大堀山城(おおほりやまじょう)
大堀山城の基本情報
通称・別名
- 大堀山館
所在地
- 埼玉県川越市下広谷332-1他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 扇谷上杉氏
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 扇谷上杉氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、帯曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(大堀山館跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
河越館(埼玉県川越市)[3.4km]
高坂氏館(埼玉県東松山市)[6.2km]
川越城(埼玉県川越市)[6.4km]
城山砦(埼玉県狭山市)[8.3km]
石戸城(埼玉県北本市)[8.7km]
武蔵松山城(埼玉県比企郡)[8.9km]
三ツ木城(埼玉県桶川市)[9.0km]
砂久保陣場(埼玉県川越市)[9.3km]
青鳥城(埼玉県東松山市)[9.7km]
田波目城(埼玉県坂戸市)[9.7km]
大堀山城の解説文
大堀山城の口コミ情報
2026年09月11日 マグロ常陸介祐平
法音寺館[大堀山城 周辺城郭]
小島氏館から南東に約500m、法音寺が城址となります。城主や来歴などは、不明のようです。石碑によると、法音寺の創建は文亀2年(1502年)とされ、墓域からは鎌倉時代の板碑が出土したと記されていることから、武士の居館とするとかなり古い時期のものかもしれません。
以前は土塁や空堀が見られたようですが、目の前に圏央道が開通し、新規墓地を造成などで、遺構らしきは見当たりませんでした。
旧小沼村には堀の内屋敷、小島氏館と3つのお城(館)が存在しますが、どのお城もはっきりした城郭構造は残っていません。
2026年09月10日 マグロ常陸介祐平
小沼堀ノ内[大堀山城 周辺城郭]
小島氏館から南東に約150m、小沼氷川神社付近が城(館)址となります。住所が小沼字堀之内になっており、城郭的なものがあったと思われますが、城(館)主や来歴などは伝わらないようです。近所の方に尋ねて見ましたが、住所は堀之内だが館跡とは聞いたことがないとのことでした。成田氏の分限帳に小沼姓が2名見られますが、熊谷上之村在住のようですので、関係はなさそうです。隣接する小島氏館の小島氏と関係するものかもしれません。
氷川神社は微高地となっており、東側には薄めの土塁と空堀が見られます。神社自体は、寛永年間に越辺川近くにあったものを水害の為に現在地に移転したとされることから、館跡に神社を移転した可能性があります。
2026年09月09日 マグロ常陸介祐平
小島氏館[大堀山城 周辺城郭]
少林寺が館跡となります。風土記稿の少林寺の説明は、「禅宗曹洞派、同郡坂戸村永源寺末、鳳雲山聖諦院と号す、開基道斎宗現沙彌永禄二年に草創し、元龜三年七月十五日寂せり、此僧は小嶋氏にて此村の農民なりしが、今其家絶たれば詳ならず、其後本寺六代の僧高天暁、延寶元年に寺格を進めし故、此僧を法流開山とす、本尊釋迦の坐像一尺一寸、僧惠隠の作なりといふ。」とあり、永禄2年(1559年)に有姓百姓の小島氏が建てたとしています。
1.5km程西に位置する西光寺(塚越城)が、管領上杉氏の家臣小嶋豊前が屋敷内に庵を建て西光庵と号したのが始まりとされることから、この小嶋氏の一族が、同じように屋敷内にお寺を建立したのかもしれません。
遺構としては、お寺の北側に空堀と土塁らしきが見られますが明瞭ではありません(写真3~6枚目)。少林寺の本堂は老朽化により無くなっていますが(写真1枚目)、寺内に祀られる魚籃観音は、享保13年(1734年)に作られたもので、坂戸市の文化財に指定されています(写真2,7,8枚目)。
2026年09月09日 マグロ常陸介祐平
別所屋敷[大堀山城 周辺城郭]
新編武蔵風土記稿の青木村の条に屋敷跡として「村の北、小名別所にあり。爰は小沼、塚越の二村に挟れる所にて、往昔武士の居住せし跡とのみ傳へて、姓名も知らず。構えし内、南北の廻りに小土手、今に残れり。其外皆畑となる。此畑の中より甲冑・刀・鎗の類、朽たるものを穿出せしことありと。想うに當国七黨の内、丹の黨に青木氏なる者あり。其人の居住せし所なるも知べからず。(以下略)」と記されています。江戸時代後期には、屋敷の主は不明となっており、小さな土塁が南北に残り、畑からは武具が出土していたようです。丹党青木氏が居住していたかも知れないとしているものの、青木氏の本貫は飯能なので違和感がありますが、入間郡誌の青木村の条には「八幡神社に神鏡あり、裏に網代綾部藤原清房並び田中和泉守藤原光政とある。元領主青木氏の鎮守にして、網代・田中の両氏は青木氏に属する武人にて、其族今尚当所に残れりと云るものあり。」と書かれているようで、埼玉苗字辞典ではこの青木氏を鍛冶師としています。
近年まで遺構が見られたようですが、高い塀(簡易的なもの)が出来てしまい、確認できませんでした(写真1枚目)。背後はトラックの駐車場のようになっているので、消滅しているかもしれません。隣接する東光寺との間の道に沿って空堀状の溝が部分的に見られますが(写真2枚目)、微妙です。
東光寺は、勝呂氏の館跡とされる大智寺の末寺で、元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉攻めの際に別所山で休息していたところ、東と西に光を放つ所があり、その所に東光寺と西光寺を建てたとする伝承があり、青木氏の菩提寺として信仰されたようです。東光寺は檀家以外の立ち入りを拒む感じがあったので、説明板(写真3枚目)のみ撮影して立ち去りました。
お城の南側には、全長47mの前方後円墳「雷電塚古墳」があり(写真4,5枚目)、古くから有力者が住んでいたことがわかります。
