田波目城(たわめじょう)

田波目城の基本情報

通称・別名

多和目城、多波目城

所在地

埼玉県坂戸市多和目

旧国名

武蔵国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

宿谷重近

築城年

室町時代

主な改修者

主な城主

宿谷氏

廃城年

遺構

曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、柱穴

指定文化財

県選定重要遺跡(田波目城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

毛呂氏館(埼玉県入間郡)[2.7km]
中山家範館(埼玉県飯能市)[6.9km]
城山砦(埼玉県狭山市)[8.4km]
大堀山城(埼玉県川越市)[9.7km]
大築城(埼玉県比企郡)[10.7km]
河越館(埼玉県川越市)[10.7km]
高坂氏館(埼玉県東松山市)[11.0km]
大蔵館(埼玉県比企郡)[11.5km]
菅谷館(埼玉県比企郡)[12.3km]
小倉城(埼玉県比企郡)[12.5km]

田波目城の解説文

中世には日本各地に無数の城館が築かれた。織田信長の安土城(滋賀県安土町)のような著名な城館から、現在では地元でも忘れられてしまったような小さな城館に至るまですべての数を把握することは困難である。

そしてその多くは石垣を築き、掘りに水を湛えて、白壁をめぐらし、白亜の天守が聳えるといったものではなく、土を掘り返して堀と成し、斜面を削って壁として、素朴な建物をめぐらした程度の城館であった。

しかし、このような城館が中世において大きな役割を果たしたのである。

市内にもいくつかの中世城館が残り、その存在の伝承を伝えているが、なかでも多和目城は比較的良く中世の面影を伝えた城館である

坂戸市の西の端、大字多和目の標高113.4メートルの城山に多和目城は築かれている。城山の南側には高麗川が東に流れ、厳しい崖となっている。

北東方向に傾斜が緩やかに続くほか、南西・東・北東方面に尾根が延びている。地形の状況からは高麗川の北側の勢力が、南からの侵入に備えて確保する山といえる。

この状況を裏付けるように、中心部以外に遺構は見られず、尾根に沿って敵が侵入することを防ぐために普請する堀(堀切という)も確認できない。

遺構は山頂の平場に築かれている。南側の崖で守られた一角を除き、土塁と空堀が周囲を囲む。東西110メートル、南北45メートルの基本的に長方形を成す1つの空間からなっている。

東側には土塁の線が折れ曲がっている場所があり、横矢という技法の構造が見られる。横矢とは攻め込む敵に対して、側面から射掛けることのできるように工夫した構造のことで、戦国時代に頻繁に活用されることになる。したがってこの多和目城も戦国時代の城館であることがまず推測される。

周囲を囲む土塁は外側の高さが3メートルの高さをもつが、内側はさほど高いものではない。また土塁の外側を巡る空堀も埋まっていて正確な数字はわからないが、規模の大きな堀ではない。

堀や土塁で囲まれた内部は緩やかな傾斜をもっており、郭が整地された様相は表面観察からは確認できず、比較的自然地形が保たれているようにうかがえた。

1972年に城址の北西部において800平方メートルにわたって発掘調査が実施された。土塁の内側に柱穴を確認したほか、縄文時代の居住址を検出している。しかし、中世の遺物は発見されなかった。したがって考古学的には多和目城の活躍した時代は確認されていない。

このような多和目城であるが、城主など歴史的な背景も不明である。

江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』にも「城跡とのみ伝えて何人の居城なりしをしらず」と記しており、土地の記憶からすでに忘却されていることを書き留めている。ただ江戸時代の記録で「天正年中以来田地并ニ先祖系図書」(市史I 1923)には、年代不詳としながらも、「田波目大かけ城」の高麗新節次の合戦を記録している。伝承の書留であり必ずしも正確であるとは言えないが、地理的な条件が一致する実に興味深い資料である。

このように多和目城は遺構として残りながらも、不明な点がまだ多い城館である。遺構の状況からすると、あるいは高麗川の北側の勢力が合戦に際して、陣所(=陣城)として築いた城館かもしれない。しかし詳細な解明は後代に委ねられている。

情報提供:坂戸市社会教育課文化財保護担当


田波目城の口コミ情報

2025年12月03日 河堤北星
川崎平右衛門陣屋[田波目城  周辺城郭]



