比企能員館(ひきよしかずやかた)
比企能員館の基本情報
通称・別名
- 比企氏館
所在地
- 埼玉県東松山市大谷(推定地)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 比企能員
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 比企能員
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
山田城(埼玉県比企郡)[2.5km]
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比企能員館の解説文
比企能員館の口コミ情報
2021年01月23日 三輪左近衛少将直虎
雷電山古墳[比企能員館 寺社・史跡]
川越カントリークラブ内にある雷電山古墳は天正18年(1590)に松山城攻めの大将前田利家が布陣した場所です。嫡男の利長は冑山付近に軍勢を展開させています。横堀らしい地形が残されています。
【遺構】
東松山市の北端の丘陵地、通称比丘尼山の南東に位置する宗悟寺(そうごじ)周辺が館跡とされる。
寺の東側に城ヶ谷(じょうがやつ)と呼ばれる沼があり、かつて城館が存在した名残りを感じさせるが、明確な遺構は確認されていない。
一方で、宗悟寺の山門脇や墓地の東側には土塁とも見受けられる土手が残存するという。境内には現在、比企一族の顕彰碑が建てられている。
なお、宗悟寺は徳川幕府の旗本・森川氏の菩提寺でもあり、県道307号線を挟んだ南側の秋葉神社は森川氏の陣屋跡とされる。
【歴史】
源頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の甥(後に養子)であった比企能員は、頼朝を流浪時代から支えた功臣で、自身の娘である若狭局が鎌倉幕府2代将軍・源頼家の側室となったことから、幕府内で強大な権勢を振るった。
建仁3年 (1203) 、頼家が病に倒れると、能員はかねてから対立していた北条時政(頼朝の正室・北条政子の父)の討伐を図るが、北条一派に先手を打たれ謀殺された(比企能員の変)。将軍頼家も後に伊豆修禅寺に幽閉され、殺害された。
能員が討たれたのは鎌倉の北条時政邸で、その時娘の若狭局も鎌倉で殺害されたとされる(『吾妻鏡』、『愚管抄』)。しかし、前出の宗悟寺周辺には、若狭局隠棲址や局の悲話が残る串引沼などの史跡があり、比企氏の本貫地である武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)には、今なお比企一族の伝承地が多く残っている。
【交通】
・東武鉄道東上線東松山駅から車で約20分
【参考文献】
・埼玉県埋蔵文化財インフォメーションシステム(http://extra.pref.saitama.lg.jp/isekimap/)。
・『週刊日本の城』デアゴスティーニ・ジャパン、2013年。
・デジタル版 日本人名大辞典+Plus(https://kotobank.jp/dictionary/nihonjinmei/)。
・現地説明板(串引沼と若狭局の悲話)。