、アド街(1/20放送)で取り上げられていました。朝の8〜9時頃に並んだ方がお得です。
2024年03月25日 みよ釆女正
岩槻城
岩槻城は、道路から江戸時代の移築された裏門ともう一つの門が見れました。堀と土嚢は分かります。当時の名残の池もありました。
2023年11月26日 マグロ常陸介祐平
飯塚神社[岩槻城 寺社・史跡]
江戸時代は久伊豆神社と称し、明治時代の合祀により飯塚神社と改められています。
どこにでもありそうな小さな神社ですが、社殿の裏側には段丘に沿って南北に伸びる土塁状の土盛りがあり、南側には堀切のような道路が通っています。
周囲は平坦地で、土盛りは削平による残土ではないように思われます。
こちらのサイトの赤色立体図でも不自然な土盛りが、ぼんやりと確認できます。
城の遺構ではないとは思いますが、謎の構造物です。
200m程南にある法華寺は、後醍醐天皇の綸旨や足利尊氏の御教書が伝わる古刹で、墓域には足利尊氏の供養塔とされる板碑(写真5枚目)や隠れキリシタンの石仏(写真6・7枚目、3つ並んだ石仏の右側)を見ることができます。(土塁状のものは法華寺関連のものかも)
周辺は、渋江氏館・柏崎氏館・須久毛城・黒谷館などの館跡が点在している地域です。
2023年08月25日 千葉相模守早雲
岩槻城
古河公方足利成氏に対抗するため、太田道真・道灌親子が江戸城、川越城と共に築いたとされています。その後、北条一門の氏房が入り、秀吉の小田原征伐まで北条氏の直轄地となりました。
鍛治曲輪や新曲輪の一部が残り、岩槻城址公園となっているが、本丸があった場所は残念ながら住宅地になっています。公園内に黒門と裏門が移築されて残っています。
本丸・ニノ丸・三ノ丸などの諸曲輪は沼地を天然の堀として作られ、その縄張りの形状から浮島・白鶴城とも呼ばれていたそうです。
鍛治曲輪の土塁・空堀は整備されており、一部に障子堀の案内板もありましたが、埋め戻されているようです。
空堀の規模は大きく折れもあるので、是非堀底ウォーキングをお楽しみあれ😊
1.黒門。
2.鍛治曲輪と新曲輪間の空堀。
3.鍛治曲輪と新曲輪間の空堀。奥に見えるのが障子堀の案内板。
4.鍛治曲輪の土塁。
5.沼地の堀は現在、菖蒲池となり橋が架かる。
6.白鶴城址碑。
7.鍛治曲輪の南側の空堀。深くて大きく堀切ウォーキングが楽しめる。
8.裏門。
2023年04月04日 NAO.H
岩槻城
今は、城址公園となっていて『空堀』等が残っている。残念な事に、ほとんどの遺跡は住宅地になっていた。
2023年04月03日 やむ
岩槻城
4/1時点で満開は過ぎていましたが、良い景色でした。
2023年01月11日 ruiw0302
岩槻城
駐車場はいくつかあり見学に問題はない。岩槻城址公園と言っても本丸構造は住宅地になっていて遺構は感じられなかった。主郭部南をを防御する新曲輪が残されていて、この地域が公園として整備され、岩槻城址公園の名称を拝賜されていた。鎌倉時代に築かれてから変遷を経て明治まで存続した面影を感じることはできると思える。
2023年01月04日 マグロ常陸介祐平
岩槻城
岩槻城址公園は広大な城域の一部で、新曲輪と鍛冶曲輪部分となります。新曲輪を囲む土塁は保存状態がよく、福祉会館と野球場の裏側はあまり整備されていない土塁の上を歩くことができます。城址碑の建つ鍛冶曲輪側は、空堀(当時は水堀?)の底部が遊歩道になっています。両曲輪とも江戸時代にあまり整備されていないようで、近世の城というよりは戦国期の城のような印象を受けました。
2022年10月22日 マグロ常陸介祐平
須久毛城[岩槻城 周辺城郭]
遺構は見当たりません。居館跡には鎌倉時代中期の板碑があり、板碑の説明板に須久毛氏に関する記載があります。板碑好きの人向け。
2022年09月25日 菊左近衛少将
岩槻城
公園として整備され、門が二つ残っていました。池にはカワセミがいるらしく、売店に写真が飾られてました。