川崎平右衛門定孝が新田開発の拠点として建てた陣屋です。
武州三角原陣屋という名称で呼ばれる事も多いです。

川崎定孝は元々農業従事者で、多くの開墾事業を成功させたり、私財を投じて窮民を救済したことなどとされ、農民から慕われていたそうです。

享保8年に将軍・徳川吉宗より新田開発令が出された際、武蔵野台一帯の農地は困窮しており、凶作も相まって潰れ百姓が多くいたそうです。そこで幕府は農民出身である川崎平右衛門を南北武蔵野新田世話役に任命し、農家の実情にあった新田開発を勧めたそうです。この陣屋はこの際に拠点として建てられたものです。定孝は後に代官にまで昇進しています。

その後、定孝は勘定吟味役兼諸国銀山奉行に任ぜられ、美濃へ任地替となりました。その際にこの陣屋の建物は取り払われたそうです。

建物が取り払われたあとも土塁や堀は昭和16年頃までは残存していました。しかし、日本農地開発営団の開墾が始まり、当時の遺構は姿を消してしまいました。現在は復元された土塁をみることができます。また、跡地には地域の百姓が川崎定孝の徳を追悼して建てられた祠があり、祠の正面には「川崎大明神」と刻まれていました。

南門前には陣屋に関する説明板も設置されています。

城郭基本情報
名称      川崎平右衛門陣屋
通称・別名   武州三角原陣屋
所在地     埼玉県鶴ヶ島市高倉
問い合わせ   鶴ヶ島市教育委員会
分類・構造   陣屋
築城主     川崎平右衛門
築城年     元文4年(1739)
主な城主    川崎定孝
廃城年     明和4年(1767)
遺構      堀、祠
指定文化財   鶴ヶ島市指定史跡
再建建造物   土塁、南門跡
跡地      史跡として整備
アクセス    川鶴団地バス停より徒歩20分
おすすめ度   ★★★☆☆
見学所要時間  10分
服装目安    軽め

2025年11月20日 マグロ常陸介祐平
大家城[田波目城  周辺城郭]



東武越生線西大家駅前の国渭地祇神社(森戸神社)が城址となります。
お城は台地の縁にあり、神社の西側には土塁状の土盛り、台地の下には空堀状の溝が確認出来ます。神社から台地下までの高低差は目測で7~8m程はあるように見えますが、傾斜は緩やかで、切岸加工を施している感じではありません。

お城としての来歴や城主などは不明です。森戸の地は小田原衆所領役帳に御馬廻衆の久米玄蕃35貫(他に小田原や横浜にも所領有り)となっていますが、風土記稿では隣村の四日市場村の小名(小字)玄蕃分は久米玄蕃が居住していたから付けられた地名ではないかとしており、このお城とは、関係ないように思われます。

城址に鎮座する国渭地祇(くにいちぎ)神社は、社記によると延暦年間に坂上田村麻呂が東征の帰途に社殿を再営し、後に奥州の藤原秀衡が再建したとされ、風土記稿の書かれた江戸時代後期には熊野社と呼ばていました。神社の標柱や扁額には延喜式内とありますが、比定される神社は、所沢の北野天神社です。神社の隣には江戸時代まで熊野社の別当寺で本山修験山本坊配下の大徳院が存在いており、跡地の電気屋さんのお庭には、風土記稿にも記述がある観応2年(1351年)の板碑が見られます。板碑は僧侶の逆修(生前供養)のもので、武士に関するものではありません。あとから調べてみると、城址に関係する神社もお寺(廃寺)も歴史が古く、本当にお城なのかは微妙に思えました。

因みに大徳院の跡地の電気屋さんは「ダイトク電器」です。修験僧?(修験者)は苗字を名乗っていたようで、江戸時代には大徳(平姓)を苗字として使用しており、周応・周乗・伝周など「周」の文字を通字としていたことが確認できます。高麗神社の高麗氏系図には、天文22年(1553年)に亡くなった修験高麗覚与の娘が、森戸の平周頼に嫁いでいるので、熊野社を含む大徳院が半僧半士として城郭構造を有していたのかもしれません(勝手な想像です)。

2025年06月22日 河堤北星
浅羽城[田波目城  周辺城郭]