2026年09月07日 マグロ常陸介祐平
勝呂氏館[大堀山城 周辺城郭]
勝呂氏の館となります。現在の大智寺にあった勝呂館から、この地に移ったとされています。新編武蔵風土記稿に長文で「勝呂豊前守屋舗跡」として記載されています。勝呂氏の先祖は吾妻鏡にも見られる武蔵七党(村山党)の須黒兵衛太郎(恒高)で、戦国期の当主豊前守は北条氏に属しており、北条氏の没落後は久留里に行って里見氏に仕え、里見氏が断絶すると浪人し、しばらくすると亡くなったとしています。勝呂豊前守は北条氏に仕えたとされますが、石井村は小田原衆所領役帳によると豹徳軒と太田大膳亮の領地となっており、どちらかの被官だったのでしょうか。
近年まで遺構として土塁が残っていたようですが、現在は失われています。館に隣接して14世紀中頃に創建された宗福寺には、文和5年(1356年)の銘がある巨大な板碑が見られます。
500m程東には、勝呂豊前守の先祖とされる須黒太郎恒高が建保元年(1213年)に社殿を再営したと伝わる勝呂神社が鎮座しています。社殿は円墳上にあり、撫でると勝運をもたらす霊石があります。もちろん撫でてきました。
2026年09月06日 マグロ常陸介祐平
林氏屋敷[大堀山城 周辺城郭]
江戸時代に赤尾村下分の名主を務めた林氏の屋敷です。近くに鎮座する赤尾諏訪神社は、永正15年(1518年)もしくは文亀2年(1502年)に信濃から移住した林二郎民部信興が諏訪大社から拝領した神石を神体として創建されたと伝わり、16世紀の始めにはこの地に居住していたようです。また、赤尾村森田氏の文書では、天文7年(1538年)に森田氏や林氏など侍6人が石井(坂戸市内)の台地に住み、元亀3年に6人は石井の支配を逃れ、越辺川の端に移り住んで赤尾村と名付けたとあることから、石井の勝呂氏の被官であった可能性もあるようです。
屋敷には近世または近代のものと思われる立派な長屋門があり、右側には土塁状の土盛りが見られます。北側には空堀があり、南側の公園のネットの先にも堀が見られます。草に覆われ分かりづらいですが、空堀ではなく水堀のようです。屋敷内の南東側には塚があり石祠が祀られていますが、櫓台の痕跡でしょうか。屋敷は方形単郭の構造を残しています。道路を挟んだ東側には林氏の所有らしい赤尾薬師堂があり、敷地内に林氏歴代の墓が見られます。
2026年09月04日 マグロ常陸介祐平
長谷部氏屋敷[大堀山城 周辺城郭]
小見野氏館から約800m、江戸時代に上小見野村の名主を務めたとされる長谷部氏の屋敷です。川島町の文化財に指定されている慶長14年(1604年)「小美濃郷検地帳」が伝わっています。「そこに城があるから」さんのサイトによると、現在の当主は36~38代目にあたるそうですので、小見野氏の被官だったのかもしれません。
小見野氏館を見た後に、先人様が位置登録されたこの屋敷が近いと分かり、下調べもせずに立ち寄って見ました。現地でネットで調べてみると、「そこに城があるから」さんのサイト等がヒットしました。正面の水路を利用した水堀(屋敷の構え堀)は確認できるものの、四方を囲む堀や「長谷部家文書」の標柱は見られませんでした。2008年のレポートのようですので、水路以外の堀や標柱は失われたようです。
2026年09月03日 マグロ常陸介祐平
小見野氏館[大堀山城 周辺城郭]
大串次郎の館から南西に約1km、大見野氏の館とされています。武蔵七党の内、児玉党浅羽小大夫行業の子の小見野四郎盛行がこの地に住み在名を名乗っています。
吾妻鏡に建久元年(1190年)の源頼朝の上洛の隋兵として小見野四郎の名が見られ、熊野那智大社の御師の家に伝わる「米良文書」(室町時代)の越生一門名字書立の中に小見野姓が見られるようです。武蔵七党系図には盛行から七代後の弥二郎近行まで掲載されることから、室町時代までこの地に居住した可能性があります。また、小野系図では、近隣の大串氏と姻戚関係があったことが記載されているようです。(埼玉苗字辞典より)
小見野氏の館は、法鈴寺付近とされるようです。お寺は微高地となっており、東側から北側には段差がみられ、北側の工場の間には水堀の痕跡かもしれない水路が見られます。また、お寺の南側の住宅は西側を除く3方を水路が囲んでおり、それらしい雰囲気を感じられます(地域的に水路が多い)。
風土記稿によると、法鈴寺は開山の曇秀が寛政4年(1792年)に亡くなっており、小見野氏との直接的な関係はないように思われますが、小見野地区に末寺を5寺も擁し、下小見野氷川神社の別当を務めるなど有力なお寺で、境内には板碑も3基見られることから、小見野氏に関係する古寺が存在していた可能性もあるように思われます。
2026年09月03日 マグロ常陸介祐平
大串次郎館[大堀山城 周辺城郭]
大串次郎重親の館と伝わります。大串氏は武蔵七党のひとつ横山党の出身で、由木保経の次男の孝保が初代となり、重親は孝保の子となります。烏帽子親は畠山重忠で、重親の「重」は偏諱を受けたものです。宇治川の戦いでは、渡河中に溺れてしまい、畠山重忠に投げ飛ばされて助けられ、敵陣前に落ちたことから徒立ちの先陣となり、敵味方から笑いが起こるエピソードがあります。お城近くの市野川に架かる橋の名は「徒歩橋」で、このエピソードから名付けられたのかもしれません。重親は奥州合戦でも重忠に従い参陣し、藤原国衡を討ち取ることに貢献しています。その後の大串氏や館に関しては、ほとんどわかっていないようですが、文明12年(1480年)の太田道灌状に大串ノ弥七郎の名が見られ、長尾景春の乱において秩父高佐須城の情報を知らせ、貢献する活躍が見られます。また、水谷家譜等には天文8年間に水谷蟠龍斎らが古河公方足利晴氏に背いた吉見城主大串氏を討ったと記されているようで、お城は戦国期まで使用されていた可能性もあります。
