武蔵松山城(むさしまつやまじょう)

武蔵松山城の基本情報

通称・別名

城山

所在地

埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山

旧国名

武蔵国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

築城主

上田友直

築城年

応永6年(1399)

主な改修者

上杉朝定、北条氏康、松平家広

主な城主

上田氏、難波田氏、扇谷上杉氏、太田氏、桜井松平氏

廃城年

慶長6年(1601)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(比企城館跡群)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

源範頼館(埼玉県比企郡)[2.8km]
高坂氏館(埼玉県東松山市)[3.8km]
青鳥城(埼玉県東松山市)[4.0km]
比企能員館(埼玉県東松山市)[5.5km]
山田城(埼玉県比企郡)[6.2km]
箕田館(埼玉県鴻巣市)[7.3km]
源経基館(埼玉県鴻巣市)[7.5km]
石戸城(埼玉県北本市)[8.3km]
大蔵館(埼玉県比企郡)[8.3km]
菅谷館(埼玉県比企郡)[8.9km]

武蔵松山城の解説文



松山城(まつやまじょう)は、埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山(武蔵国横見郡松山)にあった日本の城。別名武州松山城・武蔵松山城。

2008年(平成20年)、「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定された。

歴史・沿革 

築城

室町時代の応永6年(1399年)に上田友直によって本格的に築城されたとされる。他にいくつかの築城にまつわる伝説が伝えられているが、これは伝説の項に記述する。

戦国時代

室町時代から戦国時代にかけては、武蔵国中原の要衝として、関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開された。松山城を築城したと考えられる上田氏は当初扇谷上杉氏に部将として属したため、この城は東方の下総国古河に本拠を構える古河公方および北方の上野国から武蔵国中央部への進出を狙う山内上杉氏に対する前線拠点として機能した。

後に北条氏の勢力が相模国から武蔵国に伸張してくると、扇谷上杉氏と山内上杉氏・古河公方の三勢力の間で和睦が成立し、南方より侵攻してくる北条氏に対する拠点となった。天文6年(1537年)には河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、さらにその余勢を駆った北条勢によって松山城も攻撃を受けたが、城主難波田憲重らの活躍で撃退に成功した(松山城風流合戦)。この結果、松山城は河越城を失った上杉朝定の居城となり、威信をかけた拡張工事が行われた。しかし天文14年(1545年)、河越夜戦での河越城奪還の失敗と朝定および難波田憲重の敗死によって扇谷上杉氏が滅亡すると、松山城は北条氏康の手に渡った。同年に難波田憲重の婿であった上杉方の太田資正が奪回し、同じく縁戚であった上田朝直が城代になるものの、その上田朝直が北条氏に寝返ったため再び北条方の城になった。なお、太田資正は北条方との戦いで実子を失っていた難波田憲重の婿養子として松山城主の地位を継承していたとする説があり、その後実家の太田氏の家督を継いで岩槻城に帰還したものの、引き続き松山城の城主としての立場を主張することになったとされている[1]

永禄4年(1561年)、上杉謙信が奪取して岩槻城主の太田資正を城代にする。しかし、永禄6年(1563年)に北条氏康と武田信玄の連合軍の攻撃の前に再び陥落、北条氏のもとに戻った(生野山の戦い)。この合戦の影響が房総にも飛び火して第二次国府台合戦へと発展した。この合戦以後松山城は一時北条氏の直轄となったものの、元亀年間以後は一貫して北条氏家臣団に組み込まれた上田氏の居城となり、同氏は松山領と呼ばれる比企地方一帯を支配下に置いた。

安土桃山時代

天正18年(1590年)には、豊臣秀吉による小田原征伐が行なわれた。城主上田憲定は小田原城に籠城したため、代わって山田直安以下約2,300名が松山城に籠城、前田利家・上杉景勝の軍を主力とする大軍に包囲されて落城した。当時の豊臣方の陣容を描いた布陣図には、真田昌幸・直江兼続らの名前も見える。

