館林城(たてばやしじょう)

館林城の基本情報

通称・別名

尾曳城

所在地

群馬県館林市城町甲23-1他

旧国名

上野国

分類・構造

梯郭式+連郭式平城

天守構造

型式不明[3重/1590年築?/破却(廃城)]、二重櫓[2重/1707年築/焼失]

築城主

赤井照康

築城年

弘治2年(1556)

主な改修者

榊原康政

主な城主

赤井氏、榊原氏、松平氏、徳川氏

廃城年

明治7年(1874)

遺構

曲輪、土塁、虎口

指定文化財

県重要文化財(館林城鐘)、市史跡(館林城跡、館林城本丸土塁および八幡宮)

再建造物

門、石碑、説明板

周辺の城

椿田城(栃木県佐野市)[4.5km]
高松城(栃木県足利市)[6.0km]
植野城(栃木県佐野市)[6.4km]
羽生城(埼玉県羽生市)[7.6km]
中野城(群馬県邑楽郡)[7.6km]
佐野城(栃木県佐野市)[8.9km]
藤岡城(栃木県栃木市)[8.9km]
赤岩城(群馬県邑楽郡)[10.3km]
岩井山城(栃木県足利市)[11.7km]
小泉城(群馬県邑楽郡)[12.0km]

館林城の解説文



館林城(たてばやしじょう)は、群馬県館林市城町3(上野国邑楽郡館林)[1]にあった戦国時代から江戸時代の日本の城。尾曳城(おびきじょう)ともいう。館林市指定史跡[2]

概要 

15世紀に築かれたとされる。ただ、築城時期・築城者には諸説ある。天正年間10万石で入城した徳川四天王の一人榊原康政が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた。城沼を濠として利用、本丸以下7郭 (約43ha) 。現在、一部の遺構を残しているのみで、跡地に市役所、文化会館、市立図書館、向井千秋記念子ども科学館などが建てられている。

歴史・沿革 

室町時代

江戸時代に書かれた『館林記』によれば、大袋城(現館林市花山町)主であった赤井照光が子キツネを助けたところ、親キツネが恩に報いるため館林城の縄張を行ったという。縄張がキツネの尾によって曳かれたことから「尾曳城」と名付け、弘治2年(1556年)に竣工したとする。城内の稲荷曲輪には尾曳稲荷神社が建てられ崇められた。

現在確認されている館林城について書かれた最古の文献は、享徳の乱の中、文明3年(1471年)に長尾景信・景春父子、長尾忠景ら上杉軍が、足利成氏方の赤井文三・文六の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。

戦国時代

永禄5年(1562年)2月17日、上杉謙信に従った長尾景長により、館林城は落城。城主赤井文六は追放された。館林城に入った長尾景長は4月5日には家臣への知行宛行いをしている。

永禄9年(1566年)に上杉謙信が臼井城の戦いで敗れた結果、東上野の領主達は北条氏に寝返り、長尾景長もこれに同調した。越相同盟で巻き返しを図った上杉謙信は永禄13年(1570年)には佐野城を攻め、その恩賞として館林城を広田直繁に与えた。長尾景長の跡を継いだ長尾顕長により館林城は取り戻されたとみられ、顕長は元亀4年(1573年)に雷電神社の社殿の造営を行っている。

天正12年(1584年)、北条氏照の軍勢が館林領に侵攻し、翌年初には館林城の明渡しが行われ、長尾顕長は北条氏直と対面して服従を誓い赦免を受けて足利へ退いた。館林地域は北条氏の直轄領となり、『館林城主代々覚書』等の記録によれば館林城代を韮山城主北条氏規が兼務、城将として南条昌治が支配したという。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、館林城も落城した。『関八州古戦録』等の軍記物では石田三成が落城させたことが伝えられるが、石田三成が小田原包囲から忍城攻撃に向かったのが5月5日であり、佐竹義久の4月29日付書状により同日までに館林城が落城していることが判明するため、史実ではない。

同年、徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となった。

江戸時代

江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。

かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり威容を誇っていたが、天和3年(1683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となった。

宝永4年(1707年)六代将軍徳川家宣の弟松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられた。1718年には再建費のための増税に苦しんだ農民により館林騒動が起こった[3]

近現代

城の建物の大半は明治7年(1874年)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。

歴代城主

家名、説明、藩主名、在任期間、石高

  • 榊原氏
  • :三代続いたが、寛永20年(1643年)に陸奥白河に転封したため、その後館林領は一時天領となった。
    • 榊原康政 天正18年(1590年) - 慶長11年(1606年) 10万石
    • 榊原康勝 慶長11年(1606年) - 元和元年(1615年) 10万石
    • 榊原忠次 元和元年(1615年) - 寛永20年(1643年) 11万石

