舞木城
舞木城([赤岩城 周辺城郭])
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舞木城の口コミ情報
2024年07月19日 マグロ常陸介祐平
住宅地の公園にお城の説明板と「藤原秀郷公生誕之地」の石碑が建っています。日本城郭大系には、小学校が城跡で、南にわずかに堀を残すだけとありますが、付近に小学校はありません、廃校になったのでしょうか。周囲に遺構は見られません。大袋城の赤井照光が親類(甥)の舞木城主俵秀賢へ年始参りに行く途中に助けた子キツネに導かれて館林城を築いたとされており、俵藤太秀郷の子孫である俵(田原)氏が城主とされています。
石碑の裏面には、文字がびっしりと書かれていますが、内容は秀郷の功績で、城に関しては唐沢山城についてとなっています。石碑の文字を揮毫したのは皇道派の代表格で犬養・斎藤内閣で陸軍大臣、近衛・平沼内閣で文部大臣を務め、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身禁固刑を言い渡された陸軍大将の荒木貞夫です。
2023年11月28日 国府左京大夫城介
藤原秀郷が築いたと伝わる平城
【歴史】
藤原秀郷が承平年間(931~937)に築城した伝わる。
その後、秀郷の子孫である佐貫氏(舞木氏)が佐貫荘(館林市周辺)を治めていた。
永享の乱においては、舞木持広が鎌倉公方の足利持氏に与していたが、討ち死にしている。その後に起きた享徳の乱の初期では、古河公方の足利成氏に協力し、成氏からは佐野氏・岩松氏と共に「三大将」として重用されていた。
しかし、15世紀中頃になると、舞木氏の寄騎でもあった赤井氏が力を付け、佐貫荘を掌握している。享禄年間(1528~1531)までは、赤井氏に用いられていたようで、「館林盛衰記」によると、赤井照光が大袋城から舞木城へ年始の道すがらに子狐を助け、その狐に導かれて館林城(尾曳城)を築城したと記されている。
【遺構】
赤岩城の北西約750mほどに位置し、周囲に土居や溝渠を巡らせた平城であったが、現在は遺構は消滅している。
城跡を示すものとしては、説明版と「藤原秀郷公誕生之地」の石碑がある。
【感想】
開発に伴い、遺構は一切残っておらず、石碑と説明板しか残っていないのが残念です。
説明板では藤原秀郷が”築いた”城だけど、石碑は”誕生の地”となっているけど、どっちが正しいんでしょうね。そもそも、本当に藤原秀郷がここに居たかの真偽は不明ですが、その末裔がこの地に勢力を保っていたことは事実なので、その辺りから発生した伝承なのかと思います。
【アクセス】
太田駅からレンタサイクルで約1時間。
赤岩城(光恩寺)からは徒歩6,7分。
【写真】
①説明板
②「藤原秀郷公誕生之地」の石碑
③全景