山田城(やまたじょう)
山田城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 埼玉県比企郡滑川町山田城山
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 小高大和守
築城年
- 戦国時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 小高氏、贄田氏?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、坂虎口、喰違虎口、土橋、武者走り、馬出?
指定文化財
- 県選定重要遺跡(山田城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
比企能員館(埼玉県東松山市)[2.5km]
青鳥城(埼玉県東松山市)[4.4km]
杉山城(埼玉県比企郡)[4.9km]
菅谷館(埼玉県比企郡)[5.5km]
大蔵館(埼玉県比企郡)[5.7km]
武蔵松山城(埼玉県比企郡)[6.2km]
平山館(埼玉県熊谷市)[7.4km]
小倉城(埼玉県比企郡)[7.4km]
高坂氏館(埼玉県東松山市)[7.7km]
源範頼館(埼玉県比企郡)[7.8km]
山田城の解説文
山田城の口コミ情報
2024年03月22日 マグロ常陸介祐平
羽尾城[山田城 周辺城郭]
羽尾城は、埼玉県の教育委員会が歴史上または学術上の価値が高いものとして「埼玉県選定重要遺跡」に選定されているお城です。
松山城主上田氏の家人、山崎若狭守の居城とされており、この地の開発者である山崎氏をふくめた羽尾七騎と呼ばれる7人の地侍が詰めていたとされています。秀吉による小田原攻めで落城したとされているようですが、詳しいことはよくわかっていないようです。
城の北側に土塁と空堀が残っており、土塁は二重になっています(案内板を見る限り遺構はこの部分だけ)。郭内は激薮で、この時期でも人が立ち入れる状態ではありません。宅地化が始まっていて北西部の空堀はもうすぐ消滅しそうです。
2023年05月07日 まりん兵部少輔
山田城
森林公園駅を出ると、土日祭日は直通のシャトルバスが出ています。森林公園の中に入って直ぐに有ります。城跡を見るだけで勿体無いので、ゆっくりと散策すると森林浴と鳥の声、お花が楽しめます。
2022年12月13日 おかっぴき
山田城
山田城に行くには森林公園の駐車場(有料)に止めて、さらに入場料を払わなければいけません。
2022年11月24日 くるみ丸
山田城
森林公園内、紅葉🍁綺麗。城址は、南口から案内板あり
2017年02月26日 土塁ルイ
山田城
少づつ暖かくなり、城跡へ行きたいけど家族サービスも疎かにできない方にうってつけ。国営武蔵丘陵森林公園内の城跡です。
公園南口から徒歩10分の所に120種500本の梅林があり、その途中にあるのが山田城と山崎城(城めぐ非対象)の2城址です。
地理的には比企城郭群に隣接する場所で、園内には鎌倉や熊谷、菅谷・大蔵に通じた旧鎌倉街道が走っており、板東武者達が行き来していたと考えられています。
大勢の梅見客を横目に、人知れず「ここ堀跡だけど俺にしか分からねぇだろう」と思いながら気持ちよく散策できると思います。
入場料、駐車料金はかかります。園内は広大でいろいろ楽しめますが、花を口実に城跡を見に行けるのは梅の季節だけかと。
2016年08月14日 永眠武蔵守釋 葱進
山田城
現地へのバス事情が2015/11/12に投稿した頃より変わっております。
JRで熊谷から訪問する場合、南口より森林公園駅行きのバス(一時間に一本くらい)に乗ると直接森林公園南口まで行けます(これに伴い立正大学での乗り継ぎ券発行は廃止されました)
2015年11月12日 永眠武蔵守釋 葱進
山田城
森林公園の料金、現在は
入場料410円(大人)
駐車代620円(普通車)
になっています。
入場料については、昭和の日・みどりの日など年に数日無料になる日があるので、HPなどで確認してみてください。
熊谷駅から路線バス利用だと「立正大学」でバスを乗り継ぐ必要があります。立正大学で降りる際、運転手より乗り継ぎ券を発行してもらえます。降車は「森林公園南口」が便利。
森林公園駅から路線バス利用の際、降車は「滑川中学校前」が便利。手前の「森林公園南口」ではちょっと遠くなるので注意して下さい。
森林公園駅からならレンタサイクルを考えてもいいかもしれませんね。
2014年02月07日 ぎっちゃん
山田城
森林公園内にあるので公園の入園料金400円必要です。また公園の駐車場は一日600円。でも目の前の民間の駐車場は200円なのでこちらの方がお得。公園南口から入ると山田城は近いです。
城跡は、東武東上線森林公園駅から北へ3キロメートルの所にある国営武職丘陵森林公園の南口ゲートに向い、右側の台地上に占地している。
台地は、滑川の支流に挟まれて南北に細長く続き、標高7~80メートル程のものである。城跡は、この台地の南先端部上に構築してあり、標高62メートル、水田地帯からの比高は20メートルを測る。
城跡は舌状に延びた台地の肩部に堀と土塁を一巡させ、内部を土塁によって大きく4つに分けているだけの単純な縄張りとなっている。このような縄張を持つ城は、現在の所比企郡内には知られていない。
遺構の残されている部分の城跡の大きさは、東西約110メートル、南北約140メートルを測り、約15000平方メートルの広さである。郭内部は中央が高く、四方の土塁に向ってゆるく傾斜し、その比高は3~7メートルを測る。外周の土塁の高さは1メートル前後で、4つの郭に分けられている土塁のうち北西部分の凸状を呈する土塁が約1.5メートルとやや高く、他の土塁は0.5メートル前後で、わずかに土塁の痕跡が残されているに過ぎない。堀は土塁上から堀底までの比高が24メートルで、上幅は約5メートルを測る。堀の断而は、現状地形から箱薬研堀になると思われる。
城跡の虎口は、北東部分と南東部分の2か所が考えられ、共に間口は約2メートルで、堀に土橋を築き、坂虎口としている。比企郡内の多くの城跡には、虎口に対する防禦として、横矢掛りのための「折」や「出枡」などの土塁を設けるか、喰い違いの虎口としている。これらの虎口にはこのような防禦施設が見当らず、比較的単純な構造となっている。
ところで、現在、城跡の北西方向に土塁上から堀にかけて木の階段が設けてあり、城の出入口となっている。
出入口の内側の土塁は凸状に張り出し、外周の土塁との間に堀(長さ37メートル、上幅約4メートル、深さ約1メートル)と堀に沿って「武者走り」(幅2メートル)が設けられている。また凸状土塁の南側にも同規模の堀が東西に細長く外周の辺りまで続いている。この堀と「武者走り」南端との問に平場(東西10メートル、南北5メートル)が設けられている。