2022年07月27日 つか征夷大将軍ぽ
浄国寺[岩槻城 寺社・史跡]
岩槻藩主だった阿部正次、阿部定高らのお墓があります。
2022年07月26日 里のシロクマ侍従
岩槻城
鍛治曲輪、新曲輪そして本丸跡を訪城
岩槻城城門、堀障子、新曲輪への土塁クランク、新曲輪標柱、裏門そして本丸跡と堀跡の坂道
平城、水城の名残りを歩きました。
2022年07月23日 伊達 幸村
岩槻城
土塁、障子堀、説明板、裏門、黒門など遺構が良く残っている。現在は公園として親しまれている。
2022年07月19日 マグロ常陸介祐平
佐枝氏館[岩槻城 周辺城郭]
龍門寺の本堂裏と西側に土塁が残っています。佐枝氏は北条氏の改易後に家康に仕え、その後は尾張藩で千石取りの重臣になっています。墓域には幕末の子孫が建てた戦国期の城主佐枝若狭守の墓や九代将軍家重の側用人の大岡忠光の墓があります。
2022年05月12日 勘解由長官yokkohime
岩槻城
城郭全体の敷地が公園と公共施設で占められています。お城残っていればね~。
2022年04月10日 長森原
岩槻城大構土塁[岩槻城 遺構・復元物]
かつて岩槻城とその城下町を取り巻いていた総延長8kmの土塁と堀は「大構」と呼ばれていましたが、現在殆ど消滅してしまい、残っているのは北側の愛宕神社と、南の加倉口近くのこちらの土塁だけとなってしまったようです。
土塁の前の道は当時水堀だった部分と思われますが、面白い事にこれを道なりに歩いていくと大構の輪郭に沿って城域を一周できる事に気がつきました。
かつての岩槻城大構の堀跡は、大部分が現在の生活道路に転用されているようです。
自分は南の加倉口から新曲輪まで大構のラインに沿って歩いて見ましたが、往時の岩槻城の城域の広大さを実感する事ができました。
何気ない街中の土地の起伏に、城の痕跡を見つけ出すのがお好きな方にはお勧めです。
古地図アプリがあると便利かも知れません。自分は地図アプリ収録の迅速測図(明治陸軍作成の地図)を活用しました。
2022年02月22日 まー刑部卿
高力清長墓[岩槻城 寺社・史跡]
高力清長・竹の局・徳松丸の墓及び供養塔
指定年月日 昭和六〇年九月三日
種 別 記念物(史跡)
所 在 地 岩槻市本町五-一一-四六
所有(管理)者 浄安寺
岩槻藩主高力清長の墓
高力氏は、武蔵武士熊谷直実の後裔と伝え、
三河国(現愛知県)高力郷に住し、高力を姓とした。清長は父祖以来徳川氏に従い武功を挙げ、また清廉潔白の士であったため、家康の信任が厚かった。天正十八年(一五九〇)家康の関東入国の際には、江戸城防衛の重要拠点とされる岩槻城主に封じられた。入封後の清長は、領民の帰住と掌握に努め、寺社の保護や市の奨励を図り、領内の安定に努力するなど、岩槻発展の基を作った。
徳松丸・竹の局墓及び供養塔
徳松丸は、徳川家康の六男松平忠輝の子息である。父忠輝は、伊達政宗の娘、五郎八姫を妻とし、とかく粗暴の振舞が多かったため、大御所家康や将軍秀忠の勘気に触れて、改易、蟄居を命じられた。忠輝は妻との間には子がなく、徳松丸は側室竹の局の子であったが、父の改易に伴い、母子は岩槻城主阿部重次に預けられた。寛永九年(一六三三)四月十三日、母竹の局(見相院)は卒し、続いて同年五月二十七日徳松丸も没し、共に浄安寺に葬られた。徳松丸の法名は朝生院殿珠晴光空大禅定門と号した。
旧岩槻市指定文化財の標柱に書かれていましたがところどころ文字が薄く見づらくなっています。
2021年12月31日 まー刑部卿
岩槻久伊豆神社[岩槻城 寺社・史跡]
岩槻城新正寺曲輪跡に鎮座しています。駐車場有り。
2021年12月31日 まー刑部卿
芳林寺[岩槻城 寺社・史跡]
広大な駐車場があります。太田道灌公騎馬像があります(他に太田道灌公像が一体ありますが撮り忘れました)。また太田氏資公座像や氏資の母であり当寺開基でもある芳林妙春禅尼座像もあります。