萱方城とも呼ばれているかつての浅羽氏の拠点の城です。現在は宅地開発されており、遺構は確認できませんが、城のあったとされる場所は「城跡公園」「タイヤ公園」として整備されています。
城主である浅羽下総守の築城以前の動向はよく分かっていませんが、最終的には北条氏に属しており、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠城し、その後称名寺で自害しています。その際に浅羽城も廃城となっています。

小田原征伐に関係のある城で、城跡公園を名乗る公園もあったので期待しましたが、特に遺構は見つけられませんでした。一帯は「鶴舞ニュータウン」として宅地開発されており、その中にある城跡公園やタイヤ公園は地域住民の憩いの場となっていました。(悍しい量のタイヤにはびっくりしましたが…(笑))
おまけとして、城と直接関係はないですが、タイヤ公園には最近はあまり見ない遊具もありましたので、人目が気にならないなら是非(笑)。

城郭基本情報
名称(よみ)  浅羽城(あさばのじょう)
通称・別名   萱方城、浅羽野城
所在地     埼玉県坂戸市鶴舞1丁目7ほか
問い合わせ   坂戸市教育委員会
分類・構造   平城
天守構造    なし
築城主     浅羽下総守
築城年     永禄3年(1560)?
主な城主    浅羽下総守
廃城年     天正18年(1590)
遺構      不明
指定文化財   なし
再建建造物   説明板、公園
アクセス    東武越生線一本松駅から徒歩15分
おすすめ度   ★★☆☆☆
見学所要時間  10分
服装目安    軽め

攻略情報
東武越生線の坂戸駅と一本松駅の中間あたりにあるので、駅からは少し歩きます。しかし、周辺案内に「城跡公園」が記載されている他、道順もわかりやすいのでリア攻めは難しくないでしょう。途中の大通りは交通量が多い割に歩道が狭いので注意してください。

2025年06月07日 いれぶん武蔵守
永源寺[田波目城  寺社・史跡]

宿谷近江守重近が大旦那である為、彼が田波目城城主であったと考えられている。

2024年05月04日 埼玉内記
田波目城



北側は住宅地であり、人家が隣接していますが、南側には川が流れ一号堰があります。今回、一号堰の横の空地に車を停めさせて頂き、車が通行できる幅の道路を歩いて上りました。城域は私有地であり立入りはできず、イノシシやマムシに注意するよう書かれた表示と立入禁止の看板がたくさん立てられていました。住宅地から近く、散策している人たちがたくさんいらっしゃいました。山頂まで上がれないのは残念でした。

2022年05月29日 里のシロクマ右馬頭
田波目城

今日の攻城目標15城の1番目、限られた時間の中、訪城。運動場に駐車し緩やかな坂道を10分程で上の田波目城の標柱へ、一部土塁を確認し20分程ウロチョロし下山。山の上からの眺めはまずまず遺構としては残念。

2020年12月15日 受けすぎ♥️検診。式部大輔
田波目城

田波目城跡の面影はほとんどありませんが、城跡から高麗川側へ山の中を歩いて向かうと当時の道標を確認出来ます。見つけるのは相当困難ですが探してみて下さい。

2020年09月10日 小屋のgyopi3
田波目城



側の公園駐車場に車を停めて攻城しました、入口(案内看板横)から数分で、主郭跡と思われる立て札に着けます。

2017年05月09日 
田波目城

高麗川に面した、標高113.3mの山城です。
西坂戸運動公園の駐車場が利用できます。
郭の一部が残存しているそうですが、
わかりにくかったです。
頂上にも、立て札のようなものしかなく、
途中に水道局関連の場所と、
送電線みたいなものがあっただけでした。

2011年08月02日 ぎっちゃん
田波目城

土塁と堀が残っているとの事ですが、結構ヤブヤブでよくわかりませんでした…(^_^;)

田波目城の周辺スポット情報

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 城山の森案内図看板(碑・説明板)

 浅羽城(周辺城郭)

 大家城(周辺城郭)

 川崎平右衛門陣屋(周辺城郭)

 住吉四所神社(寺社・史跡)

 大寺廃寺(寺社・史跡)

 永源寺(寺社・史跡)

 西坂戸運動場トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

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