徒歩橋から土手上の細い舗装道を東に進むと、すれ違いの為に車の頭を退避させる構造が2ヶ所あり、2つ目の場所に背丈以上の草の中に30cm程の獣道が見られます。獣道を抜け土手下に降りると、かなり密集した竹藪となります。覗き込むと土塁らしきが見えるので、強引に突入しました。はっきりした土塁があり、東側に延びています。西側はやや広く角形の構造(櫓台?)で、その先は細くしぼんでいきます。はっきりとした造りの為、後世に別の目的で造られた可能性もあるように思われます。先陣様は、近世の陣屋跡の可能性を口コミされています。
風土記稿には大串次郎重親陣屋跡として「村の東にあり。少し高き所にして、今は農民の居家となり、その界限詳ならず。」としていますが、現地は市野川の河川敷で、高台ではなく民家が建てられる場所でもなく、本当にこの場所に館があったのか疑問です。集落は土手の反対側になります。埋蔵文化財包蔵地としては毘沙門堂付近の広い範囲となっていますが、村の東ではありません。
400m程北西にある金蔵院(毘沙門堂)は大串次郎重親の創建とされ、山門近くと西側の畑に応安6年(1373年)と永和2年(1376年)の銘のある宝篋印塔が見られます(県指定史跡)。畑にある永和2年のものは重親の墓と伝わっており、風土記稿にも取り上げられていますが、重親の死亡時期と150年程度の開きがあります。地下からは骨壷も見つかっており、供養塔ではなく墓であることがわかっています。子孫のものでしょうか。
2026年08月10日 右近衛少将ともとも
大穴城[大堀山城 周辺城郭]
団地内にある公園が城址になります。起伏のある形状と道路側に土塁跡の様な痕跡が有りますが案内板が無ければ城址とは気付かないでしょう。
2026年07月23日 東堤北星
勝呂氏館[大堀山城 周辺城郭]
宗福寺に隣接して存在していたとされる勝呂氏の居館です。勝呂氏は石井大智寺にあった勝呂館からこちらへ居館を移したそうです。
境内にある板石塔婆(坂戸市指定考古資料)の案内板には、宗福寺が勝氏(勝呂氏)の居館に隣接して建立されたと記載されています。昔の地図や発掘調査より、宗福寺の北側に隣接していたと考えられます。また、この石碑及び案内板から勝呂氏館は1354年の時点で既に存在していたということがわかります。
城主として名が挙げられる人物に勝呂豊前守がいます。豊前守は北条氏に従えていましたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると、豊前守は里見氏(久留里城)へ仕えることになり、上総へと移ったそうです。当館もおそらくは豊前守が上総へ移った際に廃城となったと考えられますが、勝呂氏分家や子孫がのこった可能性も0ではないので何ともいえません。最低でも1590年時点で館は存在していたそうです。
発掘調査では土塁や空堀、水堀の遺構が発見されたそうです。宗福寺北側の住宅地となっている場所に土塁が存在したそうですが、現在は完全に消滅しています。近くを流れる用水路は堀跡に見えなくもないですが、なんともいえないです。
2026年05月10日 たんちゃん
大堀山城
看板かありますが薮です。中には入れません。
2026年04月24日 マグロ常陸介祐平
明泉館[大堀山城 周辺城郭]
詳細不明なお城です。空堀状の溝が南北に60m程、その先は西に折れ、先まで続いているように見えますが、民家の裏側の為、先には進みませんでした。空堀状の通路の左側には近い位置に並行して溝が見られ、二重の堀のようになっています。
遺跡名は明泉遺跡、種別は集落跡、時代区分は古墳・奈良・平安と江戸となっており、城跡にはなっていません。各お城のサイトによると、西に伸びる空堀の先には櫓台のような構造もあるとしており、古い時代の館跡なのでしょうか。
2026年04月23日 マグロ常陸介祐平
塚越館[大堀山城 周辺城郭]
巨大で豪華な道教寺院「五千頭の龍が昇る聖天宮」の道を挟んだ北側の雑木林が城址となります。お城に関する記録はなく、来歴等は不明ですが、近くに水谷伊勢守義信と刻まれた墓があるということで(見つからない)、水谷氏との関連するものかもしれないと推測されています。また、付近は勝呂氏の勢力範囲の為、坂戸市史では勝呂一族の館ではないかとしているようです。但し、遺跡としては集落跡と城跡になっていますが、時代区分は古墳時代から鎌倉時代となっており、戦国時代は含まれていません(住吉中学校遺跡、南八日市城)。
道路側は民家が建ち、勝手に侵入するのは憚られる感じですが、たまたま隣のお宅の方が外にいらしたので、脇から入らせていただきました。南側から西側にかけて空堀を伴う土塁がありますが、西側の空堀は民家との堺となっており、分かりづらい感じでした。長い間人の入った形跡はありませんが、曲輪の中はロープが張ってあり立ち入りませんでした。
2026年04月19日 マグロ常陸介祐平
中山陣屋[大堀山城 周辺城郭]
川越藩主で老中を勤めた秋元涼朝は、田沼意次と対立して老中を辞し、山形へ転封となります。その際に中山村を含む川島領の約6千石は飛地として秋元氏がそのまま領有することになり、中山陣屋が置かれています。
風土記稿では陣屋ではなく「小屋場」として取り上げられ、役人を置いて税務を沙汰したとしており、あまり立派なものではなかったのかもしれません。現在は小学校となり遺構は残っていませんが、校内に石碑が立っています(写真1,2枚目)。校内は立ち入り禁止の為、石碑を正面から見ることはできませんでしたが、先人様が許可を取り写真を投稿されています。
中山の地は、渋谷重家の子の中山次郎重実が土着しており、重実との関係は不明ですが、陣屋から300m程南東にある正福寺には比企能員の娘を娶った中山五郎為重の供養塔があります(写真3~5枚目)。説明板によると圏央道川島ICの西にある堂地遺跡が中山氏の館跡としています(先人様が口コミを投稿)。比企氏の館跡は堂地遺跡よりも近い金剛寺となります。
2026年04月02日 にゃにゃんこ大蔵卿
大堀山城
若葉駅より30分位歩きました。バスもあるそうです。実はここは母親の実家近くだったので、幼い頃朧気に遊んだ記憶がありました。しかし平地なのですが、大堀山舘の説明板の10m位のところに少し通り道らしき草の踏み跡のところから中に進んでみましたが、暗くて女性一人では怖かったです。