  • 大給松平家
  • :正保元年(1644年)、遠江浜松から老中松平乗寿が6万石で館林城に入り、その跡を乗久が継いで寛文元年(1661年)に下総佐倉に転封した。
    • 松平乗寿 正保元年(1644年) - 承応3年(1654年)  6万石
    • 松平乗久 承応3年(1654年) - 寛文元年(1661年)  5.3万石

  • 館林徳川家
  • :4代将軍徳川家綱の弟綱吉が10万石の加増を受け25万石で入封した。延宝8年(1680年)に綱吉が家綱の養子になって5代将軍になると、その子徳松が家督を継いだが、天和3年(1683年)に徳松が急死すると廃藩となって再び天領となった。この時、城は壊されている。
    • 徳川綱吉 寛文元年(1661年) - 延宝8年(1680年) 25万石
    • 徳川徳松 延宝8年(1680年) - 天和3年(1683年) 25万石

  • 越智松平家
  • :宝永4年(1707年)、松平清武が2万4千石で入封し、宝永7年(1710年)には1万石加増、正徳2年(1712年)には2万石加増されて5万4千石となった。その後、清武の跡を養子武雅が継いだ。
    • 松平清武 宝永4年(1707年) - 享保9年(1724年)  5.4万石
    • 松平武雅 享保9年(1724年) - 享保13年(1728年)  5.4万石

  • 太田氏
  • :松平武雅の跡を養子武元が継いだが、武元が家督を相続した日に陸奥棚倉へ転封になり、同地から太田資晴が5万石で入封した。若年寄の太田資晴は享保19年(1734年)に大坂城代となり、そのため館林領は再度天領となり、城番を置いた。元文5年(1740年)、太田資晴の子資俊が5万石で入封するも、延享3年(1746年)に遠江掛川に転封となった。
    • 太田資晴 享保13年(1728年) - 享保19年(1734年)  5万石
    • 太田資俊 元文5年(1740年) - 延享3年(1746年)  5万石

  • 越智松平家
  • :太田資俊の後は陸奥棚倉より松平武元が5万4千石で入封した。松平武元は明和6年(1769年)に7千石の加増を受けて6万1千石となった。武元の後は、武寛、斉厚と続いて、斉厚は天保七年(1836年)に石見浜田へ転封となった。
    • 松平武元 延享3年(1746年) - 安永8年(1779年)  6.1万石
    • 松平武寛 安永8年(1779年) - 天明4年(1784年)  6.1万石
    • 松平斉厚 天明4年(1784年) - 天保7年(1836年)  6.1万石

  • 井上氏
  • :井上正春が6万石で陸奥棚倉より入封し、弘化2年(1845年)には遠江浜松へ転封。
    • 井上正春 天保7年(1836年) - 弘化2年(1845年)  6万石

  • 秋元氏
  • :井上正春の後は、出羽山形から秋元志朝が6万石で入封した。秋元志朝は、文久2年(1862年)に雄略天皇陵の修復に着手する。元治元年(1864年)に養子の礼朝が襲封する。礼朝は戊辰戦争時、新政府軍に加担、関東・東北方面の戦争に部隊を派遣した。館林藩は明治3年(1870年)に廃藩して館林県となった。
    • 秋元志朝 弘化2年(1845年) - 元治元年(1864年)  6万石
    • 秋元礼朝 元治元年(1864年) - 明治2年(1869年)  6万石

構造 

城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突き出す形の低台地に、本丸(子ども科学館南側)、二の丸(現在は市役所)、三の丸(現在は文化会館)、八幡郭(くるわ)、南郭を置き、これらを取り囲むように稲荷郭、外郭、惣郭を構え、さらにその西方に城下町を配置し、それらを土塁と堀によって囲んでいた。

土橋門

土橋門は、昭和58年(1983年)、城下町・館林のシンボルとして城壁とともに復元された。 この門は、城の中心部に通じる三の丸に設けられ、千貫門(せんがんもん)に対し、通用門として使われた。「土橋門」という名前の由来は、門前の内堀に架けられた「土橋」からきたと言われている。また、防御用に黒色の鉄板が打ち付けられており、地元では「黒門」とも呼んでいる。

