石戸城(いしどじょう)
石戸城の基本情報
通称・別名
- 天神山城
所在地
- 埼玉県北本市石戸宿6
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 連郭式平城
天守構造
- -
築城主
- 太田氏
築城年
- 15世紀後期
主な改修者
- -
主な城主
- 藤田八右衛門、毛利丹後守、依田大膳亮(北条氏家臣)
廃城年
- 天正18年(1590)頃
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県選定重要遺跡(石戸城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
三ツ木城(埼玉県桶川市)[2.6km]
源経基館(埼玉県鴻巣市)[5.5km]
加納城(埼玉県桶川市)[6.0km]
源範頼館(埼玉県比企郡)[6.9km]
武蔵松山城(埼玉県比企郡)[8.3km]
箕田館(埼玉県鴻巣市)[8.3km]
大堀山城(埼玉県川越市)[8.7km]
高坂氏館(埼玉県東松山市)[9.4km]
種垂城(埼玉県加須市)[9.4km]
川越城(埼玉県川越市)[9.5km]
石戸城の解説文
石戸城の口コミ情報
2024年03月16日 武蔵守のむげん
石戸城
通り沿いのお寺の駐車場を利用。大部分が宅地、私有地の為見られる場所は限定的。しかし周囲の地形から曲輪や土塁の遺構だと思われるものは確認できた。北条氏が築いた一夜堤の跡地の古道は周囲の里山と共に、寂しげな雰囲気を感じ取れます。
2023年04月01日 拓之助中務少輔
川島町 郷土資料展示室[石戸城 関連施設]
旧小見野小学校を活用し、古代から現代までの川島町の歴史や資料、土器、町民の方から寄贈していただいた民具(生活用品)などを展示しています。
木の温もりを感じるケースと校舎の中で落ち着いた雰囲気をかもし出しています。
また普段みられない石器や資料などの展示もあります。
川島町は鎌倉殿登場の比企氏を始めとする武蔵武士や北条政子・太田道灌の陣屋・遠山記念館などがありますので川越城や近隣の城郭にお越しの際は是非いかがでしょうか?
《近隣城郭:小見野氏館・川越城・川越氏館・大堀山城・松山城・石戸城・金剛寺比企氏館・美尾屋氏館・中山陣屋・太田道灌陣屋・中山氏館など……》
【開室時間】
毎週火曜日、水曜日、金曜日、土曜日
午前9時30分~午後4時30分まで
※入館受付は午後4時まで
・閉室日
毎週月曜日、木曜日、日曜日、祝日、年末年始
※その他臨時に閉室する場合がある。
・入室料
無料
・アクセス
東武東上線川越駅より、東武バス「鴻巣駅西口」行き→「小見野公民館前」下車
首都圏中央連絡自動車道川島インターチェンジより15分
【住所・電話番号】
埼玉県比企郡川島町大字谷中9
9
049-297-0076
2022年07月19日 マグロ常陸介祐平
石戸館[石戸城 周辺城郭]
石戸城の近くの石戸神社に僅かですが土塁と空堀が残っています。風土記稿では源範頼又は石戸左衛門尉の居城と言われている旨が載っています。近くの東光寺は蒲ザクラで有名な範頼関連の史跡ですが、こちらの案内板にも周辺地域は鎌倉時代の館跡と記載されています。桜祭りの時期は文化財の東光寺の板碑が公開されます。
2022年02月27日 マグロ常陸介祐平
石戸城
説明板のある五の郭から道を渡った四の郭に空堀の一部が残っています。北本自然観察公園には、攻め手が築いた一夜堤が散策路として使用されています。近くの東光寺には天然記念物の蒲桜の元に源範頼の墓があります。
2020年11月03日 長森原
石戸城
石戸城下には荒川沿いに南北に走る戦国以前からの古街道が通っており、北は群馬・新潟に至る鎌倉街道上野道(こうずけみち)であったとされています。
また、荒川対岸に舟で渡れば松山城、川越城へ通じる道もあり古くからの交通の要衝でした。
写真の鎌倉街道説明板がある石戸城北の宮岡地区には、永禄6年に松山城救援の為、越後から石戸に駆けつけた上杉謙信の陣所跡の伝承が残っていましたが、平成19年の調査により堀跡が発掘され、史実と伝承が符号する発見となりました。
2019年05月02日 九戸左近将監政実
説明板[石戸城 碑・説明板]
説明板がありました
道路脇に自動車は停められそう
2016年05月31日 永眠武蔵守釋 葱進
石戸城
城跡含めた周辺は北本市自然遊歩道として整備されており、知る人ぞ知る「石戸の蒲桜」も近くにあります。
城跡見学は桜堤に面した一夜堤口からが便利、駐車場は道路向かい天神下公園のものが利用できます(駐車場にトイレあり)
一夜堤口からは二の郭・主郭の脇を通り一夜堤まで数分、足元には木製すのこがあるので比較的歩きやすいかと。道なりに左折し「石戸城と一夜堤」の案内板がある土橋が一夜堤です。
先の口コミの通り郭部分は私有地のため立ち入ることができず、堀や土塁等は樹木や草に埋もれはっきりと確認できません。
自然公園として整備されていることもあり、城跡としての整備(樹木伐採や草刈り)は将来的にも難しいかもしれませんね。
2012年07月12日 石戸三河守蕃茄
石戸城
石戸城は、松山城と岩槻城との間に位置し、西は荒川の切立た崖、北(現在は「城ヶ谷堤」と称す土手あり)と東は、所謂「ドブっ田」と言われる湿地帯が寄手を阻む要害の地なり。
「主な城主」に紹介の毛利丹後守は、上杉方の武将なるが、北条(及び武田)方との勢力争いの渦中にあり、北条氏邦攻めしとき、要害により城易く落ちぬれば、氏邦一計を案じ、城の東方に「一夜堤」なる堤を作りて落城せしむ言い伝えあり。
2010年06月10日 ぎっちゃん
石戸城
城跡は私有地で立ち入り禁止。なので遊歩道から覗くだけ 結構ヤブってるんで遺構が見ずらいです。
当時は上杉氏や北条氏といった戦国大名が関東地方の覇権を争う、群雄割拠の時代だった。石戸城は岩付城を拠点とし、上杉方に与していた太田氏によって築城されたといわれ、岩付城と松山城(吉見町)、河越城を結ぶ防衛ライン上の要塞のひとつとして機能していたようだ。
戦国期も佳境を迎えた永禄5年(1563)2月には、北条、武田氏の連合軍が松山城を取り囲み、激しい攻防が繰り広げられた。このとき雪の上越国境を越えて援軍に駆けつけてきた武将が上杉謙信であり、松山城を一望する石戸城に逗留している。
その後は関東地方が北条氏の勢力に支配されるなかで石戸城の役割も小さくなり、徳川氏の関東入国以降の17世紀初頭には役割を終えた。
現在でも土塁や堀といった城の遺構の一部を確認することができ、また三方を谷に囲まれた城全体の立地や城域の南側に残された街並が往時の姿を良好にとどめており、市内の戦国時代を代表する遺跡として今に伝わっている。