田波目城(たわめじょう)
田波目城の基本情報
通称・別名
- 多和目城、多波目城
所在地
- 埼玉県坂戸市多和目
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宿谷重近
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 宿谷氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、柱穴
指定文化財
- 県選定重要遺跡(田波目城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
毛呂氏館(埼玉県入間郡)[2.7km]
中山家範館(埼玉県飯能市)[6.9km]
城山砦(埼玉県狭山市)[8.4km]
大堀山城(埼玉県川越市)[9.7km]
大築城(埼玉県比企郡)[10.7km]
河越館(埼玉県川越市)[10.7km]
高坂氏館(埼玉県東松山市)[11.0km]
大蔵館(埼玉県比企郡)[11.5km]
菅谷館(埼玉県比企郡)[12.3km]
小倉城(埼玉県比企郡)[12.5km]
田波目城の解説文
田波目城の口コミ情報
2026年03月26日 マグロ常陸介祐平
田波目城
お城の詳しい来歴などは不明のようですが、現地説明板によると江戸時代(1779年)の狭山市柏原の長谷川家に伝わる文書の記録として、「田波目大がけ城」を川越城の扇谷上杉氏が攻めた時に柏原の住人半貫内膳が参戦し高麗の新節次と合戦したとしており、この記録は大永6年(1524年)の上杉氏による毛呂城攻めを伝承として記録したのではないかとしています。半貫内膳(刀鍛冶の系統)と新節次(高麗氏一族)という超マイナーな武士の名が多少のリアリティーを感じます。城主は不明のようですが、麓の永源寺が天文6年に宿谷近江守重近が開基したと宿谷氏の文書に記されており、こちらのサイト基本情報でも重近を築城主としています。また、所領役帳では田波目を北条氏堯の所領としており、風土記稿では氏堯の陣屋であろうかとしています。
お城は城山のピークに築かれ、南側には高麗川が流れる要害の地となっています。2つの郭で構成され、4つの狭い腰郭が付属したようです。土塁が残っており、南側には虎口らしき構造も見られますが、縄張り図との位置関係が分かりづらい感じでした。周囲に切岸加工された風もなく、曲輪内の削平も甘く、簡易的な砦のような印象です。発掘調査では、建物の一部と思われる柱穴が検出されており、掘立ての建造物が建っていたようです。
2026年03月25日 マグロ常陸介祐平
河村氏陣屋[田波目城 周辺城郭]
旗本河村氏の陣屋です。河村氏は相模の波多野氏の一族河村義秀の子孫で、重勝の代に大坂の陣に参戦し、後に大番から大番組頭となっています。知行地は武蔵国足立郡、入間郡、幡羅郡で500石で、父重信の代かもしれませんが家康の関東入国時に陣屋は築かれたものと思われます。
陣屋は、稲生氏の陣屋から西に250m程の西福寺(河村氏との関連は不明)の南側とされています。現在は住宅地となり遺構は残っていません。西福寺の背後には高麗川が流れており、要害性は感じられます。風土記稿には河村某陣屋跡として記載されていますが、稲生氏の陣屋と同じ辺にあり、六反二畝の地にして今は概ね畠となっているとあり、江戸時代後期には遺構は失われていたようです。重勝は、本人が開基した村内の重勝庵に葬られたようですが、重勝庵に関してはどこにあるのか(あったのか)調べても分かりませんでした(風土記稿には記載あり)。重勝の娘は、お隣の稲生正信の子で長崎奉行を勤めた正倫に嫁いでいます。
2026年03月24日 マグロ常陸介祐平
稲生氏陣屋[田波目城 周辺城郭]