徳川家康の関東入国とともに、松平家広が入城して松山藩を立藩。慶長6年(1601年)に跡を継いだ松平忠頼が浜松藩に移封されると空城になった松山城は廃城となり、この地域は川越藩の藩領となった。家広の入城から廃城までの時期に交通の便が考慮され、搦手にあたる城下町(松山本郷方面)と城域を隔てていた市野川に橋が架けられたとされる。本来ここは松山城防衛の要となる方角であり、争奪戦の相次いだ北条氏時代までは橋が存在しなかった。

江戸時代

幕末の1867年(慶応3年)になると川越藩主であった松平直克が前橋藩に移封となり、飛び地となった比企・入間地域6万石余を統治するための拠点が必要になったが松山城は使用されず、西に約1.7キロメートル離れた平地に松山陣屋が設置された。

構造 

ふもとをめぐる市野川を天然の堀として利用して丘陵上に建てられた平山城。その天然の要害から不落城とも言われた。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成された。

大正14年(1926年)に「松山城址」として県の史跡に指定された城郭西部の約16ヘクタールに、高低差と大規模な空堀を利用した技巧的な曲輪が集中する。この部分は通称「城山」と呼ばれ、山頂の本丸から東方向の尾根に沿って二の丸、春日丸、三の丸が梯郭式に配置され、その周囲を帯曲輪や腰曲輪が囲む構造。これらの曲輪は、基本的に低い土橋によって連結されている。

考古資料 

遺構

「城山」には空堀の遺構が良好に保存されており、城郭主要部の面積の50パーセント余りにも上る部分を空堀が占めるという特徴的な縄張りを充分に観察することができる。

大正年間の史跡指定に漏れた城郭中央部には、軍勢の駐屯に適した大規模で単純な構造をした曲輪が築かれていたが、東北自動車道造成のため昭和45年(1970年)に行なわれた採土によって遺構が失われた。現在この場所は武蔵丘短期大学の敷地となり、同短大の建物とグラウンドが存在する。

発掘調査

松山城では発掘調査が今までに2回実施されている。

一次調査は平成15年(2003年)11月18日から同年12月24日に「惣曲輪(そうぐるわ)」で、二次調査は平成16年(2004年)5月19日から同年7月14日に「本曲輪」で実施された。調査の結果、火災が生じ(炭化物や焼土や被熱した土器の検出により判明)、その後に盛り土による造成(造り替え)が行われていることが惣曲輪では最低でも1回、本曲輪では最低でも2回あることがわかった。しかし、火災や造成の年代は今のところ特定されるには至っていない。出土遺物の年代は惣曲輪と本曲輪の両方とも、15世紀後半から16世紀中頃のものが多く、後北条氏段階の16世紀後半のものは少なかった。

民俗資料 

激しい争奪戦の舞台となった松山城には、いくつもの伝説的口碑が残されている。ここでは主に史実としての確認が取れない伝説を記述するが、今後の研究により史実として確認される場合も考えられる。

築城にまつわる伝説

  • 小野篁の居館が置かれたとする説:陸奥守に任官した父岑守に従って下向する途中、当所に一時居住したとされる。隣接する地域に篁の子孫を称する横山党の大串氏が存在したために産み出された口碑であると考えられる。なお、岑守の陸奥守任官は弘仁2年(811年)である。
  • 平信清の築城であるとする説:淳和天皇の第2皇子であった信清は賜姓平氏。武蔵国秩父郡と足立郡を領したことが確認されているが、比企郡・横見郡に関しては資料が無い。
  • 源経基の築城であるとする説:松山城から直線距離でおよそ8km東の箕田郷大間村(現在の鴻巣市大間)に経基の館址が遺る。天慶の乱時の天慶2年(939年)、足立郡司武蔵武芝と対立した経基が松山に布陣したとされる。
  • 源頼信の築城であるとする説:経基の孫にあたる頼信が、甲斐守在任時の長元3年(1029年)に平忠常の乱を鎮めた際、武蔵国に進出して松山に築城したとされる。
  • 新田義貞の築城であるとする説:正慶2年(1333年)、後醍醐天皇の宣旨を奉じた義貞が鎌倉に向かう際に当地松山に築城したとする説。当時新田軍が通過したのは、松山より西方の鎌倉街道上道であることがほぼ判明している。