千貫門跡

千貫門は三の丸の北面中央にあった、城内にある重要な門の1つ。その形態は渡櫓門で、土橋門が通用口であるのに対して武士の正門とされていた。

左上のレリーフは、館林出身の版画家・藤牧義夫の作品『山岳画集』に収められているもので、尾曳神社に奉納されている館林城絵馬を参考に描いたものともいわれる。

大手門

大手門は、現在の三角公園(大手町)の東北隅にあって、東側の侍屋敷、西側の城下町を隔てていた。ここから東へ約400メートルにわたり通称「大名小路」と呼ばれる大路が伸び、広小路、千貫門へと続いた。現在では、土塁や濠などは姿を消し、大手門跡碑が残されているのみである。

観光 

アクセス

  • 東武鉄道伊勢崎線館林駅下車、徒歩約15分
  • 東北自動車道・館林ICから約10分

オープン・クローズ

特に制限はない。

参考文献 

館林城の口コミ情報

2023年05月08日 三上駿河守
館林城



遺構としましては、本丸跡と三の丸跡に土塁が残っています。三の丸跡に復元された土橋門が建っていますが、個人的にはそれが一番の見どころだと思います。電車ですと館林駅東口から土橋門まで徒歩15分くらいです。

2023年04月28日 マグロ常陸介祐平
茂林寺[館林城  寺社・史跡]



分福茶釜で有名なお寺で、室町時代中期の応永33年、美濃土岐氏に出自をもつ僧の開山です。青柳城主赤井照光の寄進により建立され、大旦那として維持されていました。

このお寺、南側に高さはありませんが土塁にも見える土盛りがあり、西側は空堀のような窪地があります。また、北側は湿地と沼になっています。

本物の城跡も寺社仏閣となっているケースが数多くありますが、このように寺社そのものに土塁があるのも珍しくないので、城の遺構との見分けは難しいと感じました。

分福茶釜は、300円の拝観料で見ることが出来ます。

2023年04月26日 千葉相模守早雲【権六】
館林城



徳川四天王の一人・榊原康政や徳川幕府5代将軍・綱吉が城主を務めたことがある城です。

残念ながら、明治になって建物の大半は消失してしまったそうですが、本丸や三の丸などには土塁の一部が残り、三の丸には土橋門が復元されています。この一角は当時の雰囲気を十分に感じることが出来ますので、是非タイムスリップしてみてください。

1土橋門①
2.土橋門②
3.土橋門③
4.三の丸土塁

2023年04月08日 まー刑部卿
鷹匠町[館林城  碑・説明板]



『鷹匠とは、鷹を訓養し、鷹狩に従事する役職名で、この通りに面した町並は、鷹匠町と呼ばれ、鷹匠の居住していた所である。』と書かれています。館林城侍町の一つである外伴木(現・尾曳町)に現存した武家屋敷を移築した武鷹館の建物の前にあります。

2023年04月08日 まー刑部卿
佐野口御門跡[館林城  碑・説明板]

石碑の裏側に説明がありました。
『館林城当時、城下町の出入口としてあった五ヶ所口のひとつである
城下町を南北に貫く街道(日光脇往還)の北の要として木戸守が置かれ、佐野(佐野市)方面へ通じるところから佐野口と呼ばれた』と書かれていました。

2023年04月02日 まー刑部卿
竹生島神社[館林城  寺社・史跡]



江戸時代は城沼の入り江となっていた場所で、弁天が祀られて『浮島弁天』と呼ばれ、明治期に城下町の近江商人によって琵琶湖の竹生島神社を勧請した。境内に昭和初期に行われた城沼耕地整理記念碑があり、低湿地開拓の歴史を物語る。

2023年04月02日 まー刑部卿
木挽町[館林城  碑・説明板]



『木挽職、材木屋に雇われて製材をする職人で、この通りに面した町並は、木挽職人の居住した町として木挽町と呼ばれた。』と書かれています。

2023年04月02日 まー刑部卿
代官町[館林城  碑・説明板]

『代官は名主を支配し、収納等、政治をつとめる役人である。
ここは、代官の居住地であったことから代官町と呼ばれた。』と書かれています。

2023年03月21日 徳川右京大夫家康
館林城

現在市役所になっていますが、遺稿が残り良い雰囲気が残っています

2022年04月25日 マグロ常陸介祐平
館林城



旧秋元別邸の裏に館林城出土墓石墓石群があります。以前は城主一族佐貫氏の墓と認識されていたようですが、現在では石垣修築の代用石と考えられているようです。周囲はツツジが満開ですので館林城は今がおすすめです。