旗本稲生氏の陣屋です。稲生氏は藤原式家の末流とされ、平賀俊親の孫光定が尾張国春日井郡稲生村に住したことに始まります(桓武平氏三浦氏流の説もある)。光信の代に家康に仕え、子の光正が長篠の戦いなどで活躍して500石取りとなり、家康の関東入国により多和目村など3ヶ村を宛てがわれています。この際に陣屋は築かれたと思われます。光正の子の正信は大坂の陣に参陣し、後に小姓番や書院番を勤め下総に200石を加増され、亡くなると多和目城の中腹に正信庵が建立され、稲生氏の菩提寺となっています。その後稲生氏は1500石に加増され、分家も1500石と2000石と奉行を出す上級旗本として存続しています。稲生家には1970点もの文書が伝わり、令和5年には埼玉県の文化財に指定されています。
多和目天神社辺りが陣屋となりますが、遺構らしきは見当たりません。風土記稿に稲生某陣屋跡と記載があり、村の東にあり八段程の段差の地で四方に囲いめぐらし門は南向きに立ち、傍らにある天神社のあたりも陣屋跡と伝わり囲いは僅かに昔のすがたを残しているといった内容で、江戸時代後期には囲い(土塁?堀?)が残っていたようです。
多和目村は、お墓も残ることからメインの知行地のようですが、お隣(250m程西)に陣屋を構えた河村氏と相給で、それぞれ村内では180石でした。稲生氏が江戸に定住すると陣屋は廃されたようで、知行地の管理は地元の関田氏に任されています。
文化財になった文書は大戦中に正信庵(廃寺)に保管され今に伝わり、稲生氏代々のお墓も残るということで、令和2年の埼玉県立歴史と民族の博物館のコロナで中止となった武蔵国の旗本展を振り返る展示を見た後に多和目城周辺を探索するも見つからず、地元の方数名に尋ねるもご存知の方はいませんでした。今回は再探索して、ようやく地元の年配の女性から「お墓は見たことないが、稲生様と呼ばれる場所はお城の南東側の坂を登った民家の裏」と教えてもらい行ってみました。残念ながら道の突き当たりは民家となっており(奥に道がありそうだが車があって見えない)、近づくと人感式の電灯が点灯、残念ですが降参しました。この場所で合っていたのかは分からずじまいです。
2026年03月23日 マグロ常陸介祐平
川崎平右衛門陣屋[田波目城 周辺城郭]
地方巧者として知られる川崎平右衛門定孝の陣屋です。定孝は多摩郡押立村(府中市)の名主の出身で、最初は名主として地元の新田開発を請け負い、元文3年(1738年)には代官上坂政形の下で役料10人扶持の新田世話役となります。元文4年になると政形の下で手代格の南北武蔵野新田世話役(20人扶持)に任命され、関野新田(小金井市)と三角原新田(当所)に陣屋を構えています。翌年には政形の配下から外れ、独自の采配を許され、寛保3年(1743年)には支配勘定格となり寛延2年(1749年)まで新田開発に従事しています。その後、武蔵野新田の統治は関東郡代伊奈氏に変わっているので、この陣屋は廃されたと思われます。
以降定孝は美濃の代官、石見銀山代官を歴任し、子孫も三代にわたり代官を勤めています。また、大正7年になると功績により従五位を贈位されています。
現地に遺構は残っていませんが、元の場所とは少しズレて、土塁が再現されています。中央に建つ祠は、中に石祠が入っていますが、定孝を慕った農民が亡くなって30年後に作ったものです。
2026年03月22日 マグロ常陸介祐平
元屋敷[田波目城 周辺城郭]
慈眼寺の北側が該当地となります(元屋敷遺跡A)。元屋敷という地名から、屋敷があったと推測されますが、付近には元屋敷の他、三ツ木屋敷や三ツ木館などの居館がありますが、先人様が口コミや位置登録をされているので、場所探しは楽にでき、情報もあるので助かります。位置登録されている場所で農作業をしていた方にお伺いしたところ、「地名としては元屋敷だが、屋敷があったとの伝承はない」とのことでしたが、地名は正直なので、何かしらあったのではないかと思います。発掘調査では元屋敷地区には、中世の集落が存在していたことが確認されています。
隣接する慈眼寺の石碑には、扇谷上杉氏配下の在地勢力者が開基したと考えられると記されています。墓域には中里姓と吉澤姓が目立ちますが、中里氏は享徳年間の板碑を有する旧家、吉澤氏は鶴ヶ島市のデジタル郷土資料にも帰農した武士として吉沢兵部の名が見られます。屋敷との関係は不明です。