攻防戦にまつわる伝説

  • 白米城伝説:厳しい包囲戦が繰り広げられた城にしばしば遺されている伝説。既に貯蓄しておいた飲料水が尽きたことを攻撃側に悟られぬよう、兵糧米で馬を洗って遠目に見る攻撃側の目を欺いたとされる。
  • 武田信玄による「もぐら戦法」:永禄6年(1563年)の攻防戦の際、北条軍とともに攻め寄せた武田軍が、鉱業技術者である「金山衆」を動員して城山に坑道を掘って爆破作戦を実行しようとしたとするものであるが、地元ではほとんど知られていない。隣接する吉見百穴と同じく凝灰岩質の岩山の上に立地する松山城だけに、実現は不可能ではない。

史跡指定 

菅谷館跡(嵐山町)、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに「比企城館跡群」の名称で国の史跡に指定されている。2008年(平成20年)3月28日、すでに国の史跡に指定されていた菅谷館跡(1973年指定)に、松山城跡、杉山城跡、小倉城跡を追加指定し、指定名称を「比企城館跡群」に改めたものである。

アクセス 

  • 東武東上線東松山駅東口から「HM-11,HM-13系統:免許センター」ゆきバス5分「百穴」バス停より徒歩2分。
  • あるいは東武東上線東松山駅から徒歩25分。

参考文献 

  • 東松山市『東松山市の歴史 上巻』1985年
  • 東松山市『東松山市の歴史 中巻』1985年
  • 関口児玉之輔『松山城と其城主』1926年
  • 槇島昭武・中丸和伯『関八州古戦録』1976年
  • 西野博道『関東の城址を歩く』2001年
  • 『国指定史跡 比企城館跡群 菅谷館松山城杉山城小倉城跡』埼玉県立嵐山史跡の博物館

武蔵松山城の口コミ情報

2024年01月18日 内匠頭のむげん
武蔵松山城



先日、岩室観音堂だけ見て、今回改めて登城。車は吉見百穴駐車場利用。本曲輪から二の曲輪三の曲輪四の曲輪と降りて見て回った。所要時間は他の曲輪も全て回って1時間半くらい。入り組んだ堀と切岸が織りなす空間はまるで迷路そのもの。遺構は曲輪、切岸、虎口、堀等が良好な状態で確認できる。1月の登城では、雑草の類は少な目だったが、代わりに一面の落ち葉が、平場は問題ないが、斜面にも容赦なく堆積しており、非常に滑りやすく危険であった。登城口に他の方が使用されたと思われる枝を杖代わりとしてなんとか歩き回れた。山中にて代わりにもっと良い枝に交換し、登城口に戻したので、次の登城者に引き継がれて欲しいものです。

2023年11月30日 
武蔵松山城



1/3000番目に攻略 2023年11月30日
自宅から徒歩20分ほどの地元の城。大きな空堀跡や、多数の曲輪跡が良好な状態で保存されており、当時のこの城の重要さが見て取れました。ただ、城郭にたどり着くまでの道は整備がされてなく転びやすくなっており案内板なども少ないため、今後の整備に期待したいです!

2023年08月06日 左近衛中将五郎八(いろは)姫
武蔵松山城

東松山駅から徒歩20分くらいで「武蔵松山城跡」の文字に到達します。文字の右側にお寺があり、「本曲輪」の矢印が見えます。矢印に従い山道を登ると5分くらいで本曲輪に着きます。本曲輪周辺は比較的草刈りもされて遺構はよく分かりますが、そこまでの道は狭いです。

「バス停」の矢印に従ったつもりが、道が2筋あり、誤った方に進んでしまい遭難してしまいました。リア攻めの際は気を付けてください。

2022年12月30日 よあ甲斐守
武蔵松山城

なかなか良い城跡かと思います。もう少しブッシュなど整備していただいて、お城全体のルート(入口出口)が地図でわかりやすいと安心だと思いました。吉見百穴の駐車場にとめさせていただけるようです。

2022年12月11日 おかっぴき
武蔵松山城



戦国時代に北条、上杉、武田の間で争われた城跡です。遺構が良く残っており見どころがあります。一度は行って見て下さい。ついでに吉見百穴もどうぞ!

