赤岩城(あかいわじょう)
赤岩城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県邑楽郡千代田町赤岩桜山1036他
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 佐貫嗣綱
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 佐貫氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
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中条氏館(埼玉県熊谷市)[4.1km]
小泉城(群馬県邑楽郡)[6.4km]
成田氏館(埼玉県熊谷市)[6.5km]
中野城(群馬県邑楽郡)[6.7km]
皿尾城(埼玉県行田市)[7.1km]
忍城(埼玉県行田市)[8.0km]
別府城(埼玉県熊谷市)[8.9km]
高松城(栃木県足利市)[9.6km]
館林城(群馬県館林市)[10.3km]
羽生城(埼玉県羽生市)[10.6km]
赤岩城の口コミ情報
2024年07月19日 マグロ常陸介祐平
舞木城[赤岩城 周辺城郭]
住宅地の公園にお城の説明板と「藤原秀郷公生誕之地」の石碑が建っています。日本城郭大系には、小学校が城跡で、南にわずかに堀を残すだけとありますが、付近に小学校はありません、廃校になったのでしょうか。周囲に遺構は見られません。大袋城の赤井照光が親類(甥)の舞木城主俵秀賢へ年始参りに行く途中に助けた子キツネに導かれて館林城を築いたとされており、俵藤太秀郷の子孫である俵(田原)氏が城主とされています。
石碑の裏面には、文字がびっしりと書かれていますが、内容は秀郷の功績で、城に関しては唐沢山城についてとなっています。石碑の文字を揮毫したのは皇道派の代表格で犬養・斎藤内閣で陸軍大臣、近衛・平沼内閣で文部大臣を務め、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身禁固刑を言い渡された陸軍大将の荒木貞夫です。
2024年07月18日 マグロ常陸介祐平
中島将監館[赤岩城 周辺城郭]
「藤原秀郷公誕生之地」の石碑の建つ舞木城から2kmほど北にある館です。土塁の痕跡に見えなくもない土盛りに「中島将監屋敷」の石碑が建っています。
石碑の裏面には長文となりますが「中島将監屋敷跡は、面積約一町歩(一ヘクタール)、西南は用水路で区画され(昔は溝堀)、北西には溝堀の旧跡がある平林でしたが、明治四十一年(1908)に畑地になったといわれています。ここに、宝亀年間(770~781)頃、中島三郎太郎家綱という郷士が住み、富子という美しい娘がいました。その頃、都から藤原小黒麻呂が諸国巡検のために上野国に入り、この中島館に滞在しました。その時、富子との間に知勇兼備の男子が生まれ、やがてその子孫が広く佐貫荘一円(邑楽・館林地方)を治めていたと伝えられています。」とあります。周辺には古墳が散在しており、古くから栄えた土地であることは間違いないと思いますが、武士の発生前の奈良時代の館というのは無理がありそうです。日本城郭大系の舞木館の項では、舞木城ではなく、こちらが舞木駿河守持広の館としています。
大変不思議に思えるのは、佐貫氏の先祖を秀郷ではなく「小黒麻呂」にしていることです。館林城主の赤井氏(舞木氏はその庶流)は、小黒麻呂の後裔説もあるようなので(他に文屋説・清和源氏説・秀郷流佐貫一族説)、石碑の文中の佐貫荘を治めた一族は佐貫氏(生まれた子は佐貫太郎資高とされる)ではなく赤井氏(舞木氏)を指すのかもしれません。ただし、当の赤井氏は、小黒麻呂(鳥養流)でも秀郷(魚名流)でもなく長良(真楯流)を祭神とした長良神社(地元では大蛇退治の伝説がある)を創建しており、長良神社の分布は赤井氏の勢力範囲と近いものがあります。ややこしいですね。
