成田氏館(なりたしやかた)
成田氏館の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 埼玉県熊谷市上之(地図は石碑の場所を示す)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 成田(藤原)助高
築城年
- 天喜元年(1053)
主な改修者
- -
主な城主
- 成田氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- 市史跡(成田氏館跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
中条氏館(埼玉県熊谷市)[3.0km]
皿尾城(埼玉県行田市)[3.3km]
忍城(埼玉県行田市)[4.5km]
平山館(埼玉県熊谷市)[5.8km]
赤岩城(群馬県邑楽郡)[6.5km]
別府城(埼玉県熊谷市)[6.8km]
石田堤(埼玉県鴻巣市)[8.2km]
比企能員館(埼玉県東松山市)[8.5km]
山田城(埼玉県比企郡)[10.3km]
庁鼻和城(埼玉県深谷市)[10.4km]
成田氏館の解説文
成田氏館の口コミ情報
2024年10月13日 マグロ常陸介祐平
箱田氏館[成田氏館 周辺城郭]
熊谷総合病院の北側に位置する、箱田氏の館です。館跡には石碑が建っていますが、要約すると、古くから中屋敷と呼ばれ、昭和中期に弥生時代の土器が出土、平安時代から祀られている若宮八幡さまとお諏訪さまが鎮座し、東北側に濠をめぐらし内側に一条の小堤があると書かれており、500m北側に三郎塚(箱田氏)があることから、昭和になって箱田氏の館跡とされたと読み取れます。北東側には堀のようにも見える窪みを確認出来ます(写真6枚目)。発掘調査では縄文時代の土器や土偶、弥生時代から古墳時代前期とみられる方形周溝墓などが見つかっているようです。
箱田氏は成田太郎太夫助廣の子の箱田小治郎広能が初代となります。源平合戦後に、功績により厚狭(山口県西部)の地頭となり本拠を移したようです。子孫は、応永年間に箱田氏の菩提寺の長光寺(現在の洞玄寺)において大内氏の家臣杉重綱により討ち取られているようです。
2024年05月20日 マグロ常陸介祐平
成田氏館
成田氏が忍城に拠点を移すまで約400年間居住した館です。館は二重の堀を持つ構造と考えられているようで、石碑の向かいの泰蔵院の駐車場と墓を囲むように水路(写真2,3枚目)が見られますが、堀の痕跡かどうかはわかりません。江戸時代後期の記録新編武蔵風土記稿でも古城蹟として「今は陸田となっている」と記しています。泰蔵院(写真1枚目)は、成田長泰の末子泰蔵の開基です。
館から北に1km程の所にある龍淵寺は、成田氏の菩提寺で13代家時・16代長泰・17代氏長・19代重長の子の房長(嫡流だが幼少の為、烏山藩を継げなかった)の墓があります(写真6枚目)。その他、成田氏の墓の周囲には、天正の文字が読み取れる宝篋印塔などの古い墓が並びます(写真7枚目)。金光寺殿鉄岳宗轉居士の舟形の墓碑(写真8枚目)は、江戸時代初期の旗本長井実久のものです。実久は上野三ツ山城や御嶽城の城主を務めた長井政実の次男で、兄が成田氏に仕え成田一族の子を養子に迎えたことが縁となりこのお寺に葬られたと思われます。
長井氏は、斎藤実盛の流れを汲む(寛永・寛政家譜では訳あって平氏良文流)豪族で足利長尾氏~北条氏~武田氏~上杉(景勝)氏~徳川氏と主を巧みに変えながら生き残ったたくましい一族です(話が成田氏から脱線しました)。
2023年03月21日 武蔵守さとし
成田氏館
狭い道を入り、よく見ていないと通り過ぎてしまうほど小さな石碑がポツンと立っていました。周りには牛舎があり、牛さんたちが出迎えてくれるでしょう。
2022年10月18日 Dino中務大輔
成田氏館
細い道路脇にひっそりと!駐車場はないが、短時間なら近くに車を停められるかも。
2022年09月23日 かてきん
成田氏館
バイパスから住宅地に入るが一方通行を狭い路地にあり、建物、敷地もなく案内板が建っているだけ
2015年06月14日 永眠武蔵守釋 葱進
成田氏館
地図に記載されてる通り、館跡前の道は17号バイパス側からの一方通行となり、成田小学校側の県道からは入れません。
碑しかないので長時間車を停めることはないと思うが、気になる方は向かいの泰蔵院駐車場をお借りするのがいいかも。
2014年04月19日 ピラいち関白
成田氏館
駐車場や施設等は全く無く、熊谷バイパスから一方通行の小路を200m入った場所にあり、赤い屋根の牛舎が目印になります。
現在、館跡は耕作されていたり、住宅が建っていたりして、堀や土塁は見られません。しかし、地元の話や地形図から判断すると二重の堀をもつ館と考えられます。
交通
・JR熊谷駅から国際バス(犬塚行き)10分、成田学校バス停に下車し徒歩5分