青鳥城(おおどりじょう)
青鳥城の基本情報
通称・別名
- 石橋城
所在地
- 埼玉県東松山市石橋城山2104他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 伝・青鳥判官
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 北条氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(青鳥城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
高坂氏館(埼玉県東松山市)[3.5km]
武蔵松山城(埼玉県比企郡)[4.0km]
大蔵館(埼玉県比企郡)[4.3km]
山田城(埼玉県比企郡)[4.4km]
菅谷館(埼玉県比企郡)[5.0km]
比企能員館(埼玉県東松山市)[5.5km]
源範頼館(埼玉県比企郡)[6.7km]
杉山城(埼玉県比企郡)[6.8km]
小倉城(埼玉県比企郡)[7.2km]
大堀山城(埼玉県川越市)[9.7km]
青鳥城の解説文
[引用元:Wikipedia「青鳥城」の項目]
青鳥城(おおどりじょう)は、埼玉県東松山市大字石橋(武蔵国比企郡石橋村)にあった日本の城。県指定史跡。
立地・構造
- 比企丘陵と岩殿丘陵に挟まれた東松山台地上にあり、城の南方1kmには都幾川が流れている。
- 構造は城の南端に一辺約100mの方形の本郭があり、それを取り囲むように北に二の郭・三の郭が広がる。城全体の規模は東西約700m、南北約400mであり、中世城郭としては巨大なものである。
歴史・沿革
- 築城の年代は現在不明であるが、『太田道灌状』には文明12年(1478年)に、扇谷上杉定正と太田道灌が青鳥に在陣したという記述があり、この頃には城(あるいは城の原型となるもの)はあったと推定されている。
- 1560年代前半の松山城の攻防戦では、北条氏康方の城として機能したと思われる。なお、永禄2年(1559年)に成立した『小田原衆所領役帳』には狩野介が比企郡青鳥に、久米新左衛門が松山筋石橋にいたとしており、この頃の城主はこの二人のうちのどちらかであると考えられている。
- その後、廃城になる。
- 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐において豊臣氏方の前田利家・上杉景勝らが後北条氏方の松山城を攻める際、前田利家は廃城となっていた青鳥城跡に陣を置いた。
- 近年、青鳥城が廃城になったのは16世紀後半ではなく、16世紀前半とする説が現れた。
アクセス
- 東武東上本線森林公園駅から徒歩30分
- 関越自動車道東松山ICからすぐ
参考文献
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青鳥城の口コミ情報
2024年11月17日 左衛門佐マサ
青鳥城
朝の散歩中に発見❗️通りから入る場所に何の案内もなく、一般の方の家の横を通り数分歩くと、城跡が現れます。土塁等が残されているだけですが、一定規模の城が会ったことが伺える。
2024年10月13日 伊藤参議龍一郎
青鳥城
城郭東側の重機レンタルの斜向かいに広い場所があったのでそこに駐車しました。すぐに立派な堀と土塁を見つけられますが、東側と北側には深い堀が立ち塞がり城郭中央部へ行く道が見当たりませんでした。南側は国道で西側に入り口あるのかもしれませんが時間が無かったので諦めました。どなたか中央部へ行く方法ご存知でしたらレビューお願いします。
2024年01月07日 大納言Z周防守369
折邪(おりひずみ)[青鳥城 遺構・復元物]
あえて堀と土塁を折り曲げて、防御だけでなく、攻撃でも威力を発揮できるような構造。青鳥城の大きな特徴である。
2023年10月04日 RED副将軍
青鳥城
源頼朝や太田道灌が陣を布いたとも伝わる山田直安の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。築城主として青鳥判官恒儀の名が伝わり城名の由来にもなっていますが、没年は829年の人物であり発掘調査や周辺地域の状況を鑑みると、ここまで古い築城時期とは考えづらい様です。
1183年に源頼朝が青鳥野に陣を置いたと源平盛衰記に記録があるのが青鳥の初見とされます。
1271年には日蓮上人が佐渡へ流罪となった際に、藤原利行が城主の青鳥城に宿泊したとの記録もあります。
1440年の結城合戦において上杉憲実が野本・唐子に在陣したとも云われており、その地が青鳥城があったとの説もあります。
1478年には長尾景春の乱において扇谷上杉定正と太田道灌が青鳥城に在陣したとの記述があり、ようやくこの頃に城があったことが確定されます。
1558年には上田朝直が城主の武蔵松山城の支城となっており、この頃に青鳥城は拡張改修され山田直安が城主となりました。
その後、武蔵松山城を攻める北条氏康の属城として機能した様で、小田原衆所領役帳には青鳥城主に狩野介、久米新左衛門の名が残りますが、間もなく廃城となった様です。
1590年の小田原征伐において、武蔵松山城を攻める前田利家が廃城となっていた青鳥城に陣を構えたとされます。
見所
都幾川北岸の河岸段丘南端部に築かれており、方形の主郭を取り囲む様に二の郭、三の郭を配した梯郭式平城です。
主郭内部は耕作地となっていますが、主郭南側は崖地であり他の三方に大規模な空堀・土塁が巡ります。北西隅、南東隅に社が祀られている高台は櫓台の名残りです。
行き方は、城域北東部の関越自動車道の高架下あたりに案内板が立ち、そこが見学者用の駐車場となっています。
空堀が素晴らしい城跡ですが、チルチルミチル的な要素はございません。
2022年12月10日 侍従えっき
青鳥城
空堀から掘り上げられたであろう土塁も高く、城域もだいぶ広いように感じました。
本丸から裏手二の丸にかけても畑と住宅地になっているのですが、遺構のままの区画なので面白かったです。
2022年08月18日 城社まにゃ周防守柴田軍織田
青鳥城
民家の間を抜けると泥道になりながらも車高が低い軽なら何とか通れます。
2022年02月23日 川越日向鉄
青鳥城
小さい城址ですが、空堀が残っています。城内は籠城戦に備えて畑がありました。
2021年01月03日 M.I
青鳥城
入り口は民家の間の道を入るので分かりにくいです。方形の城で堀が明瞭に分かります。見やすいお城です。駐車場が分からず、路駐しました。
2020年11月09日 拓之助中務少輔
青鳥城
東西750メートル、南北280メートルの規模を持つ広大な平城。河岸段丘の軽い崖部にある城で国道254号、関越自動車道、養豚場、民家、畑などにより遺構は見づらい。外郭の一部や本郭を中心とする土塁や堀が見られます。松山城の上田氏の詰城や繋の城でとしての役割があると考えられます。
2017年05月08日
青鳥城
遺構が想像以上によく残っていてビックリしました!
竹藪の中に空堀がしっかり。土橋や、虎口状の土塁の切れ目もはっきり確認できます。
玉に瑕は、あの臭いと、城趾にラブホがあることかな(笑)
2016年06月14日 永眠武蔵守釋 葱進
青鳥城
関越道東松山ICに近い割にはそれなりに遺構があるようです。二の郭や三の郭はかなりの部分が道路や建物と化すも、本郭はほぼ残っています。
ヤマト運輸の駐車場出入口向かいの未舗装の道を上ると本郭です(青鳥城趾碑あり)。
郭内は私有地なのか一部は畑となっています。
四方を土塁に囲まれており土塁上は通行可、堀側は竹やぶで見通し悪く降りるにはちょいと難儀。
本郭から道路を少し北上すると左手に縄張り図付き案内板があり、左折後道なりに進むと二の郭土塁と板石塔婆があります。
(関越道東側に三の郭の遺構があるが今回は未訪)
近くに堆肥工場があるようで、その手の臭いに敏感な方は覚悟した方がいいでしょう。