2024年07月17日 マグロ常陸介祐平
細谷館[赤岩城 周辺城郭]
細谷氏は、新田政氏の庶長子細谷国氏を初代とする新田一族で、三代目秀国は新田義貞に従い南朝方で活躍し、右馬助に任官しています。義貞が越前で戦死すると上野に帰り、この地に館を構えています。戦国期は小泉城主の富岡氏に仕えています。一族からは、金山城の由良氏に仕えたものもいるようです。
お城は方形の館で、東西160m、南北130m、虎口は内枡形となっており、東側と南側は堀がよく残っています。敷地内は住宅となっている為、見学は外周のみとなります。
近くの五位堂は、細谷秀国の墓所となっていますが、墓石は確認出来ませんでした。
2023年11月28日 国府左京大夫城介
舞木城[赤岩城 周辺城郭]
藤原秀郷が築いたと伝わる平城
【歴史】
藤原秀郷が承平年間(931~937)に築城した伝わる。
その後、秀郷の子孫である佐貫氏(舞木氏)が佐貫荘(館林市周辺)を治めていた。
永享の乱においては、舞木持広が鎌倉公方の足利持氏に与していたが、討ち死にしている。その後に起きた享徳の乱の初期では、古河公方の足利成氏に協力し、成氏からは佐野氏・岩松氏と共に「三大将」として重用されていた。
しかし、15世紀中頃になると、舞木氏の寄騎でもあった赤井氏が力を付け、佐貫荘を掌握している。享禄年間(1528~1531)までは、赤井氏に用いられていたようで、「館林盛衰記」によると、赤井照光が大袋城から舞木城へ年始の道すがらに子狐を助け、その狐に導かれて館林城(尾曳城)を築城したと記されている。
【遺構】
赤岩城の北西約750mほどに位置し、周囲に土居や溝渠を巡らせた平城であったが、現在は遺構は消滅している。
城跡を示すものとしては、説明版と「藤原秀郷公誕生之地」の石碑がある。
【感想】
開発に伴い、遺構は一切残っておらず、石碑と説明板しか残っていないのが残念です。
説明板では藤原秀郷が”築いた”城だけど、石碑は”誕生の地”となっているけど、どっちが正しいんでしょうね。そもそも、本当に藤原秀郷がここに居たかの真偽は不明ですが、その末裔がこの地に勢力を保っていたことは事実なので、その辺りから発生した伝承なのかと思います。
【アクセス】
太田駅からレンタサイクルで約1時間。
赤岩城(光恩寺)からは徒歩6,7分。
【写真】
①説明板
②「藤原秀郷公誕生之地」の石碑
③全景
2021年08月14日 マグロ常陸介祐平
赤岩城
光恩寺の山門前に空堀の痕跡(写真2枚目)、背後には高い土塁(写真5,6,7枚目)が見られます。境内には鎌倉時代の地蔵菩薩画像板碑(写真3枚目)、梵鐘、移築された日本最初の女医の荻野吟子の生家長屋門と銅像、大きな前方後円墳上の館林城主赤井昭光の墓(写真4枚目)などが見られます。
2016年05月22日 永眠武蔵守釋 葱進
赤岩城
光恩寺(赤岩城)訪問されたら、先の口コミにもあるように城とゆかりの深い赤岩渡船に乗ることをおすすめします。
乗船場付近には駐車場もあるので、車利用の方も気軽に楽しめます。
県道扱いのため乗船料は無料、渡った先の葛和田(くずわだ)からは熊谷駅行きのバス(一時間一本程度)も運行されています。
2015年04月19日 ⛫武蔵の越前守の謙
赤岩城
近くの赤岩渡船場は戦国時代(永禄年間)に上杉謙信軍も渡河したという。
赤岩城は水上交通の要所である『赤岩の渡し』を抑える役割を担っていたと思われる。
2015年03月21日 牢屋見廻り同心マダオ
赤岩城
光恩寺内にある前方後円墳「堂山古墳」前方部に赤岩城及び初代館林城主「赤井照光の墓」があります。
2012年07月05日 樋口弾正大弼与六
赤岩城
光恩寺山門の左手に、かなり埋まってますが空堀が有り又本堂のやはり左手に空堀、土塁が確認出来ます。
2012年07月04日 のり修理大夫かず
赤岩城
地図にある、光恩寺に、いってきましたが、赤岩城の痕跡を見つける事が出来ませんでした
山門の前の空堀何かが、名残かなぁ…。