河越館(かわごえやかた)

河越館の基本情報

通称・別名

河越氏館、鯨井城、上戸(うわど)城、常楽寺城

所在地

埼玉県川越市上戸192-1他

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

河越重隆

築城年

永暦元年(1160)

主な改修者

不明

主な城主

河越氏、上杉顕定、大道寺政繁

廃城年

天正18年(1590)?

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(河越館)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

大堀山城(埼玉県川越市)[3.4km]
川越城(埼玉県川越市)[3.7km]
砂久保陣場(埼玉県川越市)[6.0km]
城山砦(埼玉県狭山市)[6.3km]
三ツ木城(埼玉県桶川市)[9.3km]
高坂氏館(埼玉県東松山市)[9.6km]
石戸城(埼玉県北本市)[10.0km]
中釘陣屋(埼玉県さいたま市)[10.1km]
田波目城(埼玉県坂戸市)[10.7km]
永田陣屋(埼玉県さいたま市)[11.4km]

河越館の解説文



河越館(かわごえかん/かわごえやかた)は、埼玉県川越市上戸(うわど)にあった日本の城。川越市の北西部、入間川左岸に位置し、約二町(218m)四方の占地規模を持つ館跡遺跡。国の史跡。

概要 

坂東八平氏である秩父氏の嫡系にあたる一族河越氏の館である。河越館を興したのは初代能隆、あるいは父親の重隆とされる(川越市史など)。

河越氏は、平安時代末期に河越荘の開発領主として勢力を伸ばし、自領を後白河上皇に寄進し、その荘官となった。河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に縁坐して重頼は誅殺された。

しかしその後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経に連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏であったが、応安元年(1368年)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重も伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。

戦国時代初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城を攻撃するために7年にわたってこの地に陣を構えた(上戸陣)。

また、『新編武蔵風土記稿』には「上戸に大道寺政繁の砦があった」と記されており、その砦は河越城築城後も出城として機能していたと推測され、豊臣秀吉の小田原征伐の際の天正18年(1590年)に川越城落城とともに廃城となったと考えられる。

なお、館跡の一部は現在は時宗(じしゅう)の寺常楽寺になっているが、これは河越館の持仏堂に始まるといわれ、時宗の道場として栄えた。

構造 

遺跡は、現在の川越市市街地の北西、入間川西岸に接する平地にあり、その南東部を占める常楽寺境内をはさんで、東西約150メートル、南北約200メートルの方形の区画(曲輪)を思わせる高さ1メートルないし3メートルの土塁およびその外側の堀が一部遺存しており、全体では東西約240メートル、南北約300メートルの規模を有する。土塁は一条、空堀は二重になっており、館跡北東の幅約11メートル、深さ3メートルの外堀はかつて入間川と繋がっていたと思われる。

発掘調査と史跡指定 

川越市教育委員会による1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)にかけての発掘調査によって、平安時代末期から戦国時代にかけての堀や井戸、住居などの遺構が検出され、『新編武蔵風土記稿』が上戸村常楽寺の挿絵として描いた河越館跡のほぼ全容が解明されるに至った。

その結果、遺跡はとくに鎌倉時代から室町時代にかけての関東武士の中世城館の様相を考察する考古資料としてきわめて重要であるとして、1984年(昭和59年)12月6日、「河越館跡」(かわごえやかたあと)の名称で国の史跡に指定された。また、1989年(平成元年)、川越市が史跡管理団体に確定し、2009年(平成21年)には第1期整備地が「河越館跡史跡公園」としてオープンした。

交通アクセス 

  • 東武東上線霞ヶ関駅から徒歩15分

参考文献 

  • 【書籍】「新編武蔵風土記稿」|publisher=内務省地理局|date=1884-6|ref=}}
  • 河越館跡2019年12月8日閲覧(http://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/617)
  • 国指定史跡河越館跡史跡公園2019年12月8日閲覧(http://www.city.kawagoe.saitama.jp/kurashi/bunkakyoyo/bunkazai/shisekikoen.html)