2026年02月25日 東堤北星
戸宮前館[大堀山城 周辺城郭]
戸宮前館は広谷北城とも呼ばれており、『新編武蔵風土記』に記されている「下広谷古跡三箇所」のうちの一つとされています。
この城も付近の城館と同様詳細な歴史はよくわかっていません。大堀山城の支城とする説や地元の小規模武士団や土人などの居館だとする説などいろいろあるみたいです。なお、「広谷北城」や「戸宮前館」という名称も現在の地名や立地からつけられたものです。
現在、城郭の一部は高速道路や工場で消失してしますが、工場東側にある藪の中には本丸含め多くの遺構が現存しています。特に本丸東側の水堀は道路(埼玉県道256号線)からも容易に見ることができます。現存している部分だけでも、なかなか複雑な堀を持っていたことが伺えます。
大堀山城の直ぐ側ですので、一緒に攻城することをお勧めします。(Googleマップにも「広谷北城」で登録されてます)
城郭基本情報
名称 広谷北城(ひろやきたじょう)
通称・別名 戸宮前館、某館(1)、戸宮前遺跡
所在地 埼玉県川越市下広谷字宮前
分類・構造 平城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 不明
廃城年 不明
遺構 堀、土塁など
指定文化財 なし
復元 なし
跡地 雑木林、工場
おすすめ度 ★★★☆☆
見学所要時間 20分
アクセス 下広谷バス停目の前
服装目安 普通
2025年12月28日 東堤北星
広谷宮前館[大堀山城 周辺城郭]
大堀山城のすぐ隣にあり、「下広谷村古跡三ヶ所」のひとつに数えられている平城です。「広谷宮前城」と呼ばれる事が大多数で、Googleマップにも広谷宮前城と載っています。
『新編武蔵風土記』には「土人城の跡と唱て何人の居跡なることを伝えず」とあります。やはり、城主は不明なようです。坂戸〜鶴ヶ島の圏央道沿い一帯はこのように詳細不明な城が多いのが特徴で、広谷宮前城もそのひとつとなっています。
現在の城趾は隣の大堀山城と同様に雑木林のようになっていました。一部区画は霊園や畑になっており、遺構は消滅しています。雑木林となっている区画には土塁や空堀、曲輪がはっきりと残っていました。しかし、ゴミが散乱しており、木も鬱蒼としていたため暗く陰っぽい雰囲気でした。あまり整備や手入れはされてない感じです。訪問は冬か秋の晴れた日の昼間にすることをお勧めします。
2025年11月08日 東堤北星
横田氏陣屋[大堀山城 周辺城郭]
現在は旗本横田家墓所、休臺寺となってる場所にあると比定される陣屋です。陣主とされる横田氏は武田二十四将の一人である猛将・横田高松の末裔の一族です。他にも大坂夏の陣で徳川家康を安全な場所に逃がしたとする逸話が残る横田尹松などがいます。戦国の世が終わると、徳川幕府の旗本となり、旗本として最大である9500石の土地を所有していました。
さて、本題の横田氏陣屋についてに話題を移りましょう。現在、陣屋跡と比定される休臺寺について『新編武蔵風土記稿』によると、日慶という僧侶が永柳山妙慶寺として開山、横田次郎兵衛が中興開基した寺です。横田次郎兵衛という人物は延寶年中に寺を中興してるとされています。延寶(延宝)は1673〜1681年を指し、旗本横田氏では3代・横田由松の時代です。この横田次郎兵衛なる人物が誰なのかははっきりわかりません。推察すると、現在寺の前には横田氏の墓所があり、そこに横田準松の墓があるので、この一帯は分家の十郎兵衛家の所有だったのでしょうか?「次郎兵衛」という名から推測すると二男と考えられるため、当てはまるのは十郎兵衛家第3代目当主を1684年まで務めた横田忠郎(林忠隆の次男で2代能之の養子)あたりでしょうか?また、没年が不明なためわかりませんが、2代横田能之も興津宗能の二男です。念の為、もしかしたらどちらでもないまた別の横田一族の方なのかもしれません。
ちなみに、先ほど登場した「横田準松」ですが、彼は分家出身ながら旗本横田氏の5代当主を務めた人物です(横田栄松の三男で4代横田清松の養子)。御側御用取次に任ぜられ、横田氏の石高を3000石増加させ計9500石と、旗本最大にした人物です。将軍側近として権力を持った為、松平定信を擁立しようとしていた勢力から失脚を画策されていました。そのようなさなかに発生した天明の打ちこわしの際、正しい情報を伝えなかったとして横田準松は失脚、これにより松平定信の老中就任が実現しました。
話がだいぶそれましたね…文章はやはり難しいです(笑)。横田氏陣屋についてですね。跡地にあるとされる休臺寺については上のとおりです。ただ、ここまで書いてきて申し訳ないのですが、横田氏がここに陣を建てたのかに関する文献はほぼないです。一部の個人サイトなどで言及がありますが、やはり出典などは明確ではないみたいです。しかし、寺の場所は周囲より小高くなっており、西には小川が流れているため、布陣する場所としては結構いい場所なのではないでしょうか?周囲には土塁っぽい地形もありました。ただ、宅地開発の盛土の可能性が大きいです(※追記あり)。いずれにせよ、横田氏の墓所がある以上、この地が横田氏にとって大事な場所だったことは事実でしょう。城跡として見ると微妙な物件ですが、休臺寺は整備され、綺麗な寺です。本堂だけでなくしっかりとした鐘撞堂なども見どころです。おすすめの時間帯は灯籠に明かりがつく晴れの夕暮れ時ですね。横田氏墓所は寺の門をでたところにある駐車場の一角にあります。往年の有力旗本であった横田準松にぜひ挨拶しにいってみてはいかがでしょうか。
※(2025/11/20追記)後日の調査でこの土塁らしき地形は古墳の可能性が高いことがわかりました。もちろん、古墳の地形を利用した陣屋の可能性もありますが、元々実在性が曖昧な陣屋なので関係あるかは不明です。
攻略情報
裏手の駐車場のフェンスには小さい入り口があります。一見すると私有地みたいですが、砂利の駐車場への入り口ですので、駅から徒歩で攻城する際には近道です。
