高坂氏館(たかさかしやかた)
高坂氏館の基本情報
通称・別名
- 高坂城、高坂刑部館、高坂館
所在地
- 埼玉県東松山市高坂
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 高坂刑部太輔
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- -
主な城主
- 高坂氏、加賀爪氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県選定重要遺跡(高坂館跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
青鳥城(埼玉県東松山市)[3.5km]
武蔵松山城(埼玉県比企郡)[3.8km]
大堀山城(埼玉県川越市)[6.2km]
源範頼館(埼玉県比企郡)[6.3km]
大蔵館(埼玉県比企郡)[6.9km]
山田城(埼玉県比企郡)[7.8km]
菅谷館(埼玉県比企郡)[7.8km]
比企能員館(埼玉県東松山市)[8.2km]
石戸城(埼玉県北本市)[9.4km]
河越館(埼玉県川越市)[9.5km]
高坂氏館の解説文
[引用元:Wikipedia「高坂氏館」の項目]高坂館(たかさかやかた)とは、武蔵国高坂宿(現在の埼玉県東松山市)にあった日本の城。高坂城とも言う。現在は高済寺となっており、埼玉県選定重要遺跡。
【歴史・沿革】
築城は14世紀の南北朝時代で、当初の城主であった高坂刑部太輔(高坂氏)は、武蔵江戸氏の流れを汲む豪族で、戦国時代には北条氏に仕えていたと伝えられていた。しかし、史実では高坂氏は応安元年(1368年)の武蔵平一揆の乱で河越氏とともに足利氏満に背き敗れ、高坂氏は遠方に領地替えになっている。また、高坂館に南に隣接する高坂弐番町遺跡で発掘調査が行われて高坂館とは重複しない堀が検出し、出土遺物の時期は13世紀~14世紀であった。このため、高坂氏の館は高坂弐番町遺跡の地に存在した可能性が高くなった。
戦国時代、松山城の戦いで1562年に北条氏が松山城を攻める際に北条氏政は高坂に陣を置いた。現在、高済寺境内周辺に残る土塁や空堀はこのときに作られたものである。
徳川家康が関東入りすると、高坂周辺に3千石を与えられた加賀爪政尚の居館となる。加賀爪氏は最終的に1万3000石の大名となったが、天和元年(1681年)、直清の代に隣地境界争いを起こして領地没収となった。土塁には「加賀爪氏累代之墓」があり政尚以下3代の宝篋印塔が並んでいる。
【アクセス】
・東上線高坂駅東口から徒歩10分。[続きを見る]
高坂氏館の口コミ情報
2020年07月21日 三輪左近衛少将直虎
高坂氏館
空堀は大部分が埋められてしまいましたね
2017年05月08日
高坂氏館
以前、簡単に口コミを書かせて頂きましたが、今回はもう少し詳しく書かせて頂きます。
現在は高濟寺になっていて、駐車場も利用できます。
私は車でしたが、東武東上線高坂駅から、
徒歩約10分くらいのようです。
土塁に加賀爪氏累代のお墓があり、
埼玉県選定重要遺跡になっているそうです。
土塁と空堀は、小さい城跡としては、
立派だと思いました。
近くにピオニウォークもあり、
ショッピングや、お食事も楽しめます。
2016年02月26日 永眠武蔵守釋 葱進
高坂氏館
現在は高済寺となってますが、南側以外は土塁や堀がよく遺されています。
特に西側は樹木が伐採されており、遺構をはっきりと見ることができます。
北西の土塁上には加賀爪氏累代の墓があり、これについては東松山市による案内説明板がありますが高坂氏館の遺構については何の説明も標識もありません。
周辺は区画整理が進みまた敷地内北から東にかけては墓地となっており、今後どこまで遺構が遺されていくか気になるところです。
2015年05月19日
高坂氏館
現在は高済寺になっています。お寺の駐車場があります。
土塁が残されています。