河越館の口コミ情報

2023年10月28日 武蔵守のむげん
河越館



城跡北側に30台ほど停められる無料の駐車場があります。復元したものかは分かりませんが、堀や土塁のような跡が見受けられます。山内上杉氏や北条氏によって使用されていたとのことです。

2022年12月31日 paki
河越館

11月は地元のマラソン大会で近づけず。今回は年末で開園してなくて、柵の外からの見学でした。鶴ヶ島インターから近いので、車なら簡単に行けます。

2022年09月27日 里のシロクマ侍従
河越館



史跡公園駐車場を利用。整備された公園には説明板があり訪問しやすい。駐車場へ向かう際土塁の間を通ったので、歩いて確認、国指定史跡 河越館の石碑て土塁写真を撮る。常楽寺へ、河越氏の供養塔を訪れた。大道寺政繁氏(松井田城繋がりで訪問しようと思って訪問)供養塔は見つけられず残念。

2022年08月06日 RED副将軍
河越館



鎌倉幕府の有力御家人である河越氏の居館跡🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。平安時代末期に桓武平氏である秩父氏一族の河越氏により築城された居城と云われます。
1180年に源頼朝が伊豆で挙兵した当初は当主の河越重頼は平家方として敵対していましたが、その後は畠山重忠らと共に頼朝に従いました。
娘の郷御前が源義経の正妻となるほどに重用されましたが、義経が平泉で討伐された際に連座して重頼は誅殺されてしまい地位も畠山重忠に奪われました。頼朝はホントに非情です💧
しかし、1205年の畠山重忠の乱で畠山重忠が没すると、剥奪された官職は三男の河越重員に再任され、その後も河越氏は鎌倉幕府有力御家人としての地位は続き、河越館は幕府の武蔵国政庁として機能しました。
1368年に河越氏は、武蔵平一揆を起こして鎌倉幕府と対立するも敗れて伊勢国に敗走。歴史から消えてしまいました。
1497年には、関東管領の上杉顕定が長享の乱の際に河越城を攻撃するために7年に渡り、ここに陣を構えています。
その後は、北条氏が川越を勢力下におさめると、北条氏重臣の大道寺政繁が川越城に入城し武蔵国統治の拠点とし、河越衆と呼ばれました。河越館跡は川越城の出城として機能した様です。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐の際に川越城ともに落城し廃城となりました。

見所
現在は、川越館跡として国史跡に指定され、河越館跡史跡公園として整備されています。
広大な平地に土塁と、その外側の堀が一部残っています。
鎌倉殿の13人がお好きな方はぜひ。大河ドラマでは郷御前は里として登場していた様です。

2022年07月17日 宮小路瑞穂
トイレ[河越館  トイレ]



駐車場までの道路が狭いので、上戸小学校方面からのアプローチすると良いでしょう

2022年06月19日 DAI.右馬助
河越館



平安末期から鎌倉初期に活躍した、鎌倉御家人の河越氏の居館跡。現地は小さな石垣の基壇が残るほかは、牧草地の様な草原です。トイレや説明板は完備。河越氏は源義経の正室を出した一族です。戦国初期には河越夜戦などの後北条氏との攻防で、扇谷上杉氏が本居館跡に陣を構えた遺構も発見されたそうです。

2022年06月05日 琉球守風のこうちゃん播守
河越館



川越御殿からは少々離れております。現地、無料駐車場有り。綺麗なトイレが有ります☝️

2022年01月19日 四間飛車左衛門佐とみー
河越館



活動の振り返り!
年明けて2022年1月9日 チームメイトと一緒に河越・川越エリアの攻略に行ってきました!霞ヶ関駅でチームメイトと合流、そこから河越氏館に攻め込んできました!霞ヶ関駅から徒歩で約15分の行軍です。