2025年10月27日 マグロ常陸介祐平
勝呂館[大堀山城 周辺城郭]
石井の大智寺(写真1枚目)が館跡となります。勝呂氏館(現在の宗福寺)に移る前の、勝呂氏の居館とされます。大智寺付近の小名(小字)は勝呂で、名字の地と思われ、風土記稿には「勝呂氏先祖の住し所と云」としています。
遺構としては、文殊堂の裏に僅かに土塁と空堀が残っています(写真2~5枚目)。城主とされる勝呂恒高は鎌倉時代の人ですが、遺構はお寺の外周として利用された訳でもなく、そこまで古いものなのかは、微妙な感じがします。
大智寺の創建は古く、大同2年(807年)とされています。荒廃していたお寺を江戸時代になって再興したのは、幕府の長崎奉行や大目付を務めた黒川丹波守正直で、大智寺には正直の墓があります(写真7枚目、県史跡)。また、お寺の建物は特徴的で、本堂はステンドグラスの美しい洋風のアルミニューム製(写真6枚目)、鐘楼は櫓風の建物で、塀越しに見ると城郭の櫓のように見えてしまいます(写真8枚目)。
2025年10月26日 マグロ常陸介祐平
島田氏陣屋[大堀山城 周辺城郭]
旗本島田氏の陣屋です。島田氏は、美濃土岐氏の後胤とされる三河の国人で、十兵衛(岡崎城で討死)の代に松平広忠の家臣となり、孫の重次は家康の関東入国によりこの地に所領を与えられ、陣屋を築いています。重次は、関ヶ原では御使番として鉄砲足軽を従え活躍し、大阪の陣では旗奉行を務めています。子孫は、長崎奉行、江戸町奉行、などを務める上級旗本として存続しています。
また、吉原三浦屋の花魁、2代目高尾太夫(万治高尾)は、仙台藩主伊達綱宗から思いを寄せられ身請けされますが、馴染みで4代将軍家綱の小姓を務めた島田権三郎利直を慕うあまり、言うことを聞かず、隅田川に浮かべた船上で高尾を惨殺したとの逸話があります。惨殺は実話ではないようですが、歌舞伎や浄瑠璃の題材になっています。
陣屋は、坂戸小学校の西側にあったようですが、堀ノ内の地名が残るのみで、場所は特定されていないようです。今回、先人様が写真を投稿された2箇所を見てみましたが(写真1,2枚目)、市街地となっており、陣屋を感じ取ることは出来ませんでした。坂戸市には、他に島田の弾正陣屋がありますが、そちらは坂戸市島田地区に存在した難波田弾正の陣屋とされます。
近くに建つ永源寺(写真3枚目)は、島田氏の菩提寺で、島田氏歴代の墓(写真4~6枚目)や万治高尾の供養塔(写真7枚目)があります。
2025年10月25日 マグロ常陸介祐平
恒岡氏館[大堀山城 周辺城郭]
飯盛神社付近が、館跡とされます。神社の石碑によると、康安年間(1361~62年)、片柳長門入道の草蒼の地としており、産土神として飯盛大明神を祀ったとしています。片柳(片楊)長門入道は実在の人で、貞治3年(1364年)に押領した鎌倉大慈寺内釈迦堂領を足利基氏の御教書を受けた成田下総守泰直と玉井蔵人入道覚道により退けられたとの記録があるようです。
戦国期になると、岩槻太田氏の被官の恒岡入道大林軒道會日勢が鎌倉妙本寺住持の本行院日慶と飯盛神社の社殿を建立したとしています。風土記稿では恒岡大林軒を松山城主上田氏の家臣としており、江戸時代の軍記「天正庚寅松山合戦記」にも大林軒の名が見られるようです。岩槻城主太田氏資の家臣恒岡資宗は、この館から東に5km程の比企郡井草郷(川島町)の牛島氏に、入間川の堤防築造を命じる連署状を発給しているようですので、この地区と全く関わりがなかったわけではなさそうですが、埼玉苗字辞典では、大林軒と岩槻太田氏の被官恒岡氏との血縁を否定しています。太田氏の被官恒岡氏は、多田源氏太田氏の庶流で、江戸時代になると550石取りの旗本になっています。
飯盛神社付近が館跡とされてはいますが、風土記稿には居館に関する記述はなく、神社は微高地で背後に段差も見られますが、遺構という感じではありません。
2025年09月02日 東堤北星
勝呂館[大堀山城 周辺城郭]
勝呂恒高の居城とされています。この勝呂恒高は『吾妻鏡』に登場する須黒兵衛太郎と同一人物とされています。
勝呂恒高は承久の乱で討死しており、子孫は付近にある別の城館(勝呂館と区別する為「勝呂氏館」と呼ばれています)に居城を移し、戦国時代には北条氏に仕えています。
現在城跡には寺が建っています。大智寺は地域ではそこそこ大きいお寺で、一見すると教会に見えるお堂が見どころです。
城跡としても、土塁や堀だったと思われる遺構も多くあり、付近の城館と比べても見応えはあると思います。
館跡に建つ大智寺は所在地も含めると「石井大智寺」となります。とある野球選手と名前が同じみたいで、お寺には某虎球団の必勝祈願が多くありました。ちなみに、大智寺の一部の住所は2 334。
城郭基本情報
名称(よみ) 勝呂館(すぐろやかた)
通称・別名 須黒館、勝呂恒高館
所在地 埼玉県坂戸市石井2331、2334
問い合わせ 坂戸市教育委員会、大智寺
分類・構造 城館
天守構造 なし
築城主 勝呂(須黒)氏
築城年 鎌倉期
主な城主 勝呂恒高
廃城年 承久3年(1221)頃?
遺構 堀、土塁
指定文化財 黒川正直之墓(埼玉県指定)
再建建造物 なし
跡地 大智寺、緑地、宅地
アクセス 東武東上本線北坂戸駅より徒歩20分
おすすめ度 ★★★☆☆
見学所要時間 10分
服装目安 軽め
攻略情報
北坂戸駅より徒歩になります。まぁまぁ大きい寺なので地図等見れば迷うことはないかと思います。くどいですが、勝呂氏館は別の物件ですので…
2025年07月29日 東堤北星
粟生田氏館[大堀山城 周辺城郭]
今回も3000城風に城郭基本情報も書いていこうと思います。また、今回は当館を調べるに付随して調べた武蔵粟生田氏についても記述しようと思います。参考になれば幸いです。
城郭基本情報
名称(よみ) 粟生田氏館(あおうだしやかた)
通称・別名 なし
所在地 埼玉県坂戸市泉町
問い合わせ ‐
分類・構造 平城(推定)
天守構造 なし
築城主 粟生田行直
築城年 鎌倉時代?