また本堂奥に太田道灌公、芳林妙春尼、太田氏資公、仏髙力と呼ばれた岩槻藩初代藩主、髙力正長公の各御霊廟があります。また太田道灌公騎馬像前に岩槻城築城550年記念で描かれた復元図と絵図があります。
2021年12月31日 まー刑部卿
岩槻藩校・遷喬館[岩槻城 遺構・復元物]
専用の駐車場はありません。入口にあるのは向かいにある図書館の駐輪場。説明板には『遷喬館は、江戸時代後期の寛政十一年(1799)に岩槻藩の学者児玉南柯(こだまなんか)が青少年の教育のために創立した家塾で、後に藩校となりました。最盛期には梅林を伴った広大な敷地の中に、武芸稽古所、菅原道真を祀る菅神廟(天神社)、南柯の自宅『梅亭』、築山・池泉、展望台などが設けられていました。
現存する建物は遷喬館の学舎(校舎)として使用されていたもので、十五畳と九畳からなる二間続きの教場を備えています。
江戸時代には全国に多くの藩校がありましたが、県内において保存されている藩校は、遷喬館が唯一のもので、昭和十四年三月三十一日に埼玉県の文化財(史跡)に指定されました。
平成十八年三月 さいたま市教育委員会』
と書かれています。入館無料。
2021年12月31日 まー刑部卿
新曲輪堀跡[岩槻城 遺構・復元物]
薮で入ろうとは思わないが明瞭に確認出来ますが写真だと分かりづらい。除草すれば明瞭になるかと。
2021年12月30日 まー刑部卿
新正寺曲輪石碑[岩槻城 碑・説明板]
東武野田線踏切脇にあります。『元荒川沿いに広がり沼を隔てて本丸を南に望む。西は新正寺口より田中町に続き、東は明戸口より岩槻城主郭に連なる。曲輪内に岩槻城鎮守・久伊豆神社がある。』と石碑に書かれています。
2021年12月30日 まー刑部卿
御茶屋曲輪北端の痕跡[岩槻城 遺構・復元物]
先人の痕跡探しでアパートとフェンス内側のことを言っているらしいです。マミーマート駐車場を利用し徒歩散策です。高低差はありました。
2021年12月30日 まー刑部卿
樹木曲輪馬出の堀の痕跡[岩槻城 遺構・復元物]
先人の痕跡を見て回っていますが示された位置を見ましたが高低差は幾らかありました。自動販売機横のスペースで路駐。
2021年12月30日 まー刑部卿
二の丸[岩槻城 碑・説明板]
ゲオの向かい側に石碑があります。ニノ丸跡ですが地名は本丸です。
石碑横には『本丸の東にある。車橋を経て三の丸に通じる。初めは岩槻城主の居所として、後に日光任参の際の将軍宿泊所として使われた。郭内にあった一対の老杉は道灌箸立杉と呼ばれる名木であった。』と書かれている。
2021年12月30日 まー刑部卿
天神曲輪の痕跡[岩槻城 遺構・復元物]
先人の示した痕跡巡り。石碑も標識もなし。痕跡は道路が食い違いのように鋭く曲がってるところでしょうか。特に見るものもありません。マミーマート駐車場を利用。
2021年12月30日 まー刑部卿
樹木屋敷跡[岩槻城 遺構・復元物]
石碑も標識もありません。高低差はあります。車でお越しの方は本丸跡のマミーマート駐車場にお停めください。
2021年12月30日 まー刑部卿
三の丸[岩槻城 碑・説明板]
岩槻消防署太田出張所敷地内にあり城址公園入口信号機のところに石碑が建っています。
2021年12月30日 まー刑部卿
大手門跡[岩槻城 碑・説明板]
石碑はなく標識が掲示されています。
ここは一方通行ではなく道幅も狭いので車の往来がある時は気をつけてください。路駐も出来ません。何か遺構はないかと思い周りを見てみると大手口を背にして左手のマンションの駐車場に行くと高低差が見受けられますが特に右手に注目して下さい。霊友会第六支部の敷地内と思われます(立入は厳しいかと)が土塁下の高低差がフェンス越しに見て目測5mくらいあり立入ることが出来れば堀跡と確認出来るかと思います。
2021年12月29日 まー刑部卿
さいたま市岩槻郷土資料館[岩槻城 関連施設]