館跡は整備されており、土塁や基礎、井戸跡が残っています。当日は天気もよく温かく穏やかな時間をチームメイトと過ごすことができました。

2021年08月26日 乱会
河越館

発掘調査によって、山内上杉氏時代の遺構や遺物(山内上杉式かわらけ等)が数多く出土しています

2021年08月26日 乱会
河越館

かなり綺麗に整備されています。解説パネルがいたる所にあるのも嬉しいです。広々としているので、気分転換のお散歩にどうぞ。近くに学校があるので、あまり不審な行動はせぬようにご注意を✋

2021年08月15日 マグロ常陸介祐平
河越館



城址は公園として整備されており、礎石のない国衙史跡のような雰囲気です。発掘跡の復元と僅かですか土塁が残っています。公園に隣接する常楽寺にはこのお寺で切腹した大道寺政繁の供養塔や平成に建立の河越重頼、源義経、京姫の供養塔があります。歴住墓には大量の板碑の破片があり、お寺の歴史を感じさせます。

2021年04月25日 弾正忠ひろし
河越館



2021.4.20登城 無料駐車場あり 季節柄もあろうか 鳥がさえずる長閑な緑地広場 河越氏の造った堀跡と山内上杉氏の造った堀跡を示す舗装路が交錯して歴史を感じさせる 西側には山内上杉氏の時代に築かれた土塁跡が残っている 各所に丁寧な説明板が設置されて 訪れる人への配慮が優しい

2021年03月29日 鼬政宗
河越館



河越館跡地にある常楽寺には、かなりわかりにくいですが大道寺政繁の碑文のあるお墓があったりします。

2017年10月23日 
河越館

以前、ちょっとだけ書かせて頂きましたが、
もう少し詳しく書かせて頂きます。
東武東上線霞ヶ関駅から、歩いて行ったこともあり、20分弱でした。
車の場合も、河越館跡史跡公園側、
又、跡地の一角にある常楽寺にも、駐車場があります。
河越重頼の娘(京姫)が源義経の正妻になったことから、
中世武家政権を支えた河越氏の勢力が伝わり、
常楽寺内に供養塔もあります。
隣接する小学校の空き教室を利用した資料展示室が設置されていて、
見学は、日曜日の10:00〜15:00のみ可能だそうです。
土塁などの遺構もあります。

2015年05月27日 
河越館

史跡公園には、至るところに説明書きがあって、想像を膨らませながら、回ることができます。
跡地内には、常楽寺もあります。

2014年05月11日 土塁ルイ
河越館

史跡公園北側に駐車場があります。
隣接する常楽寺は後北条氏の重臣・大道寺政繁の切腹場所であり墓所となっているほか、源義経と正室・京姫、その父・河越重頼の供養塔があります。

2012年12月09日 【隠者】史学会帰新参
河越館

整備された史跡公園は4月から9月は9時から18時まで開園、10月から3月は17時まで開園である。年末年始は休園。公園は堀を復元整備されてある。館の西側に土塁がよく残る。

2011年10月06日 ぎっちゃん
河越館

上戸小学校の教室を借りた?資料室がありますが日曜日のみ公開なので注意を。

河越館の周辺観光情報

河越夜戦古戦場

天文6年の戦いで北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上杉憲政・足利晴氏(古河公方)と連合軍8万余騎をもって同14年10月川越城を包囲した。

出典:「川越市の文化財(H.14.3.31発行 川越市教育委員会)」

河越館の周辺スポット情報

 山内上杉氏陣所の堀跡(遺構・復元物)

 河越氏時代の堀跡(遺構・復元物)

 井戸跡(遺構・復元物)

 塚状遺構(遺構・復元物)

 河越氏時代の堀跡(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 堀立柱建物跡(遺構・復元物)

 伝・河越重頼墓(寺社・史跡)

 鎌倉道堀兼道(寺社・史跡)

 常楽寺(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 河越館跡史跡公園利用者駐車場(駐車場)

 芝生広場(関連施設)

 資料展示室(関連施設)

 河越館跡史跡公園(関連施設)

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