野本氏館
野本氏館([高坂氏館 周辺城郭])
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野本氏館の口コミ情報
2024年11月07日 マグロ常陸介祐平
野本館跡として、東松山市の文化財に指定されています。説明板では、藤原基経の家の警護をしていた片田基親の子の基員がこの地に住んだのが始まりとされ、野本氏は頼朝に仕え吾妻鏡にも登場するとしています。現在、館跡は無量寿寺となっていますが、鎌倉期の銅鐘の拓本が伝わることから、13世紀初め頃には館が造られていたと考えられているとしています。野本氏は、成田家分限帳に野本右近(25貫文)があり、風土記稿では子孫ではないかとしています。
また、説明板には「本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるだけとなっていますが、実際は二重の堀と土塁を廻した構造の館となっています。外側の土塁と堀りは当初からのものではなく、後世の増築によるものと考えられています。」と書かれており、なんなのかと思いきや、後世増築された遺構は、近世渡辺氏の陣屋の遺構のようでした。家康の関東入国時に渡辺守綱(どうする家康で木村昴が熱演)が3000石でこの地に入り、孫の吉綱が大名となり野本藩を立藩、この地が藩庁となり3代藩主基綱の代の元禄11年(1698年)に所領は関西に移され大庭寺藩が成立、野本館(陣屋)は廃されたと思われます。渡辺氏は後に居所を伯太に移つし、伯太藩は廃藩置県まで続いています。野本陣屋に関しては、よくわかっていないようで、風土記稿では、「天正18年に渡辺重綱が賜り元和8年には他の地に移され天領となり、寛永2時に再び重綱の次男吉綱が賜わるも元禄11年にまた変わって旗本領となった」と簡単に記述するのみで、遺構に関しては、無量寿寺の解説の中で寺の境の四方に堤を築き、堀の跡が残るとし、利仁将軍(藤原利仁)の陣屋などといわれるが、記録がなく、今さら考えるなとしており、渡辺氏に関するものとはしていません。また、発掘調査においても江戸時代のものは出土していないようで、謎の野本藩といった感じです。
遺構としては、本堂裏に土塁と思われる土盛りがあり、歴代住職の墓も土塁かもしれない壇上に建てられています。また、目の前には、埼玉県最大の前方後円墳「将軍塚古墳」(写真7,8枚目)があり、館の物見として使用されていたのかもしれません。この地は武蔵守となった藤原利仁の伝説の地でもあるようで、将軍塚古墳の名称は、利仁が鎮守府将軍になったことから名付けられたようです。