2022年01月10日 ひ〜ふ〜
館林城

三の丸の土橋門が復元され、周辺の土塁と一緒に散策出来ます。本丸は広い公園になっているので、当時の面影は少ないかと思います。

2021年05月28日 まー刑部卿
竜の井[館林城  関連施設]



『旧善導寺本堂前にあった井戸。元々は土橋村・加法師村の間にあったのを榊原康政公が館林入城の際に城下町整備に伴い移転。
昭和61年館林駅前広場整備に伴い楠町へ移転。竜の井・青龍の井戸・城沼が繋がっているという伝説も伝えられている城下町館林ゆかりの井戸』と現地説明板に記されています。無料駐車場3台。

2021年05月22日 まー刑部卿
小泉口御門跡[館林城  碑・説明板]



佐野口御門跡と同様に石碑のみ、説明板なし。奥に見えるのは館林駅、製粉ミュージアムです。

2021年05月22日 まー刑部卿
台宿町北東角土塁と堀跡[館林城  遺構・復元物]



ここは、すみれの里という介護老人保健施設前の位置にあたります。
堀跡は草で見えませんが降雨の後のためか水が湿っています。道幅が狭いため路駐しない方がいいかと。特に登下校は中学生が大勢通りますのでご注意を。

2021年05月22日 まー刑部卿
総郭土塁(台宿町土塁)と堀跡[館林城  遺構・復元物]



土塁の内側は現在館林市立第一中学校です。外側から見ています。駐車場やアパート敷地内やら堀跡のから見ると土塁は藪のようでハッキリとはわかりませんが発掘調査が入っているため内部詳細は書籍で確認出来ます。

2021年05月22日 まー刑部卿
館林城



佐野口御門跡の石碑の裏辺りを見てみると堀跡がよくわかります。現在住宅が建っていますが平成6年に宅地造成に伴う事前確認の発掘調査が行われました。東西方向に90m程土塁が確認。現在も一部が残存。幅約13m、高さ約2mで発掘されたのは陶器小破片のみ、とありました。

2021年05月22日 まー刑部卿
総郭土塁(朝日町土塁)と堀跡[館林城  遺構・復元物]



佐野口御門跡から東側に歩くと右手に高台の家が途中で竹林になる。堀跡もくっきりわかる。高土塁と堀跡がよくわかる場所です。
総郭東側の端になります。ここから南に行くと加法師口御門跡に向かうことになります。

2021年05月22日 まー刑部卿
佐野口御門跡[館林城  碑・説明板]



門についての説明板はない。石碑の裏側の高低差を見てみると高い方が土塁、低い方が堀跡。このまま東(写真で見ると正面)に進むとよりわかりやすい。

2021年05月17日 まー刑部卿
土塁跡[館林城  遺構・復元物]



尾曳稲荷神社の拝殿から左回りして本殿裏にある土塁跡です。
『館林城と中近世の遺跡(館林市史)』の72頁に掲載されています。

2021年05月17日 まー刑部卿
館林城溝状遺構[館林城  遺構・復元物]



『本丸跡に建つ向井千秋記念子ども科学館建設に先立って行われた発掘調査して発見され移設復元されたもの。現在置かれている場所から約20Mほど北西で発見。長さ18M、幅0.4M、人の頭より大きい石を並べて壁を作り拳大〜人頭大の自然石を底に敷き詰めていた。』と述べています。

2021年05月16日 まー刑部卿
町検断の門[館林城  関連施設]



『江戸時代に検断職を務めた青山家の屋敷のあった場所で青山家の屋敷門の一部と考えられている。検断とは役所と町人の間を取り持つ町役人。』と説明板に書いてありました。道路側から見ると最近建てたような雰囲気でしたが裏側に説明板と標柱があります。
館林市指定重要文化財。

2021年05月16日 まー刑部卿
館林城大手(追手)門跡[館林城  碑・説明板]