旧岩槻警察署で国登録有形文化財。奥にある駐車場には旧警察署の玄関前に設置されていた掲示板があります(郷土資料館として開館後は郷土資料館掲示板として利用されていたが道路拡幅により駐車場に移築)。移転に伴い展示館として改築。
館内は岩槻城模型や岩槻の歴史を伝える資料館となっています。岩槻城登城前に訪れることをお勧めします。
また駐車場は16時30分まで開放しているので徒歩での散策する方は資料館の方に一言お伝えするといいかと思います。入館無料です。
2021年12月29日 まー刑部卿
日光御成道一里塚跡[岩槻城 碑・説明板]
旧岩槻区役所で現在ではにぎわい交流館いわつき・岩槻人形博物館敷地内にありにぎわい交流館いわつき前にあります。案内図前にあるのでわかりやすいと思います。無料駐車場有り。岩槻人形博物館脇に太田道灌公像がひっそりと建っています。
2021年12月29日 まー刑部卿
時の鐘[岩槻城 関連施設]
旧岩槻市指定文化財(現在はさいたま市指定と思われますが案内表記は旧岩槻市のままでした)で寛文11年(1671)に当時の藩主、阿部正春公により鋳造され渋江口に設置された鐘の音は城内及び城下の人々に時を知らせていましたが50年後の享保5年(1720)鐘にひびが入ったため時の藩主、永井直信公が改鋳したのが現在の鐘。鐘は一日3回撞かれたらしいですが江戸時代後期一日12回撞かれたと書かれています。
鐘楼は嘉永6年(1853)に旧岩槻藩により改建し方13.1m、高さ2.1mの塚の上に建っているとのこと。現地を訪れると専用の駐車場はありません。
また訪れた時間がちょうどお昼の12時前でした。時の鐘を見てみるとある一定の時間になると自動で鳴らされる仕組みと感じ実際に12時になるとしばらく鳴っていました。12時を目安に訪れることをおすすめします。
2021年12月29日 まー刑部卿
米蔵曲輪の痕跡[岩槻城 遺構・復元物]
先人の示した痕跡を見てきました。案内板や石碑等がありませんでした。現在は駐車場となっており幾らか段差になっていました。
2021年12月29日 まー刑部卿
三の丸西堀(北側)の痕跡[岩槻城 遺構・復元物]
先人が示した痕跡を見て回りました。上の台地と下の住居が現在約2m以上あり城があった時はそれ以上あったと思われます。車で周る際は手前の工事中敷地に隣接した広いところがありますが徒歩での散策をおすすめします。
2021年12月29日 まー刑部卿
裏小路公園(旧秋葉邸)[岩槻城 碑・説明板]
岩槻藩士の居住地の道には小路と呼ばれ町人の住む城下町とは区分され両者の境には木戸が設けられていた。ここ裏小路は大手門に繋がる小路、と書かれています。現地では秋葉邸とかかれていましたが規模や秋葉家にまつわる説明文はありませんでした。この辺りは道が狭いので路駐は厳しいです。岩槻郷土資料館に車を駐車し徒歩にての散策がいいかと思います。
また裏小路を南西に進むと藩校遷喬館(駐車場無し)、北東に進むと時の鐘があります。裏小路公園を曲がると旧岩槻区役所のあった現在のにぎわい交流館いわつき・岩槻人形博物館の敷地内に無料駐車場があり楽に周りたい方はこちらのご利用を。人形博物館脇に太田道灌公像があります。
2021年12月29日 まー刑部卿
堀障子[岩槻城 遺構・復元物]
発掘調査より3基見つかっており堀底まで3m埋まっており堀底からの高さ90cm,幅が上が90cm,下で150cmあり、その間隔は9mあったと説明板に書かれています。現地では埋め戻しされて地中で保存されています。
2021年12月29日 まー刑部卿
岩槻城大構跡[岩槻城 遺構・復元物]
土塁の上に鎮座する愛宕神社。かつて城下町側に土塁とその外側にあった堀りが約8km続いていたが廃城後は徐々に消え愛宕神社が鎮座する土塁は貴重な遺構。
社務所は建て替えられて今風。駐車場有り。踏切脇のため出入りにご注意を。
2021年05月16日 玄蕃允アツユキ
柏崎久伊豆神社(柏崎氏館跡)[岩槻城 寺社・史跡]
代山城と岩槻城の間。岩槻太田氏に仕えていたのかな?
