高力清長墓
高力清長墓([岩槻城 寺社・史跡])
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高力清長墓の口コミ情報
2022年02月22日 まー刑部卿
高力清長・竹の局・徳松丸の墓及び供養塔
指定年月日 昭和六〇年九月三日
種 別 記念物(史跡)
所 在 地 岩槻市本町五-一一-四六
所有(管理)者 浄安寺
岩槻藩主高力清長の墓
高力氏は、武蔵武士熊谷直実の後裔と伝え、
三河国(現愛知県)高力郷に住し、高力を姓とした。清長は父祖以来徳川氏に従い武功を挙げ、また清廉潔白の士であったため、家康の信任が厚かった。天正十八年(一五九〇)家康の関東入国の際には、江戸城防衛の重要拠点とされる岩槻城主に封じられた。入封後の清長は、領民の帰住と掌握に努め、寺社の保護や市の奨励を図り、領内の安定に努力するなど、岩槻発展の基を作った。
徳松丸・竹の局墓及び供養塔
徳松丸は、徳川家康の六男松平忠輝の子息である。父忠輝は、伊達政宗の娘、五郎八姫を妻とし、とかく粗暴の振舞が多かったため、大御所家康や将軍秀忠の勘気に触れて、改易、蟄居を命じられた。忠輝は妻との間には子がなく、徳松丸は側室竹の局の子であったが、父の改易に伴い、母子は岩槻城主阿部重次に預けられた。寛永九年(一六三三)四月十三日、母竹の局(見相院)は卒し、続いて同年五月二十七日徳松丸も没し、共に浄安寺に葬られた。徳松丸の法名は朝生院殿珠晴光空大禅定門と号した。
旧岩槻市指定文化財の標柱に書かれていましたがところどころ文字が薄く見づらくなっています。