主な城主 粟生田氏
廃城年 不明
遺構 不明
指定文化財 なし
再建建造物 なし
跡地 宅地、線路、青蓮寺、内出公園
アクセス 東武東上本線坂戸駅より徒歩15分
おすすめ度 ★★☆☆☆
見学所要時間 15分
服装目安 軽め
説明
粟生田氏館(あおうだしやかた)は埼玉県坂戸市泉町にある日本の館跡。
築城主と考えられる粟生田行直は浅羽行成の子で、粟生田郷の開発領主であった。
粟生田氏について
粟生田氏は児玉党浅羽氏の庶流とされており、浅羽行成の子供である浅羽五郎行直が粟生田郷を開発し、領有した際に粟生田氏を名乗ったとされる。
鎌倉時代末期、粟生田族は所領を得て播磨国へ下向しており、文和4年(1355)の神南の戦いで山名時氏軍・佐々木道誉のもと粟生田左衛門次郎という人物が戦い、討死している。
また、行直の甥にあたる粟生田行長は源頼朝の奥州征伐に随行している。しかし、武蔵粟生田氏に関して分かっていることはこれくらいで、資料に乏しく詳しいことは分かっていない。
(※私が調べた限りの情報です。さらに調べれば何か分かるかもしれません。)
感想
まぁ予想通り、遺構は残っていませんでしたね…しかし、地名や公園名など、確かにここに城館があったことはわかるとおもいます。
攻略情報
坂戸駅構内の案内図に青蓮寺や内出公園の記載がありますが、駅の外に案内図はないので注意。
遺構候補の青蓮寺と内出公園は線路を挟んで反対側にあるので両方行く場合迂回が必要です。
また、東武東上線は当館跡を突っ切っているので、坂戸〜北坂戸間を乗れば必然的に入城したことになります。
参考にした文献
・『西大寺所領荘園注文案』
・『関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉』
・『吾妻鏡』
・『諸家系図纂』
・「中世の粟生田を探す」(著: 藤野一之 様)
・Wikipedia(参考程度)
・その他個人ブログ、探索記など
2025年07月29日 東堤北星
粟生田氏館[大堀山城 周辺城郭]
館跡は東武東上線で分断されています。青蓮寺と内出公園が館跡の施設だと考えられます。
2025年03月05日 城社まにゃ越後守?龍○毘
大堀山城
2025.2月中旬約1年振りに3回目の攻城、大堀山城看板口及び同じ方面は粗大ごみ捨て場にされた地主の怒り?で大木により封鎖されてます。
南東の霊園駐車場側から試みるが密集笹篠雑木で、コチラ側もダメでした。戻り大木をストックでバランス取りながら踏み越え攻城です。
戻ると大木踏み越える様なので他のルート探す為(少し迷った)?に社地点から更に奥北部と北西側を探索、コチラ側にも中々好い堀跡が有ります。心持ち掻き分ける雑木が少い。
土橋?かなと思う処を突き進むと私有地工業関係の作業場に出ましたので作業してる人に声をかけて(好い感触、少しお話しました)通らせていただくと、看板の在る砂利道路に出る事ができました。
2024年12月21日 仲之丞中務丞ひろぴい◢⁴⁶
大堀山城
トイレ無し、駐車スペースは北側道路沿いに二カ所あり。ですが、近くに産業廃棄物業者もあり、不法投棄しに来たと勘違いされそうで落ち着きません。
さらに、入り口が二カ所とも倒木なのか不法投棄予防なのかでかい木が倒れててかなり入りにくいです。
遺構は郭周りの堀跡、土塁などしっかりと残ってますが、手入れされておらず竹藪やら倒木やらで避けながら歩くと方向感覚失います。さらに不法投棄のゴミとかも所々散らかってて残念な城跡です(涙)。
しかしながら、残る遺構を知ってもらいたくて2度目の挑戦&口コミ投稿致しました。
訪城の際はそんな事を覚悟の上挑戦して下さいませ。
2024年11月18日 ハレスト太郎
大堀山城
前投稿者の通りで、案内看板が無いとわかりませんが、一見倒木等で塞がれているようですが、良くみると獣道のような道が有りました。30m程度草木をかき分けて行くと、空堀がはっきりとわかる場所にたどり着けます。
うっそうと繁る竹林 草木 倒木。まさしく『夢のあと』だなぁと、感慨深く思いを馳せてました。
夏はもっとうっそうと繁り、虫も凄いと思うので、おすすめはこれから冬の時期でしょうか。陽が落ち始めてからの探索は危険です。
2024年11月03日 埼玉駿河守だ
大堀山城
これまで、通勤途中で東武東上線若葉駅付近で攻略していましたが、この度マイカーにてリア攻め致しました。圏央道の南側、圏央道を潜って側道の次の細い未舗装の道を東に数十mほど進んだところの右側に解説板があります。そこから2〜30m先に霊園があり、そこに駐車させて頂きました。
未舗装の駐車場の西側の雑木林に大堀山城がありますが、伐採等が全く(?)されておらず、雨の日の朝、藪を掻き分けて入ることは躊躇われ、解説板付近でリア攻めを試してみましたが難しく、諦めかけていた時に、解説板の西側十数メートルのところでリア攻めが成立しました。
2023年05月27日
鎌倉街道堀兼道[大堀山城 その他]
名細中学校の南、市民の森の南西入り口に案内板小畔川河畔の生活道路としても現役でした。未舗装路は歩くのヒザが楽。
西向かいの東洋大川越キャンパスの保全されたアカマツ林とは印象は全く違っていて対比が面白いと思いました。
クツ音がポコポコいって面白い。堀割は長の往来で踏み締まっています。それでいて近隣ですと吉見町のポンポン山等の、歩行の感触を思い出しました。
2022年05月22日 マグロ常陸介祐平
大穴城[大堀山城 周辺城郭]
公団住宅地の公園に案内板があります。中世の城跡に徳川幕府の旗本の本多秀玄が陣屋を構えたようです。道路を隔てた雑木林は立ち入り禁止となっていますが、雑木林の中に土塁と空堀のような地形が見られます。
2022年05月22日 マグロ常陸介祐平
大堀山城
埼玉県の史跡に指定されている規模の大きい平城です。県の史跡に指定されているのですが、整備はほとんどされておらず、薮をかき分けての入城となります。不法投棄されたものも多く、写真の案内板からすぐに便器が出迎えてくれます。
三重の堀や土塁の状態は良好ですが堀底を歩く以外は通路になっておらず、土塁や2メートル程度の切岸を乗り越えることになります。冬に挑むのがベストと思われます。保存状態が良いため、整備をすれば人気スポットになるかもしれません。
2022年05月22日 マグロ常陸介祐平
塚越城[大堀山城 周辺城郭]
西光寺の東側が城址となります。風土記稿によると、管領上杉氏の家臣の小嶋豊後が屋敷内に庵を建て西光庵と称したとしています。その子の小嶋越後は、河越夜合戦の後に上杉氏から去り、北条氏に属すも後に帰農し、庵を再興して西光寺になっています。
西光寺の墓地の奥から竹藪を抜けると雑木林の中に土塁と空堀が確認出来ます。西光寺の歴住の墓域には、他所から移された室町時代初期の勝氏ゆかりの宝篋印塔があります。
2022年05月22日 マグロ常陸介祐平