2021年05月09日 大宰大弐 たいちゃん
岩槻城
本日、向かったのは岩槻城址。春先に行ったら緊急事態宣言下で駐車場が閉められてて見られなかったので、リベンジしました。
築城は太田道灌とも忍城の成田氏とも言われるが、太田氏の後に後に支配した北条氏の影響が残ってるよう。
ただ、現在残る当時のままの遺構は土塁と空濠の他、移築された黒門と裏門は有ると言えば有ると言う印象。思ったより説明板が少なく、遺構の保存状態も草木が生い茂ってしまい、余り良くない。
これぞ北条という点は障子堀と角馬出だが、障子堀は規模が小さく、角馬出は草木で良く判らない。
う〜む、冬に再度来るべきか、、、(~_~;)
2021年05月07日 織田上総介晃司
岩槻城
岩槻城址公園に一番近い駐車場に停めました。
鍛冶曲輪の堀底はぜひ通ってみてください。
2021年05月06日 vol012修理大夫
本丸跡石碑[岩槻城 碑・説明板]
足利銀行の脇に、本丸跡の石碑と説明板があります。
以前ガソリンスタンドの敷地にあったという石碑と同じものかどうかは、分かりません。
2021年04月30日 つか征夷大将軍ぽ
さいたま市岩槻郷土資料館[岩槻城 関連施設]
岩槻城の模型や歴史展示があります。建物は昭和5年(1930年)に建てられた岩槻警察署旧庁舎を利用してます。
2021年03月25日 扇谷上杉 太田武蔵守資正
管理事務所[岩槻城 関連施設]
管理事務所とテニスコート及び自販機があります。
2021年01月02日 明石家船上
岩槻城
本丸はすでにギッチリ建てつけられた住宅街になつており、城主様がたくさんおられます。後北条氏の時に造成された曲輪では、空堀・土塁が残っており、馬出の形成がわかります。
2020年02月23日 三日左馬助落人
岩槻城
本丸跡にあったガソリンスタンドがショールームに建て替わり、ガソスタ裏にあったという石碑の行方がわからずじまいでした。
地元の方に聞いても「そういえばどこ行ったんだろ…」との事でした(;_;)
2019年05月15日 みめぐり
岩槻城
新曲輪の竪堀☆グランドの回りをぐるっと歩くと、鍛冶曲輪の整備された感じとは異なる堀が見られました(^-^)
2019年04月24日 薩手が島雑兵
鍛冶曲輪南側の虎口[岩槻城 遺構・復元物]
土橋に階段があり、堀底の遊歩道に降りることができます。
2017年10月21日 安田大蔵卿秀俊
岩槻城
城とセットで岩槻太田家菩提寺 芳林寺をオススメします。
・太田道灌 騎馬像
・太田道灌 鷹狩り像
・太田氏資 像
・太田氏資の母 芳林妙春禅尼 像
・太田道灌 分骨墓
・太田氏資 墓
・芳林妙春禅尼 墓
・高力正長 墓 等の銅像と墓所があります。
2017年05月12日 扇谷上杉 太田武蔵守資正
岩槻城
岩槻城(岩槻城址公園)は岩槻駅より徒歩約20分のところにあり、駐車場は第1~第3まである。
公園内には菖蒲池にかかる赤い八ツ橋がある。隣接には遊具や広場があり、休日は家族連れで賑わっている。
カワセミも見られ、写真を撮られる方もいる。
また、空堀跡や黒門があり、散策が可能である。
近くに大手門というレストラン(食堂)があり、B級グルメの豆腐ラーメンがある。
岩槻城址公園の周辺には、太田、本丸、新曲輪等城下町らしい地名がある。
2016年11月13日 神楽宮内卿丞岳
岩槻城
近いのになかなか行けなかった岩槻城を散策しました。
暖かかったこともあり、公園には多くの家族連れで賑わっていました。
駐車場もあり、無料です。
見所は城門もそうですが、鍛冶曲輪は一見の価値はあると思います。
本丸は跡形もないようですが、本丸という地名が残っているのはいいですね。
2013年12月13日 野舘宮内少輔サラマンダー
岩槻城
2013年12月13日13時(70分)
岩槻城址公園を縦断する道沿いに、第一駐車場があります(第三まであるようです)
トイレもあり
第一駐車場のそばには、移築大手門が、もう少し南下すると移築裏門があります
大手門を東に少し入ると、大きな解説板あり
解説板の右手に土塁を通り抜け、その右には復元堀障子と解説板
土塁沿いに歩いていくと、両方が土塁に挟まれた道になり、鍛冶曲輪に着きます