2026年03月22日 マグロ常陸介祐平
三ツ木屋敷[田波目城 周辺城郭]
城館として発掘調査がなされたようですが、該当地は畑となっており、遺構らしきは見当たりません。三ツ木屋敷遺跡や北側に隣接する元屋敷遺跡Bとは僅かにズレていますが、北西側の狭い雑木林にL字形に空堀状の溝が確認できます。空堀状の溝は道路で途切れますが、その先は三ツ木屋敷遺跡に伸びていたと思われます。
空堀状の溝の北側の畑は一段高くなっている為、館の堀としては少々不自然で、土塁も伴いませんが、用水路の跡とも考えづらい構造となっています。
2025年12月28日 東堤北星
三ツ木屋敷[田波目城 周辺城郭]
この地域に点在する小規模城館群の一つです。この屋敷も例に漏れず文献が殆どないため屋敷主等の詳細は不明です。(おそらく無名な小規模武士団の居館か?) 情報によると室町時代の屋敷跡で、空堀などの遺構があるそうなのですが、現地を探し回ってもそれらしい遺構は見つけられませんでした。慈眼寺付近には土塁跡を確認でき、いくつかの個人サイトでは三ツ木屋敷の遺構なのではと書かれていますが、確認できた場所はどちらかといえば元屋敷があった場所なので、個人としては三ツ木屋敷というより元屋敷の遺構と考える方が自然だと考えます。裏付けになるような資料はないので断定はできないですがね…。(元屋敷=三ツ木屋敷の可能性もありますし…)
『文化財総覧』に示されている住所は現在畑になっていました。
発掘調査が行われている以上存在はするのでしょうが、結果として歴史も遺構も見つけられない、よく分からない物件でした。
2025年12月27日 東堤北星
元屋敷[田波目城 周辺城郭]
慈眼寺裏手から三ツ木屋敷の直ぐ側までの広範囲を有していた屋敷跡です。この地域は小規模な武士団が数団いたそうで、元屋敷もそのどれかの居館だったと考えられます。
伝承の類は一切無いため、詳しい歴史や城主などは全くもって不明であり、「元屋敷」と言う名称も『鶴ヶ島市遺跡地図』および地名でのみ確認できます。『文化財総覧』にも掲載はされていましたが、城館ではなく縄文時代の炉穴跡としてでした。現地では、慈眼寺付近の雑木林に土塁や空堀らしき遺構を確認できます。
なお、『鶴ヶ島市遺跡地図』によると、慈眼寺裏手が「元屋敷遺跡A」、三ツ木屋敷北側が「元屋敷遺跡B」と別々に登録されていますが、おそらく同じ物件だと思われます。リア攻めマップのアイコンはA遺跡に置いています。
なお、元屋敷=三ツ木屋敷の可能性もありますのでその点は留意してください
見学の際はA遺跡のほうが土塁や堀が分かりやすく、B遺跡よりは見応えがあります。一方、B遺跡は特に遺構は残っていないですが、三ツ木屋敷跡に隣接しているので見学の負担が軽いです。現状ただの畑ですけどね。ちなみに、写真はB遺跡です。
2025年12月03日 東堤北星
川崎平右衛門陣屋[田波目城 周辺城郭]
川崎平右衛門定孝が新田開発の拠点として建てた陣屋です。
武州三角原陣屋という名称で呼ばれる事も多いです。
川崎定孝は元々農業従事者で、多くの開墾事業を成功させたり、私財を投じて窮民を救済したことなどとされ、農民から慕われていたそうです。
享保8年に将軍・徳川吉宗より新田開発令が出された際、武蔵野台一帯の農地は困窮しており、凶作も相まって潰れ百姓が多くいたそうです。そこで幕府は農民出身である川崎平右衛門を南北武蔵野新田世話役に任命し、農家の実情にあった新田開発を勧めたそうです。この陣屋はこの際に拠点として建てられたものです。定孝は後に代官にまで昇進しています。
その後、定孝は勘定吟味役兼諸国銀山奉行に任ぜられ、美濃へ任地替となりました。その際にこの陣屋の建物は取り払われたそうです。
建物が取り払われたあとも土塁や堀は昭和16年頃までは残存していました。しかし、日本農地開発営団の開墾が始まり、当時の遺構は姿を消してしまいました。現在は復元された土塁をみることができます。また、跡地には地域の百姓が川崎定孝の徳を追悼して建てられた祠があり、祠の正面には「川崎大明神」と刻まれていました。