比企氏館[大堀山城 周辺城郭]
金剛寺というお寺に比企氏館があります。住職さんに説明を聞くことが出来ました。館跡としては空堀の一部を残すのみですが、住職さんが子供の頃は堀に囲まれていたとのことでした。
城主の比企氏の戦国期以前の動向はよくわかっていないようですが、徳川家康に由緒をもって旗本に取立てられているので、比企能員の子孫であるのは間違いないと思われます。お寺には戦国期からの比企氏の墓があります。また、本堂建て替えの際に平安時代の焼き物が出てきたとのことで、古くからの居館だったようです。大河ドラマの影響もあり、5組程の観光客が来ていました。
2020年12月28日 拓之助弾正少弼
稲荷塚古墳[大堀山城 寺社・史跡]
かつては十数基の古墳が築造されていたと伝えられていますが、今は稲荷塚古墳が一基認められるだけとなっています。
稲荷塚古墳は前方後円墳で3分の2程度が削られ、現状は竹藪になっています。昭和26年に周溝部と考えられるところから、馬形埴輪が出土していることから古墳であった事が確かで、現在はステンレスの細長い標柱が立っています。
2020年12月28日 拓之助弾正少弼
小見野氏館[大堀山城 周辺城郭]
下小見野の法鈴寺が、小見野氏の館跡とされています。
小見野氏館は武蔵七党・児玉党、浅羽氏の流れをくむ鎌倉時代の武士でした。
この館は築城年代が不明で近くに大串次郎館があるため難しい所ですが、伝承はここ法鈴寺でした。
遺構は境内の東側、南東側に土塁状の段差や空堀状の溝があります。
また鬼門には鬼門除けのような隅欠けとなっていました。
2020年12月28日 拓之助弾正少弼
上伊草堀ノ内館(牛村家館)[大堀山城 周辺城郭]
上伊草堀ノ内館は井草郷の土豪・名主と推定される牛村助十郎の屋敷跡でした。
館は一辺が約80mの四角形と推測され、現在はぶどう園と牛村家が住んでいます。遺構は東側、南側、北側には水路、西側には側溝のような空堀あとがあり、堀が周りを囲んだことが推定されています。
また、館との繋がりは不明ですが鬼門に不動明王が祀られた社がありました。
2020年12月28日 拓之助弾正少弼
比企氏館[大堀山城 周辺城郭]
川島町金剛寺が、比企氏の館跡でした。東松山市にも比企氏の館はありますが、この館は鎌倉時代に比企一族が討伐された後、子孫は存続し、戦国期に松山城主上田氏に使えたときに本拠地としたのが今回の比企氏館でした。
遺構は境内背後には空堀が残っておりまた、西側の水路は水堀跡と思われる遺構がありますが詳細は不明で、同境内には、比企氏の墓地があります。
2020年12月28日 拓之助弾正少弼
中山陣屋[大堀山城 周辺城郭]
中山陣屋は明和4年、出羽国山形の転封を命ぜられた秋元凉朝が、飛び地として残された川島の地を管理すめために中山陣屋を作りました。
天保12年のとき、国替えがありこの地も河越藩領となり陣屋無くなりました。
現在は中山小学校が陣屋の跡でした。しかし小学校のため、遺構は認められません。小学校の敷地内に「中山営址」と「陣屋跡」を示す標柱もありますが、小学校のお奉行様に許可をとり恐る恐る大手を突破しないとなりません…
2020年12月28日 拓之助弾正少弼
中山氏館(堂地遺跡)[大堀山城 周辺城郭]
堂地遺跡は12世紀中頃~13世紀前半の中山氏もしくは鎌倉幕府有力武士の居館でした。
圏央道建設の発掘調査で大鎧の小札、短刀等の武具類の他、碗や高級陶磁器が出土し、鎌倉幕府の有力武士だった可能性があります。
鎌倉時代には幅7メートルの堀に囲まれた大規模な館があった事が判明しました。
現在見られる遺構は無く、圏央道建設に伴い消滅しました。
これも時代の流れには逆らえません…
2020年12月28日 拓之助弾正少弼
大串次郎館[大堀山城 周辺城郭]
武蔵七党の横山党に属した平安時代後期の武士、大串次郎重親の館跡です。吉見町史」によると「大串陣屋」と称された約1ヘクタールの台地が所在し、江戸時代からは下氏が居住したと記されています。
現在は堤防内に竹藪かあり堀跡状の地形、高さ1mほどの「土塁」が確認されますが、これは近世の大串陣屋の構掘の一部かもしれませんが不明です。
2020年10月29日 長森原
大堀山城
大堀山城説明板には当時、城を挟んで東西両側に2つの古街道が通っていた事が書かれています。
東側を通っていたのは鎌倉街道堀兼道で、この道は所沢で鎌倉街道上ノ道から分岐して北上し、大堀山城の脇を抜けて群馬太田と栃木足利に通じていました。
今も大堀山城南方にある川越市民の森の中に、古道のまま保存されている堀兼道を見ることができます(写真)。
西側を通っていたのは今は県道256号となっている川越児玉往還で、川越から高坂・唐子を回って菅谷で鎌倉街道上ノ道に接続し、川越城と鉢形城を結ぶ道となっていました。
2つの街道は城の南、約200mの所(「字往還上の遺構」の東側)でクロスしており、大堀山城は交通の要衝を押さえる為の陣城であったと考えられます。
2020年10月29日 長森原
大堀山城
写真は城域南側に設置されている説明板の縄張図です。
しかし実際に登城してみると、この縄張図には記載されていない高さのある巨大な土壇が、本郭中央を南北に貫いて築かれていました。
この土壇がなんなのか帰ってから調べてみると、西股総生氏の「土の城指南」(学研プラス)という本に、「埼玉県川越市にある大堀山城には旧陸軍坂戸飛行場に伴う掩体の土塁が残っていて、城の土塁と重複しているので紛らわしいのだが、よく観察すると、ちょうど四式戦闘機のような単座機がすっぽり入りそうな大きさと平面形をしている。」という記述を見つけました。
あの土壇も西股氏の言う軍関係のものなのか、近年の(発掘調査時の?)残土置き場なのかはわかりませんが、縄張図に反映されてない後世の改変部を城の遺構と取り違えると、現位置の把握に手間取りますのでご注意ください。
2020年08月25日 拓之助弾正少弼
大堀山城
絶対に整備した方かいい城郭図です。 川越の外れにあり、行く道も小さいので 注意しながら進みましょう。 そうすると説明板が見えて来ます。 そこに1台止められるスペースがあります。 不法投棄が多いので間違えられそうだったら城攻めステッカーを貼って見てください でも人道りがないですけど…… 説明板の横にピンクリボンがついている木を頼りに進むと 堀に出て本郭に入ります。 土塁と堀が凄い城ですので1回行って見てください、勇気がいりますけと…… 近くに他の載ってない城がありますので見どころです。
2020年05月28日 野呂利左衛門督休三
字往還上の遺構[大堀山城 周辺城郭]
鎌倉街道の西側にあった陣城か。現在は宅地になっており遺構はまったく見当たらない。
すぐ東側の藪、半分ほどで様相が変わる。間に溝状態のものが見え、東側がわずかに高くなっている。高くなっているのは鎌倉街道の跡か?