三角公園にあるが説明の石碑のみ。
石碑も見落としてしまうほどの小ささ。

2021年04月08日 おかっぴき
館林城



昔の建物は残ってませんが、復元した門や土塁、説明板などはあります。散歩ついでに散策すると良いでしょう。

2018年10月13日 織田上総介晃司
館林城

館林つつじが岡公園の駐車場が広いです。

三の丸跡に土塁と復元された土橋門があり、本丸跡に土塁と僅かに石垣が残ってます。

通り道にあったのでいきなりリア攻めしたため、三の丸は見たのだが本丸は見のがしてしまった…
リア攻めは充分調べてからのほうがいいですよ。

2017年05月27日 左衛門佐平八郎
館林城

館林城散策に行かれたら 榊原康政公の墓所も訪れてみるのもお薦めです
館林城の天然の要害「城沼」の北部にある「善導寺」に眠っています

榊原家の墓には、初代の榊原康政・榊原康政の長男の大須賀忠政・榊原康政の三男で二代の榊原康勝・側室で榊原康勝の母の花房氏の4人が埋葬されていました しかし 大須賀忠政の遺骨は確認されず その他の3体の人骨が確認されています
榊原康政の死去に伴って殉死した南 直道の墓も一緒に移転され かつての主の榊原康政の墓の脇に死後も仕えています

康政公の死後 小姓の頃より一緒に槍働きしてきた徳川四天王の本多忠勝も訃報を聞いて館林に駆けつけ 亡骸を抱きながら号泣したと伝わってます

2017年05月12日 
館林城

駐車場は、いろんなところにあります。
見学したいところの近くの駐車場を選んでも良いし、周辺を散策しながら一周も、
結構楽しいです。
電車の場合、東武鉄道伊勢崎線館林市駅から、徒歩15分くらいです。
城沼を自然の要害とした平城で、
尾曳城とも言われています。
近くに尾曳神社もありました。
一番の見所は、館林市文化会館近くが、
三ノ丸になっていて、そこにある土橋門です。
土塁も残っています。
また、五代将軍、徳川綱吉にゆかりの地であります。
近くに田山花袋記念文学館もあり、
その中に石垣の一部が残っています。
菖蒲園の近くには、館林城出土墓石群もあります。
また、ちょっと見つけづらいですが、八幡宮が本丸跡になっています。
近くにつつじが岡公園もあり、
見所満載で、1日楽しめました。

2016年06月11日 永眠武蔵守釋 葱進
館林城

案内板のある主なみどころは
・土橋門とその付近の土塁(文化会館北)
・千貫門跡の碑(市役所駐車場付近)
・本丸南側の土塁(こども科学館付近)
などですが他にも、
・八幡郭北側の土塁(旧秋元別邸付近)
・八幡郭から南郭にかけての土塁(公園内)
・外郭土塁(女子高プールの裏)
などにも遺構があります。
また、館林城築城に縁ある狐伝説が伝わる尾曳稲荷神社の参道は、稲荷郭土塁上に位置しています。

2015年07月07日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
館林城

梅雨時は水鳥の臭いがスゴいので…お天気のいい時期に散策をオススメします。

科学館の反対側、上毛モスリンの建物の隣に田山花袋の旧居があります。武家屋敷を利用したものだそうです。

2014年12月12日 副将軍夢幻の如くなり
館林城

 館林市では、市制60周年記念事業として、館林市役所の中に幕末時の館林城のジオラマが完成して、このほど公開されました。
 本丸・南郭・八幡郭・二の丸・三の丸・稲荷郭・外郭が再現されています。個人的には見応えありました。
 機会がありましたらせび見に来て下さい。

館林城の周辺スポット情報

 土橋門跡(遺構・復元物)

 本丸土塁(遺構・復元物)

 館林城溝状遺構(遺構・復元物)

 土塁跡(遺構・復元物)

 総郭土塁(朝日町土塁)と堀跡(遺構・復元物)

 総郭土塁(台宿町土塁)と堀跡(遺構・復元物)

 台宿町北東角土塁と堀跡(遺構・復元物)

 館林城鐘(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 館林城出土墓石群(遺構・復元物)

 千貫門跡(遺構・復元物)

 館林城大手(追手)門跡(碑・説明板)

 佐野口御門跡(碑・説明板)

 小泉口御門跡(碑・説明板)

 榊原康政公墓跡(碑・説明板)

 秋元春朝投網の像(碑・説明板)

 館林城説明板(碑・説明板)

 代官町(碑・説明板)

 木挽町(碑・説明板)

 加法師口御門跡(碑・説明板)

 鷹匠町(碑・説明板)

 青柳城(周辺城郭)

 善導寺 榊原康政候墓所(寺社・史跡)

 茂林寺(寺社・史跡)

 尾曳稲荷神社(寺社・史跡)

 応声寺(寺社・史跡)

 竹生島神社(寺社・史跡)

 青梅天満宮(寺社・史跡)

 つつじ映像学習館(御城印)

 町検断の門(関連施設)

 竜の井(関連施設)

 青龍の井戸(青龍神社)(関連施設)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore