比企能員館(ひきよしかずやかた)
比企能員館の基本情報
通称・別名
- 比企氏館
所在地
- 埼玉県東松山市大谷(推定地)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 比企能員
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 比企能員
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
山田城(埼玉県比企郡)[2.5km]
武蔵松山城(埼玉県比企郡)[5.5km]
青鳥城(埼玉県東松山市)[5.5km]
源範頼館(埼玉県比企郡)[6.2km]
平山館(埼玉県熊谷市)[7.2km]
杉山城(埼玉県比企郡)[7.3km]
菅谷館(埼玉県比企郡)[7.9km]
大蔵館(埼玉県比企郡)[8.0km]
石田堤(埼玉県鴻巣市)[8.0km]
箕田館(埼玉県鴻巣市)[8.1km]
比企能員館の解説文
比企能員館の口コミ情報
2023年11月30日
比企能員館
2/3000番目 2023年11月30日
城攻めMAPに表示されている場所は太陽光発電パネルがあり、行くことができません。そこからすこし西にある、宗悟寺というお寺で比企氏の情緒を感じることができます。遺構などは全く確認できず、石碑と案内板がありました。駐車スペースあり。
2023年10月09日 マグロ常陸介祐平
比企能員館
城ヶ谷が館の比定地だったようですが、館としての遺構は見つかっていないようです。周囲はそれらしい地形ではありますが、池はダムでせき止められた近代的なもので、かなり改変されているように感じました。
館跡は見つかっていなくとも、若狭の局と頼家の家臣が移り住んだ伝承や骨壷の発見など、ロマンを感じられる場所ではあります。
同じく候補地の宗悟寺は今の時期、立派な山門前にコスモスが満開でした。このお寺には、近くに陣屋を構えたとされる旗本森山氏の墓があります。
2022年08月29日 Dino中務大輔
比企能員館
場所がよく分からず、ウロウロしていたら太陽光パネルの裏側から少し下ったところに案内板を見つけました。
2022年08月28日 つか征夷大将軍ぽ
宗悟寺[比企能員館 寺社・史跡]
鎌倉幕府二代将軍源頼家の妻である若狭局が持参したと伝わる源頼家公ご位牌や蛇苦止観音がお祀りされています。
頼家が亡くなる前に比企能員の変があり、その時に若狭局は亡くなったとされてますが、地元では生き残って逃れてきたとの説が有るようです。
2022年08月24日 廣田宮内卿
比企能員館
東松山駅からタクシーに乗って行きました。運転手も不安に思うような車一台がやっと通れる踏み分け道を、比企能員館とされる地域をぐるっと回るように走ってもらいましたが、太陽光パネルで覆われている藪を金網越しに見ただけで、鳥居と橋を確認して写真も撮らずに駅まで帰ってきました。
2022年08月20日 城社まにゃ日向守柴田軍織田
比企能員館
館跡はソーラーパネルで埋め尽されてますが、歴史はこう遺る。3枚目はボケボケですが雨天窓越し撮影猫と山門です。4枚目は面白い岩なので
2022年08月15日 RED副将軍
比企能員館
某国営放送ドラマで話題の比企能員の居館🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
鎌倉時代前期に比企能員が築いた居館。
比企能員は、源頼朝の乳母である比企尼の甥(養子)であり、頼朝を初期から支えた重臣。
頼朝の嫡男である頼家が誕生すると乳母夫となり、更に娘の若狭局を2代将軍源頼家の側室とし、鎌倉幕府で強大な権力を持ちました。
1203年に源頼家が病に倒れると、対立していた北条時政の討伐に動きます(比企能員の変)。しかし、先手を打った北条時政に謀殺され比企氏は滅亡しました。
2代将軍頼家も伊豆国修禅寺に幽閉され、暗殺されました。
見所
扇谷山宗悟寺の周辺に比企能員館があったと伝わります。
宗悟寺の東にある城ヶ谷に館跡があった説が最有力です。実際に行ってみましたが、フェンスに囲まれ太陽光発電のパネルがビッシリと敷き詰められていました。残念💦
宗悟寺は、若狭局が頼家の遺骨を抱いて逃れて来て、弔うために建立した寿昌寺が起源と伝わります。若狭局が持ち帰った頼家の位牌が現在も残されています。
鎌倉殿の13人が好きな人はぜひ!
2022年08月10日 キャワ
比企能員館
寺の敷地周辺が館跡のようですががわかりにくいです。
2021年01月23日 三輪左近衛少将直虎
雷電山古墳[比企能員館 寺社・史跡]
川越カントリークラブ内にある雷電山古墳は天正18年(1590)に松山城攻めの大将前田利家が布陣した場所です。嫡男の利長は冑山付近に軍勢を展開させています。横堀らしい地形が残されています。
比企能員館の周辺スポット情報
串引き沼(碑・説明板)
比丘尼山横穴墓群(碑・説明板)
雷電山古墳(寺社・史跡)
宗悟寺(寺社・史跡)
埼玉県埋蔵文化財センター(関連施設)
遺構
東松山市の北端の丘陵地、通称比丘尼山の南東に位置する宗悟寺(そうごじ)周辺が館跡とされる。寺の東側に城ヶ谷(じょうがやつ)と呼ばれる沼があり、かつて城館が存在した名残りを感じさせるが、明確な遺構は確認されていない。
一方で、宗悟寺の山門脇や墓地の東側には土塁とも見受けられる土手が残存するという。境内には現在、比企一族の顕彰碑が建てられている。
なお、宗悟寺は徳川幕府の旗本・森川氏の菩提寺でもあり、県道307号線を挟んだ南側の秋葉神社は森川氏の陣屋跡とされる。
歴史
源頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の甥(後に養子)であった比企能員は、頼朝を流浪時代から支えた功臣で、自身の娘である若狭局が鎌倉幕府2代将軍・源頼家の側室となったことから、幕府内で強大な権勢を振るった。建仁3年 (1203) 、頼家が病に倒れると、能員はかねてから対立していた北条時政(頼朝の正室・北条政子の父)の討伐を図るが、北条一派に先手を打たれ謀殺された(比企能員の変)。将軍頼家も後に伊豆修禅寺に幽閉され、殺害された。
能員が討たれたのは鎌倉の北条時政邸で、その時娘の若狭局も鎌倉で殺害されたとされる(『吾妻鏡』、『愚管抄』)。しかし、前出の宗悟寺周辺には、若狭局隠棲址や局の悲話が残る串引沼などの史跡があり、比企氏の本貫地である武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)には、今なお比企一族の伝承地が多く残っている。
交通
・東武鉄道東上線東松山駅から車で約20分参考文献
・埼玉県埋蔵文化財インフォメーションシステム(http://extra.pref.saitama.lg.jp/isekimap/)。・デジタル版 日本人名大辞典+Plus(https://kotobank.jp/dictionary/nihonjinmei/)。
・現地説明板(串引沼と若狭局の悲話)。
・『週刊日本の城』デアゴスティーニ・ジャパン、2013年。