南門前には陣屋に関する説明板も設置されています。
城郭基本情報
名称 川崎平右衛門陣屋
通称・別名 武州三角原陣屋
所在地 埼玉県鶴ヶ島市高倉
問い合わせ 鶴ヶ島市教育委員会
分類・構造 陣屋
築城主 川崎平右衛門
築城年 元文4年(1739)
主な城主 川崎定孝
廃城年 明和4年(1767)
遺構 堀、祠
指定文化財 鶴ヶ島市指定史跡
再建建造物 土塁、南門跡
跡地 史跡として整備
アクセス 川鶴団地バス停より徒歩20分
おすすめ度 ★★★☆☆
見学所要時間 10分
服装目安 軽め
2025年11月20日 マグロ常陸介祐平
大家城[田波目城 周辺城郭]
東武越生線西大家駅前の国渭地祇神社(森戸神社)が城址となります。
お城は台地の縁にあり、神社の西側には土塁状の土盛り、台地の下には空堀状の溝が確認出来ます。神社から台地下までの高低差は目測で7~8m程はあるように見えますが、傾斜は緩やかで、切岸加工を施している感じではありません。
お城としての来歴や城主などは不明です。森戸の地は小田原衆所領役帳に御馬廻衆の久米玄蕃35貫(他に小田原や横浜にも所領有り)となっていますが、風土記稿では隣村の四日市場村の小名(小字)玄蕃分は久米玄蕃が居住していたから付けられた地名ではないかとしており、このお城とは、関係ないように思われます。
城址に鎮座する国渭地祇(くにいちぎ)神社は、社記によると延暦年間に坂上田村麻呂が東征の帰途に社殿を再営し、後に奥州の藤原秀衡が再建したとされ、風土記稿の書かれた江戸時代後期には熊野社と呼ばていました。神社の標柱や扁額には延喜式内とありますが、比定される神社は、所沢の北野天神社です。神社の隣には江戸時代まで熊野社の別当寺で本山修験山本坊配下の大徳院が存在いており、跡地の電気屋さんのお庭には、風土記稿にも記述がある観応2年(1351年)の板碑が見られます。板碑は僧侶の逆修(生前供養)のもので、武士に関するものではありません。あとから調べてみると、城址に関係する神社もお寺(廃寺)も歴史が古く、本当にお城なのかは微妙に思えました。
因みに大徳院の跡地の電気屋さんは「ダイトク電器」です。修験僧?(修験者)は苗字を名乗っていたようで、江戸時代には大徳(平姓)を苗字として使用しており、周応・周乗・伝周など「周」の文字を通字としていたことが確認できます。高麗神社の高麗氏系図には、天文22年(1553年)に亡くなった修験高麗覚与の娘が、森戸の平周頼に嫁いでいるので、熊野社を含む大徳院が半僧半士として城郭構造を有していたのかもしれません(勝手な想像です)。
2025年06月22日 東堤北星
浅羽城[田波目城 周辺城郭]
萱方城とも呼ばれているかつての浅羽氏の拠点の城です。現在は宅地開発されており、遺構は確認できませんが、城のあったとされる場所は「城跡公園」「タイヤ公園」として整備されています。
城主である浅羽下総守の築城以前の動向はよく分かっていませんが、最終的には北条氏に属しており、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠城し、その後称名寺で自害しています。その際に浅羽城も廃城となっています。
小田原征伐に関係のある城で、城跡公園を名乗る公園もあったので期待しましたが、特に遺構は見つけられませんでした。一帯は「鶴舞ニュータウン」として宅地開発されており、その中にある城跡公園やタイヤ公園は地域住民の憩いの場となっていました。(悍しい量のタイヤにはびっくりしましたが…(笑))
おまけとして、城と直接関係はないですが、タイヤ公園には最近はあまり見ない遊具もありましたので、人目が気にならないなら是非(笑)。
城郭基本情報
名称(よみ) 浅羽城(あさばのじょう)
通称・別名 萱方城、浅羽野城
所在地 埼玉県坂戸市鶴舞1丁目7ほか
問い合わせ 坂戸市教育委員会
分類・構造 平城
天守構造 なし
築城主 浅羽下総守
築城年 永禄3年(1560)?