2022年10月22日 長けた 勘解由長官 進言
武蔵松山城



武蔵国ではかなり大きな城跡で、遺構も良好な状態で残っています。他の方も書かれていますが、本郭までの道のりは登山のような様相ですので、動きやすい格好での登城をお勧めします。 写真の看板付近に小さいですが駐車スペース有り。トイレはありませんのでご注意を。

2022年06月22日 ねこじる武蔵守
武蔵松山城

草ボーボーかと思いきや、本曲等、草刈りしてありました。吉見100穴駐車場に車を停めて岩村観音堂の先から攻略。低い丘程度かと思いきや、しっかり道は山城でした。トレッキングポールと靴は準備された方が良いです。

2022年05月01日 しゅう関白
武蔵松山城



大学は悪くないのだけど、遺構に大学の敷地が隣接しているのは残念。ただ深い掘りがあり、かなり大きな戦を経験した城だということがわかる。

2022年01月17日 四間飛車左衛門佐とみー
武蔵松山城



活動の振り返り!年明けて2022年1月9日
河越・川越エリアの攻略に行ってきました!攻城仲間との合流前に武蔵松山城に抜け駆けです。東松山駅から徒歩で約20分の行軍です。

城址は道も含めて整備されていますが、落ち葉で滑りやすく、慎重に歩を進めてました。スニーカーでなんとか行って帰ってこれましたが、霜が降りたりするので冬季は軽登山靴での攻城がおすすめです。城址で冬の朝の美しさを堪能!素敵な時間でした。

2021年11月23日 明石家船上
武蔵松山城

城跡が全域私有地とのことです。城域の一部は、藪を払ってありますが、多くの部分は藪です。

きれいに下草を払うと、近くの杉山城跡のように見えるかも知れませんが、空堀や虎口、土橋など、一部だけ確認できます。

2021年05月27日 號号参議虎右衞門【虎児】
武蔵松山城



東松山駅からバスで10分足らずです。攻城範囲が狭いので、下車がてらリア攻めしました。歴史好きには近所の吉見百穴とセットで観光出来ます。武蔵松山城は戦国時代の城らしく、川沿いの丘にありますが、いざのぼるとかなり急ですので、雨上がりの攻城などは気を付けて✋

2021年03月27日 漂泊の浮雲内膳正
武蔵松山城



岩村観音堂の竪堀からの登城は現在通行止になってます。写真は本丸側から登城し、観音堂側に廻り、上から撮った写真です。

2021年03月25日 ほいほいふ右京大夫
武蔵松山城

整備されていなく、キツイ山道ですが5分もあれば本曲輪に到着します。

2021年01月02日 M.I
武蔵松山城

本丸、ニの曲輪、三の曲輪等の藪が切られて見やすくなって見やすいです。もう少し整備していただけると嬉しいですね。

2020年10月07日 右衛門督ウザック
武蔵松山城



国指定史跡「吉見百穴」のすぐとなり。
入口は看板もでているのですぐみつけられます。
ただ本曲輪まではかなり急な登り坂なのですべらないように注意してください。

2020年08月31日 そうこ
武蔵松山城



付近には岩窟屋といううどん屋さんや広い駐車場のある松音屋。
私は側道に駐車して本曲輪だけ見学して立ち去りましたが小高い山全体がお城だったようです。
入り口の階段を上がるとそこからは獣道のような山道になってます。
雨の日の転倒やマムシには注意が必要です。

2019年12月01日 Nabeppu左馬頭
吉見百穴駐車場[武蔵松山城  駐車場]

開門8:30
閉門16:30

2019年06月10日 みめぐり
武蔵松山城



本丸~兵糧倉~搦め手へは空堀に土橋とクランクした細い道が続きます!!