2019年05月15日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
大堀山城
いかにも都市郊外といった雰囲気の森に向かってゆくトレイルを進んでゆくと、竹やぶに変わるあたりに立派な空堀が現れます。★一部埋まっていますが概ね方形に取り囲んでいて、横矢がかりなども見られます。
2019年01月16日 織田信長
大堀山城
夏や夜に行くことは、やめた方がいいと思います。竹林が殆どを占めていて、移動には困難を伴います。また、一部の堀に、ゴミが不法投棄されており、道もほとんど整備されていません。
しかし、標準の健康な方ならば探索することは、それほど難しくはありません。
2018年12月10日 Marky武蔵守
大堀山城
圏央道の手前の細い道を進むと右側に看板がありますが、その道ではなくさらに1つ手前の道を進むと左に脇道があり、そこから城の主郭に辿りつけます。奥に神明神社の小さな社があり、周囲を土塁と堀に囲まれていることがわかります。ちなみに最初の看板の道を挟んだ反対側をよく見ると、馬出の跡があります。城の周囲に城跡が点在しているのでそちらも見学するのもあり。
2016年08月16日
大堀山城
川越市にありますが、圏央道の南側に位置します。
ナビをセットし、かなり細い道を進むと、若葉霊園の案内表示が出て来ます。
更に進んでいくと、右手にみえる山林が城趾となっています。
昼間でも、暗い感じで、自然のままが残っていて、整備はほとんどされていません。
なので、夏の時期の散策は不可能だと思われます。
説明板がないと、ほんとただの雑木林に見えますが、良く読むと、戦国時代の関東における主要な二つのルートが交わる重要な拠点を押さえる役割を担って築かれた重要なお城だったようです。
県指定史跡にもなっているので、もっと整備に力を入れれば、訪れやすくなるのでは、と思いました。
大堀山城の周辺スポット情報
説明板(南)(碑・説明板)
説明板(北)(碑・説明板)
宮廻館(周辺城郭)
字往還上の遺構(周辺城郭)
字在家の遺構(周辺城郭)
戸宮前館(周辺城郭)
広谷宮前館(周辺城郭)
広谷宮前館(南側)(周辺城郭)
大穴城(周辺城郭)
塚越城(周辺城郭)
中山氏館(堂地遺跡)(周辺城郭)
上伊草堀ノ内館(牛村家館)(周辺城郭)
伊奈氏屋敷(周辺城郭)
比企氏館(周辺城郭)
中山陣屋(周辺城郭)
大串次郎館(周辺城郭)
小見野氏館(周辺城郭)
長谷部氏屋敷(周辺城郭)
謎の堀(周辺城郭)
粟生田氏館(周辺城郭)
勝呂館(周辺城郭)
島田氏陣屋(周辺城郭)
恒岡氏館(周辺城郭)
小沼堀ノ内(周辺城郭)
小島氏館(周辺城郭)
明泉館(周辺城郭)
塚越館(周辺城郭)
横田氏陣屋(周辺城郭)
勝呂氏館(周辺城郭)
別所屋敷(周辺城郭)
林氏屋敷(周辺城郭)
法音寺館(周辺城郭)
林氏屋敷(周辺城郭)
勝呂廃寺(寺社・史跡)
雷電塚古墳(寺社・史跡)
埋蔵銭発掘現場(寺社・史跡)
金乗院(寺社・史跡)
伊草神社(伊草獅子舞)(寺社・史跡)
伊草宿(寺社・史跡)
伊草の川渡し場(寺社・史跡)
森谷稲荷塚古墳(寺社・史跡)
比企氏墓地(寺社・史跡)
国指定有形文化財 山門(寺社・史跡)
稲荷塚古墳(寺社・史跡)
正直観音(寺社・史跡)
勝呂神社古墳(寺社・史跡)
正直玉作遺跡(寺社・史跡)
日枝神社古墳(寺社・史跡)
経塚(寺社・史跡)
安楽寺遺跡(寺社・史跡)
九頭竜様(寺社・史跡)
鳥羽井沼(寺社・史跡)
東大塚古墳(寺社・史跡)
愛宕塚古墳(寺社・史跡)
諏訪塚古墳(寺社・史跡)
富士浅間塚古墳(寺社・史跡)
愛宕塚古墳(寺社・史跡)
広徳寺古墳(寺社・史跡)
浅間塚(寺社・史跡)
太子堂(寺社・史跡)
秋元氏墓碑(寺社・史跡)
中山氏の墓(寺社・史跡)
大智寺(寺社・史跡)
勝原古戦場(寺社・史跡)
元町薬師堂(寺社・史跡)
戸守の火の見櫓(寺社・史跡)
坂戸市民俗資料館(関連施設)
川島民具展示館(関連施設)
鎌倉街道堀兼道(その他)










発掘調査では本郭・二の郭の下に、方形の郭があったことを示す堀が検出され、最低でも1回の造り替えはあったことが確認された。出土した遺物はかわらけや瀬戸・美濃産陶器などの他、双六などの遊戯に使われる土製のサイコロ、中国産の茶入、木製臼、蘇民将来符などであり、15世紀後半の年代が与えられる。
発掘調査成果から推測できる15世紀後半という遺跡の使用時期には、大堀山館跡の周辺では文明9年(1477)の「勝原(すぐろはら)の合戦」、長享2年(1488)の「勝陣所(すぐるじんしょ)」など、幾つかの合戦や陣所の記録が残っている。
大堀山館跡の築城経緯は明らかになっていないが、これらの合戦のいずれかに際して扇谷上杉氏によって築かれたものと考えられる。