その広場に『白鶴城址碑』が建っています
その北側に池があり、赤い橋が掛かっています
橋を渡ってそのまま進むと、岩槻城址公民館をぐるっと回ります
中でA4サイズの解説書と市内の地図を頂きました
大手門跡は、北上した一つ目の信号左、更に左、消防署脇の細い道を100m程進んだ左手にあり
本丸跡は、同じ信号を右、100m程進んだ右手にあるガソリンスタンドの敷地内に、石碑と解説板があり
敷地内なので、自販機のジュースを購入
土塁が迫力満点な城址でした〜
2013年08月16日 しー武蔵守
岩槻城
こんな近くに土塁と空堀が確認できる公園があったとは(°_°)
2012年06月11日 樋口弾正大弼与六
岩槻城
岩槻城にも遺構は存在します。
スタンドの本丸の石碑、裏手の民間の間に本丸の土塁と空堀が残ります。
又大手口の先に、土塁と空堀がとある施設内に確認出来ます。
2012年06月11日 【隠者】史学会帰新参
岩槻城
岩槻に過ぎたるものがふたつあり、児玉南かと時の鐘、今でも岩槻には時の鐘と児玉南かの藩校の遷喬館の建物があります。戦国時代の大構の土塁が愛宕神社にあります。鍛冶曲輪と新曲輪の空堀と土塁は残っています、本丸以下の遺構は石碑や説明板だけで何もない。岩槻駅から北500Mあたりに郷土資料館があります。
2012年06月08日 ビバちゃん
岩槻城
岩槻城はただの公園?て位観るべき遺構はありません…(>_<)
唯一の見所は「門」だけです。
本丸跡は現在ガソリンスタンドになっていて、その敷地にひっそりと案内板が立っているので最初から知らないと見逃します!
2012年05月29日 GINTOKI
岩槻城
駐車場は第一〜第三ありますが!第三駐車場は、18時迄です!大手門跡にB級グルメ豆腐ラーメンをだす食堂があります!
2012年03月19日 傾奇揚げ仙兵衛
岩槻城
ボロボロの大手門と石碑を挟んで裏門が並ぶ変な公園
2010年07月22日 徳川内大臣源朝臣康武
岩槻城
[武将像]太田道灌像
岩槻区役所に鎮座。
2010年07月14日 ぼん太主膳佑
岩槻城
たしか、本丸跡の史跡はガソリンスタンドにあったような…。
2010年06月24日 ぎっちゃん
岩槻城
市内の民家に城門が移築されてますが、 立派な高麗門で一見の価値あり。でもあくまで民家の門なのでちゃんと断ってからの見学が好ましいですね
岩槻城の周辺スポット情報
鍛冶曲輪南側の虎口(遺構・復元物)
城門(遺構・復元物)
裏門(遺構・復元物)
岩槻藩校・遷喬館(遺構・復元物)
天神曲輪の痕跡(遺構・復元物)
御茶屋曲輪北端の痕跡(遺構・復元物)
本丸北側堀の痕跡(遺構・復元物)
樹木屋敷跡(遺構・復元物)
樹木曲輪馬出の堀の痕跡(遺構・復元物)
三の丸西堀(北側)の痕跡(遺構・復元物)
米蔵曲輪の痕跡(遺構・復元物)
岩槻城大構跡(遺構・復元物)
堀障子(遺構・復元物)
新曲輪堀跡(遺構・復元物)
岩槻城大構土塁(遺構・復元物)
「白鶴城址碑」の石碑(碑・説明板)
二の丸(碑・説明板)
本丸跡(碑・説明板)
三の丸(碑・説明板)
大手門跡(碑・説明板)
渋江町(碑・説明板)
日光御成道一里塚跡(碑・説明板)
本丸跡石碑(碑・説明板)
大手口石碑(碑・説明板)
新曲輪石碑(碑・説明板)
裏小路公園(旧秋葉邸)(碑・説明板)
新正寺曲輪石碑(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
佐枝氏館(周辺城郭)
須久毛城(周辺城郭)
柏崎氏館(周辺城郭)
金剛院(寺社・史跡)
柏崎久伊豆神社(柏崎氏館跡)(寺社・史跡)
浄安寺(寺社・史跡)
高力清長墓(寺社・史跡)
岩槻久伊豆神社(寺社・史跡)
芳林寺(寺社・史跡)
浄国寺(寺社・史跡)
飯塚神社(寺社・史跡)
ヘアーミックスカトウ(御城印)
水野書店(御城印)
田中屋本店(御城印)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
時の鐘(関連施設)
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さいたま市岩槻郷土資料館(関連施設)
八ッ橋(関連施設)
太田道灌公像(その他)