2019年06月09日 みめぐり
武蔵松山城



搦め手口☆岩室観音の裏側にある岩盤を削った竪堀。雰囲気は素敵ですが、急斜面な上、雨上がりでかなり滑りました(^_^;)

2019年05月07日 よたろ〜上野介景能
武蔵松山城



岩室観音堂側の岩盤を掘削した切通し兼竪堀☆各曲輪間の堀は複雑で見応えありますが藪化が進んでます

2018年12月16日 Marky武蔵守
武蔵松山城

東松山駅から素直に免許センター(或いは鴻巣駅西口)行きのバスに乗って、百穴入口で降りて下さい。というか、バスは城跡の入口の前を通ります。免許センターが鴻巣にあるため、本数は多いです。

2018年10月14日 マンボウ
武蔵松山城

管理がイマイチなのか倒木と下草と蜘蛛との闘い。
三の曲輪あたりで迷子になりかけました。
1ヶ月後にはコンディション良くなるでしょう。

2016年06月19日 永眠武蔵守釋 葱進
武蔵松山城

県道沿いの標識のある階段→本曲輪→二ノ曲輪→馬出し→三ノ曲輪→曲輪四→三ノ曲輪→根古屋虎口→惣曲輪→(伝)搦手口→岩室観音堂~と回り所要約50分。
(表記は吉見町教育委員会発行のパンフによる)
三ノ曲輪~根古屋虎口・搦手口~観音堂は急坂が続くので特に足元注意です。
各曲輪には縄張り図付きの案内柱があり簡単な解説もあるので助かります。
曲輪部分はそれなりに草が刈られているものの、全体的には(夏場は特に)雑草と虫との闘いが待っていると思って下さい。

先の口コミにもあるように、縄張り図付きパンフレットは吉見百穴にあります(施設内にしか置いてないため入場料が必要)。
どうせなら百穴頂上の見晴台より城跡を眺めてみてはいかがでしょうか。

2016年03月13日 カーネル
武蔵松山城

東武東上線。東松山駅から。駅舎がおしゃれです

駅から東へ進み、城東の県道東松山・鴻巣線に標識があります
階段を登ると5分くらいで本丸。ここから東の二の丸・三の丸へ

堀が縦横無尽に張り巡らされていて迷います。三の丸で引き返し、本丸戻り、今度は北上して岩室観音堂へ下山。ここまで1時間半

近くの吉見百穴を観光してから東に戻り青鳥城へ。こちらは整備されないけど無骨な土塁がよい感じでした
その後、東武東上線森林公園駅まで歩きました。駅に着いたのは東松山駅をでて4時間くらいでした

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

2014年07月25日 三日左馬助落人
武蔵松山城

既に良い口コミ情報がおありなので補足的に…

城跡は特に下草を刈るなどの手入れはされていないようで、夏はひどいヤブと虫です(*_*)
訪問は夏以外をおすすめします。

吉見百穴側にある岩室観音が当時の搦手だったそうです。


2013年02月15日 すかんぴん左馬助
武蔵松山城

百穴の駐車場を起点として道を左側に周り込んで登って行くと、民家の手前から入る細い登城路があります。
このルートだと曲輪四から本曲輪まで順番に登ることが出来ます。
また惣曲輪の根古屋虎口からも登れます。
岩室観音のある場所が搦手だったと言われているようです。
百穴(有料)の埋蔵文化財センターでは縄張り図の載ったプリントが貰えます。
『嵐山史跡の博物館』に行けば、松山城も含まれる比企城館跡群の情報があります。

武蔵松山城の周辺スポット情報

 岩殿観音堂竪堀(遺構・復元物)

 本曲輪(遺構・復元物)

 兵糧庫(遺構・復元物)

 二の曲輪(遺構・復元物)

 三の曲輪(遺構・復元物)

 四の曲輪(遺構・復元物)

 惣郭(遺構・復元物)

  惣郭虎口(遺構・復元物)

 根小屋跡(遺構・復元物)

 馬出(遺構・復元物)

 松山城説明板(碑・説明板)

 城郭図説明板(碑・説明板)

 松山城文字看板(碑・説明板)

 松山城碑(碑・説明板)

 松山陣屋(周辺城郭)

 野本陣屋(周辺城郭)

 萬松寺館(周辺城郭)

 吉見百穴(寺社・史跡)

 旧地下軍事工場(寺社・史跡)

 ひかり苔(寺社・史跡)

 おくまやま古墳(寺社・史跡)

 神戸塚古墳(寺社・史跡)

 野本将軍塚古墳(寺社・史跡)

 吉見百穴駐車場(駐車場)

 吉見町埋蔵文化財センター(関連施設)

 松山城復元模型(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

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