主な城主 浅羽下総守
廃城年 天正18年(1590)
遺構 不明
指定文化財 なし
再建建造物 説明板、公園
アクセス 東武越生線一本松駅から徒歩15分
おすすめ度 ★★☆☆☆
見学所要時間 10分
服装目安 軽め
攻略情報
東武越生線の坂戸駅と一本松駅の中間あたりにあるので、駅からは少し歩きます。しかし、周辺案内に「城跡公園」が記載されている他、道順もわかりやすいのでリア攻めは難しくないでしょう。途中の大通りは交通量が多い割に歩道が狭いので注意してください。
2025年06月07日 いれぶん武蔵守
永源寺[田波目城 寺社・史跡]
宿谷近江守重近が大旦那である為、彼が田波目城城主であったと考えられている。
2024年05月04日 埼玉内記だ
田波目城
北側は住宅地であり、人家が隣接していますが、南側には川が流れ一号堰があります。今回、一号堰の横の空地に車を停めさせて頂き、車が通行できる幅の道路を歩いて上りました。城域は私有地であり立入りはできず、イノシシやマムシに注意するよう書かれた表示と立入禁止の看板がたくさん立てられていました。住宅地から近く、散策している人たちがたくさんいらっしゃいました。山頂まで上がれないのは残念でした。
2022年05月29日 里のシロクマ木工頭
田波目城
今日の攻城目標15城の1番目、限られた時間の中、訪城。運動場に駐車し緩やかな坂道を10分程で上の田波目城の標柱へ、一部土塁を確認し20分程ウロチョロし下山。山の上からの眺めはまずまず遺構としては残念。
2020年12月15日 受けすぎ♥️検診。式部大輔
田波目城
田波目城跡の面影はほとんどありませんが、城跡から高麗川側へ山の中を歩いて向かうと当時の道標を確認出来ます。見つけるのは相当困難ですが探してみて下さい。
2020年09月10日 小屋のgyopi3
田波目城
側の公園駐車場に車を停めて攻城しました、入口(案内看板横)から数分で、主郭跡と思われる立て札に着けます。
2017年05月09日
田波目城
高麗川に面した、標高113.3mの山城です。
西坂戸運動公園の駐車場が利用できます。
郭の一部が残存しているそうですが、
わかりにくかったです。
頂上にも、立て札のようなものしかなく、
途中に水道局関連の場所と、
送電線みたいなものがあっただけでした。
2011年08月02日 ぎっちゃん
田波目城
土塁と堀が残っているとの事ですが、結構ヤブヤブでよくわかりませんでした…(^_^;)










そしてその多くは石垣を築き、掘りに水を湛えて、白壁をめぐらし、白亜の天守が聳えるといったものではなく、土を掘り返して堀と成し、斜面を削って壁として、素朴な建物をめぐらした程度の城館であった。
しかし、このような城館が中世において大きな役割を果たしたのである。
市内にもいくつかの中世城館が残り、その存在の伝承を伝えているが、なかでも多和目城は比較的良く中世の面影を伝えた城館である
坂戸市の西の端、大字多和目の標高113.4メートルの城山に多和目城は築かれている。城山の南側には高麗川が東に流れ、厳しい崖となっている。
北東方向に傾斜が緩やかに続くほか、南西・東・北東方面に尾根が延びている。地形の状況からは高麗川の北側の勢力が、南からの侵入に備えて確保する山といえる。
この状況を裏付けるように、中心部以外に遺構は見られず、尾根に沿って敵が侵入することを防ぐために普請する堀(堀切という)も確認できない。
遺構は山頂の平場に築かれている。南側の崖で守られた一角を除き、土塁と空堀が周囲を囲む。東西110メートル、南北45メートルの基本的に長方形を成す1つの空間からなっている。
東側には土塁の線が折れ曲がっている場所があり、横矢という技法の構造が見られる。横矢とは攻め込む敵に対して、側面から射掛けることのできるように工夫した構造のことで、戦国時代に頻繁に活用されることになる。したがってこの多和目城も戦国時代の城館であることがまず推測される。
周囲を囲む土塁は外側の高さが3メートルの高さをもつが、内側はさほど高いものではない。また土塁の外側を巡る空堀も埋まっていて正確な数字はわからないが、規模の大きな堀ではない。
堀や土塁で囲まれた内部は緩やかな傾斜をもっており、郭が整地された様相は表面観察からは確認できず、比較的自然地形が保たれているようにうかがえた。
1972年に城址の北西部において800平方メートルにわたって発掘調査が実施された。土塁の内側に柱穴を確認したほか、縄文時代の居住址を検出している。しかし、中世の遺物は発見されなかった。したがって考古学的には多和目城の活躍した時代は確認されていない。
このような多和目城であるが、城主など歴史的な背景も不明である。
江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』にも「城跡とのみ伝えて何人の居城なりしをしらず」と記しており、土地の記憶からすでに忘却されていることを書き留めている。ただ江戸時代の記録で「天正年中以来田地并ニ先祖系図書」(市史I 1923)には、年代不詳としながらも、「田波目大かけ城」の高麗新節次の合戦を記録している。伝承の書留であり必ずしも正確であるとは言えないが、地理的な条件が一致する実に興味深い資料である。
このように多和目城は遺構として残りながらも、不明な点がまだ多い城館である。遺構の状況からすると、あるいは高麗川の北側の勢力が合戦に際して、陣所(=陣城)として築いた城館かもしれない。しかし詳細な解明は後代に委ねられている。